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魔物交渉者 〜「気味が悪い」と追放された斥候は、魔物と交渉するだけで最強の領地を築き上げる〜  作者: 景都 (けいと)
辺境の交渉者

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暗影

「見届けるって言ったでしょ。行くわよ」


 セリアは弓を背中に背負い、砦の門の前で腕を組んでいた。朝露がブーツの先を濡らしている。


「お前、なんでここにいるんだ」


「砦の近くを通りかかっただけ。で、今日がゴブリンの声比べのやり直しだって聞いたから」


「誰から聞いた」


「あのちびっこ。ピッケって子。森の入口で会ったの。身振りだけで半分わかった」


 ナギは額に手を当てた。ピッケの情報漏洩能力は、ゴブリンの外交問題になりかねない。


「危ないぞ。ゴブリンの集落に人間が入るのは」


「あんたが入ってるじゃない」


「俺は魔物語が使える」


「あたしにはこれがある」


 セリアが背中の弓を叩いた。その目に迷いはない。ナギは溜息をついた。


「……ついてくるなら、絶対に矢を抜くな。何があってもだ」


「わかってるわよ」


* * *


 深緑の森を半刻ほど歩くと、ゴブリンの集落が見えてきた。丸太と泥で作られた住居が数十棟。煙が数本、木々の隙間から立ち上っている。


 前回とは空気が違った。


 集落の入口に、武装したゴブリンが並んでいる。槍を持った戦士が十体。その先頭に、前回の声比べでは見なかった顔が立っていた。


 筋骨隆々のゴブリン。額に二本の傷跡がある。耳に通した骨飾りは六つ。ゴルドの三つの倍だ。


【人間。名を言え】


 低い声だった。ゴルドの思慮深い声とは違う。圧がある。


「ナギだ。長老ゴルドに招かれて来た」


【ゴルドが招いた? 長老は勝手に招く権利などない。声比べで決めることじゃ】


 ナギの横で、セリアの体が強張った。ゴブリン語はわからないはずだが、空気を読む力はある。


「あんた、まずいの?」


「まずくはない。予想の範囲だ」


 嘘だった。この戦士は想定外だ。ナギは記憶を探った。ゴルドが言っていた。反対派の中心人物。名前は確か……。


【俺はガルガ。戦士長じゃ。声比べには立ち会う。だが、お前が変なことをすれば……】


 ガルガが槍の石突きを地面に叩きつけた。鈍い音が集落に響いた。


【叩き潰す】


「わかった。変なことはしない」


 ナギは両手を見せて、集落の中に足を踏み入れた。セリアが半歩後ろをついてくる。周囲のゴブリンたちの視線が、二人に突き刺さっていた。


* * *


 広場に、三百近いゴブリンが集まっていた。


 前回の声比べと同じ光景。だが今回は、中央にキノコの籠が置いてある。ナギが砦で育てたキノコだ。母親が昨日運んできたもので、拳大の白い傘が六つ、みずみずしく並んでいる。


 ゴルドが長老の座から立ち上がった。


【皆の者。声比べのやり直しじゃ。人間ナギの提案を、もう一度聞け】


 ざわめきが広場を満たした。ナギは中央に進み出た。三百の視線が肌を刺す。喉の奥で音を組み立て、ゴブリン語を紡ぐ。


【聞いてくれ。砦の水で、キノコが育った。集落の菌床より早く、大きく育った】


 ナギは籠のキノコを一つ持ち上げた。白い傘がぷるりと揺れる。近くのゴブリンたちが身を乗り出した。鼻をひくつかせている。匂いで品定めをしているのだ。


【この水を使えば、毎日これだけのキノコが手に入る。子供にも、年寄りにも、戦士にも。腹を空かせる日がなくなる】


 広場の前列にいた子供のゴブリンが、キノコに手を伸ばした。母親が慌てて引き戻す。だがその母親自身も、目がキノコから離せないでいた。


 声の色が変わっている。前回のような敵意ではない。興味だ。ピッケの母親が腕を組んで頷いているのが見えた。彼女の周りの農耕担当たちも、互いに顔を見合わせている。


 だが——。


【待て!】


 ガルガが前に出た。太い腕を振り上げ、広場の声を黙らせた。


【この人間の後ろに、別の人間がいるぞ!】


 広場が凍った。三百の目がナギの後ろのセリアに向いた。セリアの肩がびくりと跳ねた。


「あんた、あたしのこと言ってる?」


「違う。もっとまずい話だ」


 ガルガがナギに向き直った。


【ワシは見たぞ。森の外で、甲冑の人間がこの砦を見張っておった。望遠の目で覗いておった。お前が呼んだのか?】


【知らない。俺はそんな人間を呼んでいない】


【嘘だ! 人間は群れる生き物じゃ。一人来れば、すぐに群れが来る。お前が水と引き換えに、人間の群れをこの森に招き入れるつもりじゃろう!】


 広場のざわめきが一変した。賛成に傾きかけていた空気が、一気に反対に引き戻される。ゴブリンたちの目に、再び警戒の色が滲んでいた。


 ナギは歯を食いしばった。甲冑の人間。心当たりがないわけではない。王国の斥候だ。だが、なぜ砦を見張っている?


【ナギよ】


 ゴルドの声が、静かに割り込んだ。


【この者の言うことは本当か。お前の知らぬ人間が、砦の近くにおったのか】


【……本当かどうか、俺にはわからない。だが、俺が呼んだのではない。それだけは断言する】


【断言だけでは足りぬ】


 ゴルドの目が揺れていた。信じたいが、証拠がない。長老とはいえ、多数決に逆らうことはできない。


【声比べは——保留とする。人間の甲冑者の正体がわかるまで、決は取らぬ】


 ガルガが鼻を鳴らした。


【正体などわかるものか。人間は人間じゃ。信用ならぬ】


 広場のゴブリンたちが頷く。数の力が、ガルガの側にある。


 ナギの爪が掌に食い込んだ。ピッケの母親と目が合った。彼女は唇を噛んでいた。賛成の声を上げたかったはずだ。だがガルガの告発の前では、農耕の長の発言力も及ばない。


 黙って集落を後にした。セリアが隣を歩いている。森の中を抜ける間、どちらも口を開かなかった。


* * *


 砦に戻ると、門の前に白いものが落ちていた。


 石畳の上に置かれた羊皮紙。四つ折りにされ、赤い蝋で封がしてある。蝋の刻印は、翼を広げた鷲。王国軍の紋章だった。


 ナギは紙を拾い上げた。封を割り、中身を開く。


「何、それ」


 セリアが横から覗き込んだ。ナギは黙って読んだ。


 一行だけだった。


『辺境の魔物の動向を報告せよ。さもなくば、反逆者として処断する』


 署名。斥候隊長ヴェルク。


 ナギの指が紙を握りしめた。皺が寄り、インクが歪む。


「……知り合い?」


「俺を追放した男だ」


 セリアの目が見開かれた。


「追放しておいて、まだ命令してくるの?」


「そういう男なんだ。使えるものは使い捨てる。捨てた後もまだ絞ろうとする」


 ナギは羊皮紙を見つめた。ヴェルクの几帳面な筆跡。最後に見たのは、追放の辞令に書かれた同じ字だった。


 追放された。もう王国の兵士ではない。なのに、まだ利用しようとしている。そして、ガルガが目撃した「甲冑の人間」は、おそらくヴェルクが送った密偵だ。


 ナギを監視している。ゴブリンとの交渉を、どこかから見ている。


 セリアが口を開いた。


「その紙、どうするの」


 ナギは羊皮紙を焚き火に放り込んだ。紙が炎に舐められ、端から黒く縮んでいく。ヴェルクの署名が、灰になった。


「こうする」


 セリアは何も言わなかった。だがその緑色の目に、微かな光が灯ったのをナギは見た。


 炎が紙を呑み込んだ。火の粉が一つ、夜空に舞い上がった。


 王国は、まだ手を伸ばしてきている。ゴブリンの信頼を取り戻すには、まずこの「甲冑の人間」の正体を突き止めなければならない。


 ナギは東の闇と、南の村の灯りを順番に見た。敵は魔物の中にはいなかった。人間の中にいる。

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