種火
キノコが枯れている。
ピッケが差し出した籠の中身を見て、ナギは眉をひそめた。乾いた茶色の塊が三つ。ゴブリンの主食であるはずの森キノコが、干からびて縮んでいる。
【これしか、ない】
子供のゴブリンは大きな目を伏せた。木の人形を胸に抱えたまま、もう片方の手で籠を持ち上げている。耳の先が垂れていた。ゴブリンが落ち込んでいるときの仕草だと、最近わかってきた。
「最近ずっとこうなのか?」
ナギはゴブリン語に切り替えた。
【うん。おかあが言ってた。水がないから、キノコがしぬって】
水不足。ゴルドが言っていた泉の涸渇が、食料にまで影響している。ナギは砦の井戸を振り返った。石組みの縁から、今朝汲んだ水桶が光を反射していた。
「ピッケ。お前のおかあに聞きたいことがある。ここに連れてこられるか?」
【おかあ? でも、おかあは人間がこわい】
「俺は怖くないだろ?」
【ナギは、こわくない。でも、おかあはナギを知らない】
「だから知ってもらうんだ。まあ、話してみないとわからないだろ」
ピッケは少し考えて、それからこくりと頷いた。木の人形をぎゅっと握り直してから、茂みの中に走っていく。小さな緑色の背中が、葉の間に消えた。
ナギは枯れたキノコを手のひらで転がした。軽い。水分がまるで残っていない。泉が涸れてから、ゴブリンの集落ではこんな状態が続いているのだろう。
声比べを覆すには、多数派の利益が要る。前回は「水の取引」を持ちかけた。だが三百のゴブリンにとって、「水」は抽象的すぎた。目の前のキノコ。これが、答えかもしれない。
* * *
ピッケの母親は、ナギより頭二つ分ほど低かった。
だが目つきは鋭い。ゴブリンの農耕担当というだけあって、腰にはキノコの菌床を削る道具を幾つもぶら下げている。ピッケの手を握ったまま、砦の中庭で足を止めた。
【子に恩を売って、親を釣るつもりか。人間の手口は聞いておる】
ナギは両手を広げた。
「手口も何も、聞きたいことがあるだけだ。キノコの栽培条件を教えてほしい」
【なぜ人間がキノコの育て方を知りたがる】
「お前たちの食料が足りないなら、一緒に解決策を考えた方がいいだろう。ここには水がある」
ナギは井戸に歩き寄り、桶を引き上げた。透明な水が縁からこぼれ、石畳に波紋を描く。
母親の目が、水に釘付けになった。
【……触っていいか】
「好きなだけ」
母親は恐る恐る井戸に近づいた。片手を水に浸し、引き上げ、匂いを嗅ぎ、舌先で舐めた。その一連の動作に迷いはない。水の質を見極める専門家の仕草だった。
【清い。この水は、地の底から湧いておる。魔素も混じっておらぬ】
「キノコに使えるか?」
母親はまだ答えなかった。井戸の周りを一周し、石組みを指で叩き、水面を覗き込んだ。それからピッケを見た。子供は木の人形を抱えたまま、母親の裾をつかんでいた。
【……使える。だが、水だけでは足りぬ。床がいる。腐った木と、湿った土と、暗い場所が】
「暗い場所なら、砦の中にある」
ナギは砦の北側の壁に沿って歩いた。半壊した部屋の一つ。屋根は落ちているが、壁は三面残っている。日が差さず、石壁が湿気を保っている。地面には腐りかけた梁の残骸が転がっていた。
母親が部屋に入った。壁を触り、床を踏み、天井を見上げた。
【ここなら——育つ】
その声の響きが変わった。警戒が消えたわけではない。だが、そこに別の色が混ざっていた。職人が素材を見つけた時の、抑えきれない関心。
「試してみないか。お前の技術と、ここの水と場所を合わせれば、キノコは育つ」
【育ったとして、それは誰のものになる】
「半分がお前たちのもの。半分が俺のもの」
母親の目が細まった。
【半分? 水と場所を出して、半分しか取らぬと?】
「お前たちの技術がなければ、俺にはキノコは育てられない。技術料だ」
沈黙が落ちた。母親はピッケの頭に手を置いた。子供は目をぱちぱちさせながら、大人たちの会話を見上げている。
【……試すだけだ。うまくいくかはわからぬ】
「それでいい」
ナギは笑った。母親は笑わなかったが、耳の先がわずかに持ち上がった。
* * *
三日後。
砦の北側の部屋に、キノコの菌床が六つ並んでいた。
初日は母親が一人で黙々と作業をした。ナギが手伝おうとすると、鋭い目で睨まれた。
【触るな。人間の手は荒い。菌を壊す】
二日目からは指示が飛んできた。水を運べ。土を掘れ。梁を砕け。ナギは言われるがまま動いた。母親の命令は的確で、無駄がない。農耕の長という肩書きは伊達ではなかった。
三日目の朝。母親が菌床の状態を確かめている。ピッケもついてきて、ナギの足元をうろうろしていた。
「どうだ?」
ナギが部屋を覗くと、母親が菌床の一つを持ち上げていた。その表面に、白い糸のようなものが広がっている。
【根が張った】
母親の声が震えていた。
【三日でこの根の張り方は——集落の菌床より早い。水が違う。この水は、キノコに合っておる】
「つまり、うまくいきそうか」
【うまくいく。間違いなく育つ】
母親が振り返った。その目に浮かんでいるのは、驚きと、それから奥の方にちらつく熱。子供に腹いっぱい食わせられるかもしれない。そんな計算をしている目だった。
【集落に帰って話す。声比べのやり直しを求める】
「お前が?」
【ワシは農耕の長じゃ。食の話なら、ワシの声は重い】
母親はピッケの手を引いて、砦を出ていった。門をくぐる直前に振り返り、一瞬だけナギを見た。
【人間。名を聞いておらなんだ】
「ナギだ」
【ナギ。覚えておく】
小さな背中が二つ、森に消えていく。ナギは門柱に寄りかかって、息を吐いた。指先の力が抜けていくのを感じた。交渉は水物だ。だが今回は、手応えがあった。
多数決を動かすには、多数派の利益を示すしかない。「水をやる」では抽象的すぎた。だが「キノコが育つ」は違う。目に見える。食える。腹が膨れる。ゴブリンが最も理解しやすい形の利益だ。
声比べのやり直し。次こそ——。
* * *
夜。
砦の中庭で焚き火を前にしていると、それは来た。
東の空気が、震えた。
音というより振動だった。地面を這うように伝わってきた低い唸りが、足の裏から背骨に突き抜ける。焚き火の炎が一瞬揺らぎ、砦の壁に映った影がぶれた。
ナギは立ち上がった。
赤土の丘陵の方角。砦から半日ほどの距離。そこから、獣の咆哮が聞こえていた。ゴブリンのものではない。もっと太く、もっと深く、もっと大きい。
魔物語が、その声の意味を拾った。
【——喰わせろ】
たった一言。だがその一言に込められた感情は、飢餓そのものだった。腹の底が冷える。何かが、丘陵で飢えている。
ナギは東の闇を睨んだ。森の木々の向こうに、赤土の丘陵が夜空を切り取っているのが微かに見える。
ゴブリンとの声比べがやり直しになる。それは前進だ。だがこの砦の東にも、別の問題が動き始めている。
風が東から吹いた。乾いた土の匂いの中に、獣の体臭が混じっていた。
焚き火が爆ぜた。火の粉が舞い上がり、闇の中に散っていく。
ナギは砦の壁に背を預けた。東の方角から目を逸らさないまま、声比べの準備と、まだ見ぬ脅威への対処を同時に考え始めた。
一つ解決すれば、次の問題が現れる。辺境とは、そういう場所だ。




