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魔物交渉者 〜「気味が悪い」と追放された斥候は、魔物と交渉するだけで最強の領地を築き上げる〜  作者: 景都 (けいと)
辺境の交渉者

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狩人

矢が飛んできた。


 ナギの顔の横、拳一つ分の距離を風が切り裂いた。矢は背後の石壁に突き刺さり、羽根が震えている。


「動くな!」


 女の声だった。


 砦の門の向こうに、弓を構えた人影が立っていた。逆光で顔は見えない。だが構えは正確で、次の矢が弦に番えられている。狩人だ。しかも腕がいい。


「あんた、何者? この砦は誰も住んでいないはずよ」


 ナギは両手を上げた。今週だけで二度目の「武器を持っていない」のポーズだ。ゴブリンの次は人間。どちらにも警戒される自分が、少し可笑しかった。


「通りすがりの……いや、住人だ。最近住み始めた」


「住人?」


 女が門をくぐって中庭に入ってきた。赤銅色のショートヘアが日差しに光る。緑色の目が、猟犬のようにナギを品定めしていた。革のベストに膝丈のズボン、使い込んだブーツ。背中に狩猟用の短弓を背負っている。


「ハグレ村の狩人よ。砦の近くまで獲物を追ってきたの」


「ハグレ村。南の村か」


「知ってるの?」


「煙が見えていた」


 女が弓を下ろした。完全にではない。片手はまだ弦に添えたままだ。


「あたしはセリア。あんたは?」


「ナギ。元斥候」


「元?」セリアの眉が上がった。「軍をクビになったってこと?」


「追放された。理由は……まあ、長くなる」


「言いなさいよ。怪しすぎるわ」


 ナギは短く説明した。魔物語というスキルを持っていること。そのスキルのせいで軍を追い出されたこと。この砦に流れ着いて住み始めたこと。


 セリアの表情が、説明が進むにつれて変わっていった。警戒から困惑へ、困惑から不審へ。


「魔物と話す? 嘘でしょ」


「嘘じゃない」


「証拠は?」


「今すぐは見せられない。ゴブリンが来ればわかる」


「ゴブリン?」セリアの手が弓に戻った。「この砦にゴブリンが来るの?」


「たまに。この辺りは彼らの縄張りの端だ」


「冗談じゃない。ゴブリンは害獣よ。畑を荒らし、家畜を襲う。あんた、そんな連中と……」


 セリアの言葉が途切れた。


 茂みが揺れたからだ。


 門の横の灌木の影から、小さな影が飛び出した。緑色の肌。大きな丸い目。木の人形を胸に抱えた子供のゴブリンだ。昨夜、砦に来たあの子だった。脚を直してやった人形を大事そうに握っている。


 子供のゴブリンはナギを見つけて駆け寄ろうとした。だが三歩目で、セリアの存在に気づいた。足が止まる。


 セリアの体が動いていた。


 弓を構え、弦を引く。一連の動作は考えるより速かった。狩人の反射だ。獲物を見た瞬間に弓を引く。矢の先が、子供のゴブリンの額に向けられていた。


 ナギは走った。


 セリアと子供の間に飛び込み、背中で子供を庇った。矢の穂先が、ナギの鼻先に迫っている。弦の軋む音が、鼓膜に響いていた。


「待て。こいつは子供だ。敵じゃない」


 セリアの目が揺れた。弓を引く腕が震えている。矢は放たれなかった。


 背中に小さな手がしがみついた。子供のゴブリンが、ナギの革鎧の裾を握りしめている。木の人形がナギの背中に押し付けられていた。温かい。ゴブリンの体温は人間より少し高い。


 子供の目が、ナギの肩越しにセリアの弓を見つめていた。丸い瞳が潤んでいる。


【こわい……】


 小さな声が、ナギの耳にだけ届いた。


「……子供?」


 セリアの声が掠れていた。弓を持つ手が、まだ震えている。


「魔物に——子供なんて——」


「いるよ。人間と同じだ。生まれて、育って、遊んで、笑う」


 ナギは振り返り、子供の頭に手を置いた。ゴブリン語で囁く。


【大丈夫だ。あの人間は撃たない】


 子供はナギの脚にしがみついたまま、恐る恐る顔を上げた。涙が丸い頬を伝っている。


 セリアの弓が、ゆっくりと下がった。


 矢筒に矢を戻す指が、まだ震えていた。緑色の目がゴブリンの子供を凝視している。子供は木の人形を胸に押し当てて、ナギの脚の後ろから半分だけ顔を覗かせていた。片方の大きな目だけがセリアを見つめている。


 セリアの唇が微かに動いた。何かを言いかけて飲み込んだ。敵意ではなかった。もっと複雑な何かが、その瞳に渦巻いていた。


「……あたしの父さんは、魔物に殺された」


 セリアの声は低かった。独り言のような、誰かに聞いてほしいような。


「三年前よ。村一番の狩人だった。森の奥で——魔物に襲われて——」


 言葉が途切れた。セリアの視線が、子供のゴブリンからナギに移った。


「あんたは、あいつらの言葉がわかるんでしょ。教えて。魔物はなんで人を殺すの。楽しいから? 本能だから?」


「理由はそれぞれだ」ナギは言った。「追い詰められて牙を剥く奴もいる。縄張りを守るために殺す奴もいる。人間が先に手を出す場合もある」


「父さんは手を出したりしない!」


 セリアの叫びが中庭に響いた。子供のゴブリンがびくりと体を震わせ、ナギの脚をさらに強く握った。


 ナギは黙った。セリアの父が何をしたか、何をしなかったか、知る術はない。だが、ここで言い返しても意味がない。


「……すまない。お前の父親のことは知らない」


 セリアは息を吐いた。肩の力が抜けるのが見えた。目の縁が赤い。


「……あたしも、取り乱した。ごめん」


 子供のゴブリンが、ナギの脚から手を離した。木の人形を胸に抱き直し、セリアの方をちらりと見て、それから小走りに門を抜けて森に消えていった。


 二人きりになった中庭に、沈黙が落ちた。井戸の方から風が吹いて、焚き火の灰が舞い上がった。


「……あんた、次もあの子を連れてたら、あたしは弓を引かない」


 セリアが言った。背中を向けて、門に向かいながら。


「でも、大人のゴブリンが来たら別よ」


「大人のゴブリンも、子供と同じだよ」


 ナギの声に、セリアの足が止まった。振り返らない。だが足は動かない。


「びびってるだけだ。人間を見ると体が強張るんだよ。俺たちがゴブリンを見た時と同じだ」


 セリアの背中が揺れた。拳が腿の横で握られ、開かれ、また握られた。


 父を殺した魔物も、びびっていたのだろうか。あの日、森の奥で父に牙を向けた獣も、ナギの言うように体が強張っていたのだろうか。


 その問いに答えを出せないまま、セリアは森の方角に歩き去っていった。ブーツが枯葉を踏む音が、一歩ごとに遠ざかっていく。一度だけ足が止まりかけて、すぐにまた歩き出した。


 ナギは門柱に背を預けた。彼女の姿が木々の間に消えるのを見送る。


 南の村に、狩人がいる。魔物を憎み、父の仇を抱えた少女。だが弓を下ろした。子供のゴブリンを見て、弓を下ろした。


 それは、小さな変化だ。だが確かな変化だった。


 ナギは空を見上げた。雲が東に流れている。赤土の丘陵の方角だ。


 あの丘の向こうに、オーク族がいる。森には三百のゴブリン。南には人間の村。西には灰色の沼地。


 この砦は、四つの世界の境界線の上に建っている。


 境界線の上で暮らすには、全方位との交渉が必要だ。ゴブリンの声比べはまだ覆せていない。村の人間は魔物を恐れている。やるべきことは山積みだ。


 だが今日、二つの収穫があった。ゴブリンの子供が信頼を寄せてくれたこと。人間の狩人が弓を下ろしたこと。


 砦の焚き火に、新しい薪をくべた。炎が揺れて、石壁を照らした。


 明日から、また動こう。

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