瓦解
「報告書が書けん」
ヴェルクは羊皮紙を丸めて机に叩きつけた。野営テントの中に乾いた音が響く。卓上には書きかけの報告書が三枚、どれも途中で筆が止まっていた。
テントの入り口で控えていたマルコが、肩を竦めた。
「辺境南部のゴブリンの動向予測……ですか」
「それだ。以前は2週間先の群れの移動まで読めていた。今は3日先すらわからん」
ヴェルクはペンを放り出し、椅子に背を預けた。軍服の襟元を緩める。常に着崩さないこの男が襟を緩めるのは、相当追い詰められている証拠だった。
「ナギがいた頃は、斥候任務の損耗率は半分以下でした」マルコが呟いた。声は小さかったが、テントの中では十分に聞こえた。
「名前を出すな」
「……失礼しました」
マルコは口を閉じたが、その目は言っていた。あなたが追い出したんでしょう、と。
ヴェルクにはわかっている。ナギのスキルの価値を、誰よりも理解していたのは自分だ。だが「獣語りの乱」の汚名を背負った兵を隊に置き続ければ、上官の覚えが悪くなる。出世の階段に、ナギは邪魔だった。
ただ、それだけのことだ。
「……次の巡回は第三分隊を出せ。南西の丘陵沿いだ」
「了解しました。ですが隊長、先月の巡回で第三分隊は2名負傷しています。補充なしでは——」
「わかっている。だが他に出せる隊がない」
ヴェルクは窓布の隙間から外を見た。曇り空の下に広がる辺境の森。あの森のどこかで、追い出した男が何をしているのか。考えたくもなかった。
* * *
ナギはゴブリンの集落の広場に立っていた。
二度目の訪問。今度は自分から出向いた。
森の中を半時歩くと、もう道順を覚えていた。斥候の習性で、一度歩いた道の地形は頭に刻まれる。目印の苔むした岩。二股に分かれた大楢の木。右に曲がると沢が見え、沢沿いに上ると集落に出る。
集落の入り口で、番をしていたゴブリンの兵士がナギを見て目を丸くした。だが槍は向けなかった。前回の訪問で、長老が「通せ」と命じたのだろう。
ゴルドは広場の焚き火の傍らに座っていた。ナギは井戸の水を詰めた革袋を背から下ろし、長老の前に差し出した。
【これが砦の水だ。飲んでみてくれ】
ゴルドが革袋を受け取り、一口含んだ。白い眉が動いた。
【冷たい。……美味いな】
【砦の井戸は生きている。毎日、これだけの水が汲める】
ゴルドは革袋を傍らに置き、ナギを見つめた。
【それで、取引の中身は何じゃ】
【砦の井戸を、お前たちに開放する。水を汲みに来ていい。その代わり、俺を敵と見なさないでほしい。共に暮らしたい】
ゴルドは長い沈黙の後、立ち上がった。
【声比べで決める。皆を集めよ】
広場にゴブリンたちが集まり始めた。仕事の手を止め、住居から這い出し、木の上から降りてくる者もいた。子供も老人も、部族の全員が広場を埋めていく。
百を超えるゴブリンの前で、ナギは魔物語で語りかけた。
【俺はナギだ。人間の軍を追われ、砦に住んでいる。お前たちの泉が涸れたと聞いた。砦の井戸には水がある。俺は、その水を分かち合いたい】
声が広場に響いた。人間が魔物語を話す異様な光景に、ゴブリンたちの目が釘付けになっている。だが驚きが収まると、別の感情が顔に浮かび始めた。
【信用できるか!】
広場の左端から、太い声が上がった。筋骨たくましいゴブリンの戦士が腕を組んで立っている。ガルガだ。反対派のまとめ役らしく、周囲の戦士たちが同調するように胸を張った。
【人間が我らに水をくれる? 罠に決まっておる!】
【そうだ! 水場に誘い出して、まとめて狩るつもりだ!】
【人間を信じるな!】
反対の声が広場を覆い始めた。一人が叫べば、二人が同調する。三人が叫べば、十人がついてくる。多数決文化の力学だ。声の大きい方に、群れは流れる。
ナギは声を張り上げた。
【俺は一人だ。罠を張る仲間もいない。お前たちは三百人だ。一人の人間が、三百のゴブリンを騙せると思うか?】
一瞬、広場が静まった。だがガルガが鼻で笑った。
【口の達者な奴ほど危ない。じいさまの、そのまた前のじいさまが言っておった】
笑いが広がった。反対の空気が、再び勢いを取り戻す。
ゴルドが片手を挙げた。
【声比べじゃ。賛成の者は声を上げよ】
賛成の声が上がった。だが数は少ない。ゴルドの周囲にいる長老派の数十人だけだ。
【反対の者】
反対の声が、広場を震わせた。壁のような音圧。比べるまでもなかった。
否決。
ゴルドが静かにナギの方を向いた。
【すまんな、ナギよ。ワシは賛成じゃ。だが、数が足りぬ】
ナギは拳を握った。爪が掌に食い込む。わかってはいた。「水をやる」だけでは足りない。ゴブリンにとって、人間への不信は水不足よりも大きい。不信を超える「具体的な利益」を見せなければ、多数決は動かない。
だがその利益が何なのか、まだ見えなかった。
【……わかった。もう一度、考え直す】
ナギは頭を下げ、集落を後にした。背中に、ガルガの嘲笑が刺さった。
【二度と来るなよ、人間!】
* * *
砦に戻り、中庭の焚き火の前に座り込んだ。
夕日が砦の壁を赤く染めていた。崩れた見張り台の影が中庭を横切り、井戸の石組みに長い影を落としている。
膝を抱え、炎を見つめた。否決された。話が通じても、信頼がなければ何も動かない。ゴルドは味方だが、長老一人の力では多数決を覆せない。
木の実を齧りながら考えた。声比べで反対に回ったゴブリンたちの顔を思い出す。怒っていたのではない。怯えていたのだ。人間を知らないから、信用できない。知らないものを怖がるのは、人間もゴブリンも同じだった。
どうすればいい。三百のゴブリンの心を、一人の人間が動かすには。
「……人間との交渉の方が、まだ楽だったかもしれないな」
呟いた言葉が、自分でも空しく響いた。人間との交渉も、結局うまくいかなかったくせに。
焚き火が爆ぜた。
その音に紛れて、小さな足音が近づいてきた。
ナギが顔を上げると、門の柱の影に小さな影が立っていた。子供のゴブリンだ。集落の広場でナギの足に触ろうとして、親に引っ張り戻された子だ。
子供は片手に何かを持っていた。おずおずと、柱の影から一歩踏み出す。松明のような目が、ナギをまっすぐに見つめていた。
差し出されたのは、木の人形だった。
丸太を削って作った、不恰好な動物の形。脚が一本折れている。
【……直して】
小さな声だった。震えているが、逃げ出しはしない。
ナギはその目を見つめた。百を超えるゴブリンの声比べでは負けた。だがこの子供は、多数決の外にいた。大人たちが「人間を信じるな」と叫ぶ中で、一人で砦まで来た。
多数決は覆せなかった。だが、一人のゴブリンの心は動いた。
ナギは人形を受け取った。折れた脚を見つめ、それから短剣の柄を外して、鞘の革紐を一本抜いた。折れた脚を添え木で固定し、革紐で縛る。不格好だが、立てるようにはなった。
子供に返すと、丸い目がさらに丸くなった。
【……ありがとう】
子供は人形を胸に抱きしめて、闇の中に走り去った。小さな足音が遠ざかり、森に消えていく。
ナギは焚き火の前に座り直した。強張った指を、一本ずつ伸ばした。
一人でいい。一人ずつでいい。
明日、もう一度集落に行く。今度は言葉だけじゃなく、目に見える何かを持って。




