謁見
【長老が会うと言っている。ついてこい】
朝もやの中、三体のゴブリンが砦の門に現れた。昨日の偵察兵よりも装備が整っている。革の胸当てに、磨かれた骨の短剣。使者として選ばれた者たちだ。
先頭のゴブリンが腕を振って、北の森を指した。
【早く来い。長老は待つのが嫌いだ】
「行くよ」
ナギは革袋を肩にかけ、短剣を腰に差した。袋の中には、あの紫の実が入っている。
森に入った。
ゴブリンの案内は速かった。身長はナギの腰ほどしかないのに、木の根を跳び越え、低い枝の下をくぐり抜け、獣道ですらない茂みの隙間を迷いなく進んでいく。ナギは斥候の脚力で辛うじてついていったが、何度か頭上の枝に額をぶつけた。ゴブリンの通り道は人間の背丈を想定していない。
先頭のゴブリンが振り返り、ナギの額の赤い跡を見て、小さく笑った。
【でかいと不便だな】
【……否定はしない】
ナギが返すと、ゴブリンは目を丸くした。まだ慣れないのだ。人間が魔物語を話すという事実に。
緑が深くなる。日差しが木の葉に遮られ、空気がひんやりと湿り気を帯びてきた。苔の匂い。腐葉土の匂い。足元の土は黒く柔らかく、踏むたびに微かに沈む。その中に、かすかに煙の匂いが混じっている。
歩きながら、ナギは周囲に耳を澄ませた。森の奥から、ゴブリンたちの生活音が届いてくる。子供の笑い声。木を叩く音。何かを煮る土鍋の匂い。集落が近い。
半時ほど歩いた頃、木々の間に光が見えた。
開けた空間に出た。
丸太と泥で作られた住居が数十棟、不規則に並んでいた。屋根にはキノコが生え、壁には紋様が描かれている。赤と黒の幾何学模様。ゴブリンの部族紋だろう。
集落の中央に広場があり、焚き火が燃えていた。その周りにゴブリンたちが集まっている。大人が百体以上。ナギが現れた瞬間、無数の視線が突き刺さった。
【人間だ……】
【本当に来やがった】
【でかい。臭い】
子供のゴブリンが親の脚にしがみついて、大きな目でナギを見上げていた。好奇心と警戒が入り混じった視線だ。一体の子供が、そっと手を伸ばしてナギの足に触れようとして、親に引っ張り戻された。
広場の奥に、一際大きなゴブリンが座っていた。
身長は百十センチほど。ゴブリンにしては大柄だ。肌の緑は深く、白くなった頭髪が肩まで伸びている。左耳に三つの骨飾りがぶら下がっていた。
長老ゴルドだ。
ゴルドは座ったままナギを見上げた。いや、見上げているのに、目線は見下ろしている。長く生きた者だけが持つ、値踏みの視線だった。
【人間が我らの言葉を話すとは。面白い。だが、面白いだけでは信用はできぬ】
低い声だった。周囲のゴブリンの甲高い声とは一線を画す、地の底から響くような重み。ナギは膝を折り、ゴルドと目線を合わせた。
【俺の名はナギ。人間の軍に追い出された。この砦で暮らしたい】
【追い出された、と】ゴルドの白い眉が動いた。【人間は、お前を要らぬと言ったのか】
【ああ。俺の声が——お前たちの言葉がわかるこの力が、気味悪がられた】
広場にざわめきが走った。ゴブリンたちが顔を見合わせ、耳をひくひくと動かしている。
【人間に捨てられて、我らの所に来た?】
【犬の真似か】
【情けない奴だ】
嘲笑する声もあった。だがゴルドは黙って聞いていた。骨飾りが微かに揺れる。長老は、まだ判断していない。
ナギは革袋から紫の実を取り出した。
「これは何だ?」
人間語で言ってから、ゴブリン語に切り替えた。
【昨日の返礼に、この実が混じっていた。これは何だ】
ゴルドの目が変わった。丸い瞳の奥に、何かが閃いた。
【お前、それを食ったのか?】
【いや、食べていない】
ゴルドは長い息を吐いた。安堵とも落胆ともつかぬ表情が、皺だらけの顔に浮かんだ。周囲のゴブリンたちが身を乗り出している。この実には、何か意味がある。
【それは『決意の実』じゃ】
ゴルドが立ち上がった。百十センチの体が、不思議な威厳を帯びている。
【食えば三日三晩、眠れなくなる。我らが覚悟を試すときに使うものじゃ。大事な声比べの前に、戦の前に。目を閉じず、逃げず、己と向き合えるかどうか。それを確かめるための実じゃ】
【俺は試されていた、と?】
【そうじゃ】ゴルドが頷いた。骨飾りがかちゃりと鳴る。【偵察兵のリーダー——ガリクが仕込んだ。お前が何者かを、見極めるためにな】
ナギは紫の実を見つめた。小さな実が、掌の上で白い粉を吹いている。これを食べていたら三日間眠れなくなっていた。弱りきった体で三日間の不眠。それがゴブリン流の「覚悟の試し」か。
「食べなくて正解だったのか。それとも、食べるべきだったのか」
人間語の独り言だったが、ゴルドの目がナギを射抜いた。言葉はわからずとも、意図は読み取ったらしい。
【食わなかったことで、お前のことが一つわかった】ゴルドが指を一本立てた。【お前は慎重な男じゃ。知らぬものを恐れ、しかし捨てもしない。ワシは、そういう者は嫌いではない】
嫌いではない。好きだとは言わない。ゴブリンの長老は、慎重にも慎重を重ねている。
【ナギという人間よ。一つ聞きたい】
ゴルドが声を低くした。周囲のゴブリンたちが静まり返る。焚き火の爆ぜる音だけが、広場に響いていた。
【水場を知らぬか】
ナギの背筋が伸びた。
【水場?】
【我らの泉が、涸れた】
ゴルドの言葉に、広場全体がしんと沈んだ。子供のゴブリンが不安そうに親の手を握り、大人たちは目を伏せている。ゴブリンの集落にとって、水は命そのものだ。キノコの栽培にも、日々の生活にも、水がなければ何も回らない。
【半月前に流れが細くなり、十日前に止まった。今は雨水を溜めて凌いでおるが、雨季は終わる。次の雨がいつ来るか、誰にもわからぬ】
ナギは砦の井戸を思い出した。あの井戸は生きている。冷たく澄んだ水が、暗い穴の底に満ちていた。
これは——取引の材料になる。
だが同時に、頭の中で別の声がした。砦の井戸をゴブリンに開放する。それは、人間とゴブリンが同じ水を使うということだ。もし南の村の人間が知ったら、どうなる。魔物と水を分かち合う人間。「獣語りの乱」の亡霊が、また囁き始めるだろう。
ゴルドの目がナギを見つめていた。答えを待っている。
【……一つ、心当たりがある】
ナギは慎重に言葉を選んだ。
【だが、ただで教えるわけにはいかない。取引がしたい】
ゴルドの目が光った。丸い瞳の奥に、老獪な知性が揺れている。
【取引か。面白い。だがナギよ、決めるのはワシではない】
長老が広場を見渡した。百を超えるゴブリンたちが、固唾を呑んでいる。
【皆の声が決める。それが我らの掟じゃ】
声比べ。ゴブリンの多数決。長老でも覆せない絶対のルール。
ナギは広場のゴブリンたちを見回した。百を超える目が、値踏みするように光っている。敵意のある目。好奇の目。冷ややかに腕を組む戦士。子供を庇いながらもこちらを窺う母親。この全員を納得させなければ、取引は成立しない。
長老の信頼を得るだけでは足りない。多数を動かさなければ。
だが——何を提案すればいい。「水がある」と言えば、力ずくで奪いに来るかもしれない。取引にするには、ゴブリンにとって「奪うより取引した方が得だ」と思わせる仕組みが必要だ。
まだ材料が足りない。この集落のことを、もっと知らなければ。
ナギは膝を立て、ゴルドに向き直った。
【……もう少し時間をくれ。提案を考えたい】
ゴルドは白い眉を上げ、それからゆっくりと頷いた。
【よかろう。だが、あまり待たせるな。水がなければ、我らは動かねばならぬ。南の人間の村に向かうか、東のオークの土地を奪うか。どちらにしても、血が流れる】
その言葉は脅しではなかった。事実だ。ゴブリンの三百の命が、水に懸かっている。
帰り道、ナギは案内のゴブリンの背中を見ながら考え続けた。多数決を動かすには、多数派の利益を示す。抽象的な「水の取引」では足りない。ゴブリンにとっての具体的な利益。それが何なのか、まだ見えなかった。




