罠と扉
ヴェルクはペンを持ったまま、窓の外を見ていた。
ハグレ村の宿舎。机の上に羊皮紙が広げてある。まだ一文字も書いていない。
報告書。将軍への報告書。書くべき内容は明確だ。追放者ナギがゴブリン・オーク・スライムと同盟を結び、集落を形成している。戦力は推定四百体以上。これは獣語りの乱の再来の危険がある。討伐軍の編成を進言する。
ペンが紙に触れた。文字が出ない。
窓の外で子供が走っている。手にゴブリンのキノコを持って、笑いながら齧っている。母親が「あんまり食べると夕飯入らないよ」と声をかけている。
村が変わりつつある。ナギが作った集落の品物が流通し始めて、一ヶ月。子供の頬がふっくらしている。鍛冶ナイフのおかげで木の加工が楽になり、新しい家屋の建設が進んでいる。塗り薬が効くと評判になり、隣村からも買いに来る者がいるらしい。
ヴェルクはペンを置いた。
「隊長」
部下が入ってきた。
「何だ」
「猟師のロバンという男が、砦の男に罠を壊されたと申し出ています」
「罠?」
「北の森に仕掛けた顎罠です。五つとも壊されたと」
ヴェルクは立ち上がった。窓際で足を止めた。
追放して終わりのはずだった。辺境に放り出せば野垂れ死ぬか、魔物に殺されるか。どちらにしてもヴェルクの知ったことではなかった。
だが現実は違った。追放した男は生き延びた。生き延びただけではない。魔物を味方につけ、集落を作り、村を潤し始めている。
自分の判断は正しかったのか。
ヴェルクはその問いを振り払い、部下の後を追った。
* * *
場面は朝に戻る。
ナギはセリアと共にハグレ村に向かっていた。昨日壊した罠の件を、先に説明するためだ。
村の入口でロバンが待っていた。腕を組み、目が据わっている。
「俺の罠を壊したな」
「壊した。説明する時間をくれ」
「説明? 五つの罠は俺の飯の種だ。弁償してもらう」
「弁償する。だがまず聞いてくれ。あの罠が仕掛けられていた場所は、森狼族の縄張りだ。子狼が一匹、足を挟まれていた」
ロバンの眉が動いた。
「森狼族だと?」
「灰銀色の狼の群れ。四十頭ほどだ。あの一帯を縄張りにしている。罠を仕掛ければ狼が被害を受ける。狼が怒れば、森で狩りができなくなる」
「狼ごときに遠慮して獲物を逃がせと言うのか」
「遠慮じゃない。共存だ。狼の縄張りを避けて狩りをすれば、狼は人間を襲わない。縄張りを侵せば、狼は報復する。猟師ならわかるだろう」
ロバンは黙った。猟師だ。獣の縄張りは知っている。だが認めたくないのだ。人間が獣に譲る、という構図が。
セリアが前に出た。
「ロバン。あたしの提案を聞いて」
ロバンがセリアを見た。表情が少し緩んだ。村の知り合いだ。
「何だ」
「森狼族の縄張りの外で獲物を追う権利を、橋守の里が保証する。あたしたちが森狼族と交渉して、縄張りの境界を明確にする。それと、壊した罠の分の肉は橋守の里から補填する。オークの狩りの獲物を分ける」
「オークの肉だと?」
「鹿が多い。質はいい。試してみて」
ロバンは腕を組み直した。考えている。猟師の計算が頭の中で回っているのが見える。罠五つ分の獲物と、定期的な肉の補填。どちらが得か。
「……試しにもらおう。一月分だ。質が悪ければ打ち切る」
「いいわ。明後日届ける」
ロバンが背を向けた。二歩歩いて振り返った。
「セリア。お前、すっかりあの砦の人間になったな」
「里よ。橋守の里。名前覚えて」
ロバンは鼻を鳴らして去った。
* * *
村からの帰路。ファングの群れの若い狼が待っていた。ナギの報告を聞いて尾を振り、森の奥に駆けていった。ファングに伝えに行ったのだろう。
砦に戻ると、ガリクが門の前で手を振っていた。
【ナギ! 来てくれ。地下だ】
「地下?」
【昨夜の雨で中庭の地面が崩れた。穴が開いている。中に部屋がある】
ナギは中庭の東側に走った。確かに、地面に穴が開いていた。直径一メートルほど。覗き込むと、暗い空間が広がっている。
トルクが松明を持ってきた。ナギが先に降りた。石段があった。苔に覆われ、滑りやすい。松明の灯りが壁を照らした。
地下室だった。
小さな部屋。三歩四方。壁は切り出した石を積んでいる。砦の建築と同じ石材だ。床は乾いている。棚の残骸らしい木材の破片が散らばっている。
部屋の奥に、石板が一枚立てかけてあった。
ナギは松明を近づけた。石板の表面に文字が刻まれている。風化して読みにくいが、ナギの目が文字の形を捉えた。
魔物語だ。
「これは……」
古い。非常に古い文体。現代のゴブリン語とは語彙が違う。だが構造は同じだ。ナギの魔物語が、古い言葉の意味を少しずつ拾っていく。
『灰嶺の主よ。汝の名を呼ぶ』
ナギの手が震えた。
続きがある。だが文字が風化して、半分以上が読めない。判読できるのは断片だけ。
『我は架け橋なり。汝と人の間に立つ者なり』
「架け橋……」
二百年前の「架け橋」が、この砦から竜に会いに行った記録だ。この砦は、もともと架け橋の拠点だったのだ。
トルクが降りてきた。松明をもう一本持っている。
「何か見つけたか」
「石板だ。二百年前の架け橋が残した記録。竜に関する情報が刻まれている」
「読めるのか」
「半分だけ。風化がひどい。だが……」
ナギは石板を裏返した。裏面にも文字がある。こちらは表面より保存状態がいい。壁に接していたため、風化が少なかったのだろう。
刻まれているのは、竜の名の発音だった。
魔物語の古い記法で、音を表す文字が並んでいる。ナギの魔物語が音を再構成しようとする。だが風化で欠けている部分がある。名前の全体像が見えない。
「竜の名前が書いてある。だが完全じゃない。半分以上が欠けている」
「足りないのか」
「足りない。だが手がかりにはなる。これで竜の名前の一部がわかった」
ナギは石板を慎重に持ち上げた。地上に運ぶ。リーナが目を輝かせて駆け寄ってきた。
「ナギさん、それ何ですか」
「二百年前の交渉記録だ。竜の名前の手がかりが刻まれている」
「手がかり? 竜に名前があるんですか」
「ある。そして名前が、交渉の鍵になる。この石板をリーナに預ける。風化した文字を復元できないか、試してくれ」
「やってみます。スライムの粘液で洗浄したら、浮き上がるかもしれません」
リーナは石板を抱えて薬草小屋に消えた。
ナギは空を見上げた。灰嶺の方角。雲の向こうに、山の稜線がうっすらと見える。
二百年前の架け橋は、あの山に行った。竜の名を呼んだ。そしてこの砦に記録を残した。
ナギは同じ道を辿ろうとしている。竜の名を知り、名を呼び、交渉する。
だが名前がまだ完全ではない。欠けた音を埋めなければ、竜に相手にされない。
ゴブリンの伝承に。オークの古歌に。スライムの記憶に。竜の名の欠片が散らばっているはずだ。
それを集める。全種族の知恵を結集して、竜の名前を復元する。
ナギの拳が握られた。架け橋の後継者として、二百年越しの交渉を完遂する。




