焦土
焼け跡は、まだ煙を上げていた。
ナギは深緑の森の北端を歩いていた。セリアとトルクが左右にいる。ガリクが先行して樹上を飛んでいる。
森は途切れていた。
昨日まで木が生い茂っていた区画が、黒い灰と焦げた幹だけの平原に変わっている。地面に残った根が赤く燻っている。空気は乾いて熱い。焦げた樹皮の匂いが鼻を突く。
「ゴブリンの採集地だ。ここでクロキノコを採っていた」
ガリクが木の残骸の上に降り立った。骨飾りが揺れている。顔が険しい。
【クロキノコは五年かけて育つ。全部灰になった】
「他の採集地は」
【三つのうち、ここだけが焼けた。北に最も近い場所だ】
ナギは焼け跡の端に立った。北を見る。灰嶺の山肌が近い。頂上は雲に隠れているが、中腹に黒い岩肌が見えている。あそこに竜がいる。
「一晩で、これだけの範囲を焼いたのか」
トルクが周囲を見回した。焼け跡は幅百歩、奥行き五十歩ほど。小さな集落一つ分の面積だ。
「竜のブレスなら、この程度は一息だろう」
「一息で、五年分のキノコが消えた」
ナギは地面に手を触れた。まだ温かい。
* * *
砦に戻った。ナギはゴルド、ボルガ、スライムの出張所、そしてファング——ではなく、ファングの代理としてガリクが同席し、四者会議を招集した。中庭の焚き火を囲む車座。ゴルドが北側、ボルガが東側、スライムの水たまりが西側、ナギが南側。
「竜が火を吐いた。森の北端が焼けた。ゴブリンの採集地が一つ失われた」
ゴルドの顔に深い皺が刻まれた。
【やはりか。昨夜の光を見て、嫌な予感がしておった】
「このまま放置すれば、被害は広がる。竜が完全に目覚めれば、森全体が焼ける可能性がある。沼地も干上がる。丘陵の牧草も枯れる。全種族に影響する」
ナギはゴブリン語で話し、続いてオーク語に変換し、スライムの水たまりに触れて概念を送信した。三言語を順番に操る。額に汗が滲む。通訳だけで消耗する会議だ。
ボルガが腕を組んだ。
【戦うか】
「竜にか?」
【竜にだ。全オークと全ゴブリンが組めば、数は四百を超える。弓と槍で攻める】
ゴルドが首を振った。
【馬鹿を言うな。竜は一息で百人を焼く。四百でも足りぬ】
【逃げるか】
【逃げてどこへ行く。南にはハグレ村がある。東には人間の領地。西は沼地。北は竜。逃げ場はない】
スライムの概念が流れてきた。
【データ不足。竜の行動パターンが不明。判断を保留する。追加データの収集を推奨】
「保留か」
【合理的判断には十分な情報が必要。現在の情報量では最適解を導出できない】
ナギは苦笑した。スライムは正直だ。正直すぎて役に立たないこともある。
全員が黙った。ゴブリンは逃げたい。オークは戦いたい。スライムは判断しない。三者三様。まとまらない。
「俺は、第四の選択肢を提案する」
全員の視線がナギに集まった。
「交渉する」
沈黙。焚き火が爆ぜた。
ゴルドが杖を握り直した。
【竜と話すのか。竜が言葉を持つかどうかも、わからぬぞ】
「スライムの群体知性に聞いた。竜は言葉を持つ。だが、誰も聞き取ったことがないだけだ」
ボルガが低く唸った。
【千年の歴史で、竜と話した者はいない。ワシの祖父の祖父の代まで遡っても、そんな話は聞いたことがない】
「だから俺が最初の一人になる」
【正気か】
「正気だ。戦えば全滅する。逃げれば行き場がない。竜の行動データが足りないならスライムの言う通りだが、データを集めるには近づくしかない。近づくなら、殺されないように話すしかない」
ボルガは唸ったまま黙った。否定はしなかった。
ゴルドが茶を啜った。
【お前が行くと言うなら、止めはせぬ。だが、無謀に死ぬなよ。お前が死ねば、この里は通訳を失う。通訳のない里は、声を失った里じゃ】
「死なない。死ぬ気で行くんじゃない。生きて帰る気で行く」
トルクが壁にもたれていた。腕を組んだまま、会議を聞いていた。
「一つ聞いていいか」
「何だ」
「竜に会いに行くのはいい。だが道が問題だ。灰嶺に行くには深緑の森を北に抜ける必要がある。あの辺りは誰の縄張りだ」
ガリクが答えた。
【森狼族だ。灰銀色の狼の群れ。四十体ほどいる。嗅覚が鋭く、嘘をつくと匂いでわかるとされている。あの辺りを通るのは危険だ】
「森狼族との接触が必要か」
「ああ。竜に会う前に、まず狼に会わなければならない」
ナギは頭の中で段取りを組み立てた。まず森狼族の縄張りを通る許可を得る。次に灰嶺に到達する。そして竜と話す。三段階。どの段階にも失敗の可能性がある。
セリアが弓を肩にかけて近づいてきた。
「また一人で全部考えてるでしょ」
「考えなきゃ進まない」
「考えるのはいいけど、一人で抱え込むのはやめて。あたしたちがいるでしょ」
ナギはセリアを見た。緑色の目が真っ直ぐにこちらを見ている。
「ああ。すまない」
「謝らなくていい。相談して」
* * *
会議の後。リーナがナギを呼び止めた。
「ナギさん、ちょっといいですか」
リーナは手帳を広げた。薬師見習いの手帳には、薬草の配合だけでなく、スライムとのやり取りの記録もびっしり書かれている。
「スライムの群体知性に、一つ聞いたんです。『竜は言葉を持つか?』って」
「何と返ってきた」
「『持つ。だが、誰も聞き取ったことがない』。ここまではナギさんが会議で言った通りです。でもその後、追加情報がありました」
リーナは手帳のページをめくった。
「『竜の言語は魔物語の中で最も古い層にある。現存する全種族の言語の原型とされる。だが情報密度が極めて高く、受信するには通常の魔物語の十倍以上の処理能力が必要』」
ナギは黙った。
「ナギさんの魔物語は、ゴブリン語とオーク語とスライムの概念言語を処理できます。でも竜の言語は、そのどれとも次元が違うみたいです」
「十倍か」
「十倍以上です。ナギさん、スライムの接触通信でも鼻血が出ますよね。竜の言語を聞いたら、どうなると思いますか」
ナギは自分の手を見た。ゴブリン語、オーク語、スライムの概念言語。三つの種族の言葉をこの手で掴んできた。だが竜は次元が違う。
「覚悟はしている」
「覚悟じゃ鼻血は止まりません。薬を作ります。脳の負荷を軽減する薬草の配合を考えてみます。灰嶺に行く前に、必ず渡しますから」
「頼む」
リーナは手帳を閉じた。小さな背中が薬草小屋に消えていく。
ナギは見張り台に登った。北を見る。灰嶺。あの山に竜がいる。言葉を持つが、誰も聞き取ったことがない存在。
ゴブリンの言葉は、感情と生活の言語だった。オークの言葉は、力と誇りの言語だった。スライムの概念言語は、情報と論理の言語だった。
竜の言葉は、何の言語なのか。
ナギにはまだ、想像もつかなかった。
セリアが梯子を登ってきた。弓を背負ったまま、ナギの隣に立った。風が短い髪を揺らしている。
「会議、聞いてた。竜と話すんでしょ」
「話さなきゃならない」
「森狼族にも」
「そっちが先だ。灰嶺への道を通してもらわないと、竜のところに辿り着けない」
「あたしも行くからね」
「弓は狼にも効かないかもしれないぞ」
「だから何よ。あんたの隣にいるのに、武器は関係ないでしょ」
ナギは何も言えなかった。セリアは北の山を見つめている。焼け跡の煙がまだ薄く立ち上っている。
「ねえ、ナギ」
「何だ」
「竜って、怖い?」
「怖い」
「素直ね」
「嘘をついても仕方がない。森狼族には嘘が通じないらしいから、今から練習しておく」
セリアが小さく笑った。ナギも笑った。だが二人の目は、北の山から離れなかった。




