追放者の帰還
ヴェルクは馬上から辺境の景色を見ていた。
枯れた草原。灰色の空。街道は轍が消えかけ、人の往来が少ないことを示している。背後に兵が十名。全員、黙っている。
左遷だ。
斥候隊長の肩書きは残っている。だが辺境の監視任務は、事実上の懲罰人事だった。ナギを追放した判断に異論はなかったはずだ。魔物の言葉を解する人間など、軍にとって不気味な存在でしかない。将軍もそう考えていたはずだ。
だが追放後、辺境の報告が変わった。ゴブリンの動きが安定した。オークの襲撃が減った。密偵が送った報告書には、信じがたい内容が書かれていた。
追放した男が、魔物と集落を作っている。
「隊長、ハグレ村が見えます」
部下の声にヴェルクは顔を上げた。丘の向こうに、小さな村の屋根が見える。煙が数本立ち上っている。
村に入った。
最初に目についたのは、市場の品物だった。木の台に並んでいるのは、見慣れない品々。大ぶりのキノコ。異様に鋭い刃のナイフ。緑色の軟膏が入った小壺。
「あれ、砦の品ですよ」
部下が指差した。村人の女がキノコを手に取り、匂いを嗅いでいる。
「このキノコ、ゴブリンのやつだって。味は保証するよ。先月から買ってるけど、外れがないから」
女は隣の村人にそう言った。ゴブリンのキノコを、人間が買っている。ヴェルクの顎が強張った。
村長の家に向かった。ドムスという名の、太った中年の男。ヴェルクが名乗ると、村長は露骨に身構えた。
「王国軍の方がこんな辺境に何用で」
「辺境の監視任務だ。北の砦に追放者がいると聞いた」
「ナギさんのことですか」
さん付けだった。ヴェルクの眉がぴくりと動いた。
「あの方は砦で集落を営んでおられます。ゴブリンやオークと取引をしていまして、うちの村にも品物を卸してくれています」
「魔物と取引だと?」
「品質は確かですよ。ゴブリンのキノコは味がいいし、オークの鍛冶ナイフは刃こぼれしません。あと薬師の女の子がいましてね、塗り薬が効くんですよ」
ヴェルクは黙った。村長の顔には、恐怖も嫌悪もない。ただ実利を語る顔だ。辺境の村は生き延びるために必要なものを取る。それが魔物の品でも構わない。
* * *
宿をとった夜。ヴェルクは窓から北を見ていた。
暗い森の向こうに、砦の方角がある。焚き火の光は見えない。だが確かにそこに、集落がある。追放した男が作った集落が。
部下の一人が近づいてきた。
「隊長。辺境の監視任務とは……斥候隊長の仕事ではありませんな」
「黙れ」
「失礼しました。ですが、ガレス将軍への報告書はいつ——」
「書く。書くから黙っていろ」
部下が下がった。ヴェルクは机に向かい、羊皮紙を広げた。ペンを手に取る。
報告書。書けばいいだけだ。追放者ナギが辺境で魔物と結託し、集落を形成している。これは獣語りの乱の再来の危険がある。討伐が必要。
ペンが紙に触れた。だが文字が出ない。
ヴェルクはペンを置いた。
* * *
場面は砦に戻る。
地鳴りから三日。ナギはゴルドの住居にいた。長老の部屋は薄暗く、キノコの培地の湿った匂いが満ちている。壁に古い布がかかっている。ゴブリンの文様が描かれた祭祀の布だ。
「竜について、知っていることを全て教えてくれ」
ゴルドは茶を啜り、目を閉じた。記憶を辿っている。
【深緑の森の北端に、灰色の嶺がある。ワシらは灰嶺と呼ぶ。あの山に竜が棲むのは、ワシの婆さまの婆さまの時代から言い伝えられておった】
「百年以上か」
【もっとじゃ。二百年は下らぬ。最後に竜が動いたのは、婆さまの婆さまが子供の頃じゃと】
「動いた時に、何が起きた」
【森が焼けた。山に近い森が。ゴブリンは南に逃げた。それだけじゃ。竜は森を焼いた後、また眠った】
「なぜ森を焼いたんだ」
【知らぬ。竜の考えは、ゴブリンには分からぬ】
ナギはボルガにも聞いた。
オークの族長は腕を組んで唸った。
【オークの鍛冶には古い祈りがある。『竜の炎を借り受け、鉄に命を吹き込む』。竜の炎が最も熱い火とされておった。灰嶺の竜が鍛冶の神に火を与えた、という伝説じゃ】
「竜と接触した記録はないのか」
【ない。近づいた者は皆死んだ。竜は人間もゴブリンもオークも区別せぬ。全て塵じゃ】
「全て塵か」
【お前、まさか竜と話すつもりか】
「話さなければならない。竜が魔素を吸い上げている。このまま続けば沼地が干上がり、森が枯れる。お前たちの牧草地も影響を受ける」
ボルガの眉が寄った。
【魔素の吸い上げだと? だから最近、鍛冶の炉の火が弱いのか】
「おそらく。魔素は炉の燃焼にも関わっている」
ボルガは低く唸った。鍛冶師にとって炉の火は命だ。それが弱くなるのは、直接の脅威だった。
【ワシは竜と戦う気はない。だが、お前が話すなら止めはせぬ。死ぬなよ】
「死なないように努力する」
* * *
スライムの群体知性にも情報を求めた。
沼地の本体に触れ、概念を受信する。頭痛は慣れてきたが、長時間の接触は今も鼻血を誘う。
【北の山脈の存在に関する追加データ。覚醒の第二段階を確認。魔素吸収量は第一段階の三倍に増加。完全覚醒まで推定40日から60日。完全覚醒後の行動パターンは予測不能】
「四十日から六十日か」
【訂正。竜の行動が予測不能のため、誤差は大きい。早まる可能性がある】
ナギは指を離した。四十日。それが猶予の最長だ。
砦に戻り、セリアとトルクに報告した。
「竜が完全に目覚めるまで、長くて60日。短ければ40日」
「それまでに何をするの」
「情報を集める。ゴブリンの伝承、オークの古歌、スライムの記憶。竜について知れることは全て知った上で、会いに行く」
トルクが酒瓶を置いた。
「一人で行く気か」
「最初は一人だ。竜がどんな反応をするかわからない。全員で行って全滅するわけにはいかない」
「俺が行く」
「お前が死んだら誰が薪を割るんだ」
「お前が死んだら誰が通訳するんだ」
二人は睨み合った。セリアが間に入った。
「二人とも死なないの。あたしが護衛するから」
「弓は竜に効かないぞ」
「知ってる。でもあんたの背中は守れる」
ナギは反論しなかった。
その時、ガリクが駆け込んできた。息を切らしている。耳の骨飾りが揺れている。
【ナギ! 南から人間の兵が来る! 十人。先頭の男は、お前と同じ斥候の服を着ている】
ナギの体が強張った。
竜の脅威。スライムの警告。集落の命名。そして今、追い出した男がやってくる。北からは竜、南からはヴェルク。橋守の里は、両側から挟まれつつあった。
セリアが弓を取った。
「あいつよね。あんたを追放した」
「ああ。ヴェルク。元上官だ」
「何しに来たの」
「ろくなことじゃないだろうな」
ナギは中庭を見回した。ゴブリンたちが不安そうにこちらを見ている。ゴルドが杖をついて立ち上がった。ボルガが鍛冶場から出てきた。全員が気づいている。人間の兵が近づいていることに。
リーナが小声で聞いた。
「戦いになりますか」
「ならない。させない」
ナギは深く息を吸った。ヴェルク。ついに来た。
トルクが大剣に手をかけた。
「迎えに行くか?」
ナギは首を振った。
「門を開けろ。逃げも隠れもしない」




