等価交換
【有機廃棄物の処理を行う。代価として、魔素含有鉱水を定期供給せよ】
二度目の接触。ナギは群体知性の触手に指を当て、流れ込む概念を一つずつ受け止めていた。鼻の奥がじわりと熱くなる。また出血が始まっている。
だが今日は昨日より聞き取れる。スライムの概念言語に、脳が少しずつ馴染んでいた。
「読み取れたか」
トルクが岩場の端に立ち、周囲を警戒している。セリアは弓を構えたまま、群体知性を睨んでいた。
「ああ。取引の中身が見えた」
ナギは指を離し、鼻を袖で拭った。赤い染みが広がる。
「スライムは有機廃棄物を食って生きている。枯葉、動物の死体、腐った木材。何でも分解する。見返りに欲しいのは、魔素を含んだ水だ」
「魔素を含んだ水って、うちの井戸水じゃない」
セリアが眉を寄せた。核心を突いている。
「そうだ。砦の井戸には微量の魔素が含まれている。スライムはそれを知っている」
「だが井戸水はゴブリンとの取引の核だぞ」
トルクが振り向いた。その通りだ。ゴブリンのキノコ栽培には魔素を含んだ水が不可欠で、砦の井戸水は集落の生命線になっている。スライムにも回せば、ゴブリンへの供給量が減る。
「ゴルドは何と言うかな」
「渋い顔をするだろうな」
* * *
渋い顔どころではなかった。
【馬鹿を言うな】
ゴルドは杖を地面に叩きつけた。焚き火の前で、老いた顔に深い皺が刻まれている。
【井戸水はワシらの命の水じゃ。キノコが育たなくなれば、食い物がなくなる。スライムに分けろだと? 冗談ではない】
「わかっている。だからこそ、等価交換にする。ゴルドに聞きたい。ゴブリンの住居の雨漏り、まだ直っていないだろう」
ゴルドの眉が動いた。
【……何の話じゃ】
「雨季のたびに天井から水が漏れて、キノコの培地が台無しになる。去年は3回やり直したと聞いた」
【それがどうした】
「スライムの粘液は防水材になる。木材や布に塗れば、水を通さない膜ができる。群体知性に確認した」
ゴルドの杖が止まった。
【……防水じゃと?】
「ゴブリンの住居の屋根に塗れば、雨漏りが止まる。キノコの培地も守れる。スライムの粘液と引き換えに、井戸水の一部を回す。どうだ」
ゴルドは黙った。長い沈黙。焚き火が爆ぜる音だけが響く。
【一部とは、どれだけじゃ】
「全体の2割。リーナが計算した。キノコの栽培に必要な最低量は確保できる」
【リーナが?】
「あの子は薬師だが、計算もできる」
ゴルドは茶を啜った。啜りながら考えている。目が炎の光を映して揺れていた。
【……試してみるか。だが、粘液の質が悪ければ打ち切りじゃぞ】
「もちろんだ」
* * *
次はボルガだった。
オークの族長は鍛冶場で鉄を叩いていた。ナギが事情を説明すると、槌を振り下ろす手を止めずに答えた。
【スライムとの取引か。ワシには関わりがない】
「ある。スライムの粘液は鍛冶にも使える。錆止めの被膜になる」
槌が止まった。ボルガの目が光った。
【……錆止めじゃと?】
「群体知性に確認した。粘液を鉄に薄く塗って乾燥させると、水と空気を遮断する。ゴブリンのナイフを村に卸す時、錆びない加工ができれば値が上がるだろう」
ボルガは槌を作業台に置いた。太い腕を組む。
【代価は何じゃ】
「有機廃棄物だ。鍛冶で出る木炭の灰、家畜の糞。スライムの食料になる」
【ゴミをやるだけでいいのか】
「ゴミがスライムの命を繋ぐ。命は等価だ」
ボルガは低く唸った。オークの承認の声。
【面白い男じゃ、お前は。ゴミで命を買うとは】
* * *
三日後。循環型の等価交換が回り始めた。
砦の井戸水の二割がスライムの群体知性に運ばれる。ガリクの偵察班が毎朝、木の桶で沼地の縁まで運搬する。
スライムの粘液がゴブリンの住居に塗られる。リーナが濃度を調整し、ゴブリンの職人が刷毛で天井に塗った。雨の日に試したところ、一滴も漏れなかった。ゴルドは何も言わなかったが、杖で天井を叩いて三回頷いた。
オークの鍛冶場では、ボルガが粘液を薄く延ばして鉄製品に被膜を作っていた。乾燥した粘液は透明な薄膜になり、刃物の表面を覆う。水に三日浸けても錆びない。ボルガは鉄の表面を指で撫で、満足げに鼻を鳴らした。
有機廃棄物は集落中から集められ、沼地の縁に置かれた。スライムの個体が這い寄り、ゆっくりと分解していく。ゴブリンのキノコの培地の残り。オークの家畜の糞。人間の食べ残し。すべてがスライムの栄養になる。
井戸水はスライムへ。粘液はゴブリンとオークへ。廃棄物はスライムへ。三角形の循環。誰も損をしない取引。
「ナギさん、すごいです。ゴミが回って全員が得をしてます」
リーナが目を輝かせて帳簿をつけている。取引量と品質の記録。薬師見習いの几帳面さが、集落の会計係に転用されていた。
「すごいのは俺じゃない。スライムが提案してきた取引だ。俺は仲介しただけだ」
「仲介できるのがすごいんですよ」
ナギは苦笑した。リーナに言われると、照れくさい。
* * *
夕方。沼地の縁に、小さな水たまりが一つできていた。
スライムの「出張所」だ。群体知性から分離した小さな個体が、砦の近くに常駐するようになった。拳二つ分の透明な塊が、ゆっくりと脈動している。
リーナが嬉々として粘液のサンプルを採取していた。小瓶に少量ずつ入れ、ラベルを貼っている。
「粘液の成分を分析したいんです。薬にも使えるかもしれません」
「勝手に採りすぎるなよ。スライムにも限界がある」
「わかってます。ちゃんと群体知性に許可を取りました。ナギさん経由で」
ナギは出張所の水たまりに手を翳した。小さな触手が指先に触れる。
軽い接触。負荷は小さい。出張所の個体は群体知性の一部だが、情報量が限定されている。ナギの頭痛も軽くて済む。
概念が流れ込んだ。
定型の報告。取引は順調。魔素含有水の質は良好。粘液の生産を拡大する準備がある。
そして最後に、追加情報。
【等価交換として提供する。北の山脈の存在について】
ナギの指が止まった。
【我々の記憶に該当するデータがある。北の山脈の存在は、古い。非常に古い。我々の群体が成立する以前から存在する。それは、眠っている。だが近く目覚める。魔素の吸い上げは、覚醒の前兆だ】
ナギは指を離した。
眠っている、古い存在。覚醒の前兆。
魔物語の語彙が、スライムの概念に一つだけ既知の言葉を当てはめた。ゴブリンの古い伝承に出てくる言葉。オークの鍛冶祈りの歌に織り込まれた音。
竜。
「ナギ、どうした。顔色が変わったぞ」
トルクが薪を割る手を止めてこちらを見ている。
「北の山に、竜がいるかもしれない」
薪割りの音が止まった。焚き火の前のゴルドが顔を上げた。リーナの小瓶が手から滑り落ちた。セリアだけが動かなかった。弓の弦を張り直す手が、一瞬だけ震えた。
「竜って、あの竜? 御伽噺の?」
「御伽噺じゃない。スライムの群体知性は嘘をつかない。感情がないから、嘘をつく理由がない」
ゴルドが杖をついて立ち上がった。老いた体が、焚き火の灯りに照らされている。
【竜か。ワシの婆さまが語っておった。灰色の山には、古い主がおると】
「知っていたのか」
【知っておった。じゃが、百年以上眠っておるものを起こす必要はないと思っておった】
「向こうが起きようとしている」
ゴルドは黙った。杖を握る手に力がこもっている。
セリアが弓を背負い直した。
「竜が目覚めたら、どうなるの」
「わからない。だがスライムの沼が干上がるほどの魔素を吸い上げている。森にも影響が出るだろう。丘陵の牧草も枯れるかもしれない」
「全部じゃない」
「全部だ。この辺り一帯の、全種族に影響する」
沈黙が落ちた。焚き火の爆ぜる音。遠くでゴブリンの子供が笑う声。平和な集落の夕暮れ。だがその北の空に、灰色の山が暗く聳えている。
ナギは北を見た。
あの山に、竜がいる。眠りから覚めようとしている。
ゴブリンと、オークと、スライムと、人間の集落を作った。だがその先に待っているのは、御伽噺の中にしかいないはずの存在との対峙だ。
交渉できるのか。竜と。
ナギの手が震えた。




