沼地の声
「足、抜けなくなった」
セリアが片足を泥に取られて顔をしかめている。膝まで沈んだブーツを両手で引っ張るが、沼地の泥は容赦なく吸いつく。
「動くな。もがくと深くなる」
トルクが腕を伸ばし、セリアの手首を掴んで引き上げた。ずぶ、と音がして足が抜けた。ブーツの表面に灰色の粘液がまとわりついている。
「最悪。なんでこんな場所に来なきゃいけないの」
「スライムに会いに来た。俺が昨夜聞いた声の主を探す」
ナギは霧の中を歩きながら、足元に注意を払っていた。灰色沼地。橋守の里から西に半刻。霧が地面から立ちのぼり、十歩先が見えない。空気は湿って重い。吸い込むと喉の奥に苦い味が広がる。
透明な塊が地面を這っていた。拳大のスライムだ。枯れ葉や虫の死骸を覆い、ゆっくりと溶かしている。ナギが魔物語で呼びかけた。
【聞こえるか】
反応はない。個体には知性がない。ただの消化装置だ。
「こいつらは違う。群体にならないと意思が生まれない」
「群体って、どこにいるんですか」
ガリクが木の枝の上から周囲を見回している。ゴブリンの偵察兵は地面より高い場所が好きだ。耳に付けた骨飾りが霧の中で揺れていた。
【ナギ、あっちに光が見える。緑色だ】
ガリクが指差した方角に、霧を通して淡い緑色の燐光が明滅していた。ナギたちはそちらに向かった。
* * *
半日歩いた。
足元は泥濘み、木の根は滑り、霧は晴れない。セリアは三回転び、トルクは一度も転ばず、ガリクは一度も地面に降りなかった。
沼地の中央に巨大な岩場があった。灰色の平たい岩が水面から突き出ている。その上に——ナギは息を呑んだ。
数百のスライム個体が融合していた。
家屋ほどの半透明の塊。内部に緑色の燐光が脈打つように明滅している。表面は絶えず波打ち、形を変え続けている。ある部分は固く、ある部分は水のように流れる。
「でかい……」
セリアが弓に手をかけた。トルクが大剣の柄を握る。
「武器は要らない。こいつは話しに来た相手だ」
ナギは岩場に足を踏み入れた。群体知性の表面が波紋を広げる。ナギの存在を感知している。
魔物語で呼びかけた。
【俺はナギ。橋守の里から来た。昨夜、お前の声を聞いた】
表面が震えた。だが返答は来ない。
ゴブリン語でもオーク語でもない。スライムの「言語」は根本的に違う。感情がない。抑揚がない。意味の塊が、純粋な情報として並んでいるだけだ。ナギの耳が拾う断片は、言葉というより数式に近かった。
【等価……交換……提案……応答……】
頭が痛い。こめかみの奥で何かが軋む音がする。ゴブリン語を初めて聞いた時の十倍の負荷。脳が新しい体系を受け入れようとして、既存の回路と衝突している。
「ナギさん、顔色が——」
「大丈夫だ。黙ってろ」
ナギは目を閉じた。耳で聞くのではなく、全身で受け止める。魔物語のスキルが、体の奥底で軋みながら広がっていく。
スライムの言語に、感情はない。だが「構造」がある。情報の配列に規則性がある。ナギはその規則を手探りで掴もうとした。
等価交換。提案。応答を求める。
三つの概念が、繰り返し配列されている。最も基本的な通信フォーマット。相手に「取引がしたい」と伝えるための呼びかけだ。
「聞こえた。こいつは取引を持ちかけている」
「スライムが?」
セリアが怪訝な顔をした。ナギは群体知性に一歩近づいた。
【聞こえている。提案の内容を示せ】
群体知性の表面から、一本の触手が伸びた。
透明な、指ほどの太さの突起。先端がナギの方に向かって、ゆっくりと近づく。
「ナギ!」
「触らせる。これが、こいつの通信手段だ」
触手がナギの指先に触れた。
冷たい。だが冷たさは一瞬で消えた。代わりに、頭の中に情報が流れ込んだ。
映像でも音声でもない。純粋な「概念」。
沼地の水位が下がっている。過去三ヶ月で二割の減少。原因は魔素の流れの変化。北の山脈で何かが大量の魔素を吸い上げている。スライムの群体は魔素を含む水で生きている。水が減れば群体は縮小する。個体が死ぬ。記憶が失われる。
ナギは指を離した。鼻血が一筋、唇を伝って落ちた。
「ナギさん!」
「平気だ。読み取れた」
ナギは岩の上に座り込んだ。額を押さえる。頭痛が脈打っている。だが受け取った情報は明確だった。
「スライムの沼が干上がりかけている。原因は北の山脈だ。何かが魔素を吸い上げている」
トルクが北を見た。霧の向こうに、灰色の山の稜線がうっすらと見える。
「何かって、何だ」
「わからない。スライムもわかっていない。だが、恐れている」
「スライムが恐れる?」
「群体知性には感情がない。だが『存続への脅威』は認識できる。こいつにとって、北の山脈で魔素を吸い上げている存在は、存続を脅かす脅威だ」
セリアが腕を組んだ。弓を背負い直す。
「で、取引の中身は」
「まだ全部は読み取れていない。接触するたびに頭が割れそうになる。今日はここまでだ」
ナギは立ち上がった。群体知性に向かって魔物語で告げた。
【明日、また来る。提案の詳細を聞かせろ】
群体知性の表面が一度だけ大きく波打った。肯定の応答だと、ナギは直感的に理解した。
* * *
帰路。霧の中を歩きながら、ナギは自分の手を見た。
指先がまだ痺れている。スライムの接触型通信。触れることで概念を受信する。今までの魔物語とは根本的に違う使い方だ。
「ナギさん、鼻血が止まりませんよ」
ガリクが心配そうに覗き込んでいる。ナギは袖で鼻を拭った。
「魔物語の負荷だ。新しい種族の言語に触れるたびに、こうなる」
「ゴブリンの時も?」
「ゴブリンの時は頭痛だけで済んだ。オークの時は三日寝込んだ。スライムは、たぶんもっとひどい」
トルクが黙って歩いていたが、不意に口を開いた。
「無理するなよ」
「無理しないと話が進まない」
「お前が倒れたら、話は永遠に進まなくなる」
ナギは反論できなかった。
砦の門が見えてきた。ゴルドが焚き火の前で茶を啜っている。ナギの顔を見て、老いた目が細くなった。
【血が出ておるぞ】
「知ってる」
【新しい言葉を覚えたか】
「覚えかけだ。明日もう一度行く」
ゴルドは茶を一口啜った。
【急ぐな。言葉は、急いで覚えると壊れる】
ナギは笑った。ゴブリンの長老は、いつも正しいことを言う。
見張り台に登った。北の山を見る。灰色の稜線。あの向こうで、何かが魔素を吸い上げている。スライムが恐れるもの。
セリアが隣に来た。
「鼻血、止まった?」
「止まった」
「嘘。まだ滲んでる」
セリアが手拭いを差し出した。ナギは受け取って鼻を押さえた。
「明日も沼地に行くの?」
「ああ」
「あたしも行く」
「また泥に嵌まるぞ」
「次は嵌まらない。今日で学んだから」
ナギは手拭いの上から笑った。セリアは笑わなかった。ナギの鼻を、真剣な目で見ている。
夕暮れの風が吹いた。北の山脈の方角から、かすかな振動が伝わってきた。地鳴りではない。もっと微細な、大気の震え。
ナギの魔物語が、無意識にその振動を拾った。意味は読み取れない。だが存在だけは感じた。北の山に、何かがいる。巨大な何かが、息をしている。




