集落
「ナギさん、見てください!」
リーナが砦の中庭を駆けてきた。両手に金属容器を抱えている。蓋を開けると、淡い緑色の軟膏が詰まっていた。
「トリカブトの解毒薬、完成しました! ハナさんの配合で作って、私が濃度を調整しました。オークの家畜に試したら、症状が止まったんです!」
「本当か」
「本当です! ボルガさんが『この薬師は使える』って。ナギさん、通訳して褒めてるのか怒ってるのか確認してもらえます?」
「褒めてる。オーク語で『使える』は最上級の賛辞だ」
リーナの顔が輝いた。腕まくりをした小さな腕に、薬草の汁が緑色の線を描いている。
グレンデの砦が集落になって、十日が過ぎていた。
* * *
朝。井戸の周りにゴブリンが並んで水を汲んでいる。その横で、オークの鍛冶師が炉に火を入れた。ふいごの音が砦に響く。
ゴブリンの子供ピッケが、オークの子供と追いかけっこをしていた。ピッケの身長は膝丈。オークの子供でも人間の大人ほどある。だがピッケは怯まない。木の上に登ってオークの子供の頭に木の実を落としている。オークの母親がそれを見て、低く笑った。
ナギは中庭の隅で、トルクと並んで朝飯を食っていた。ゴブリンのキノコ粥に、オークの干し肉を乗せたもの。味は悪くない。
「なあ、ナギ。お前の集落、名前がないぞ」
「名前?」
「『グレンデの砦』じゃ廃墟の名前だ。集落なら集落の名前が要る」
「考えたこともなかったな」
「考えろ。名前がない場所には人は集まらない」
ナギはキノコ粥をすすりながら考えた。名前。この場所の名前。
セリアが弓の手入れをしながら横に来た。
「名前の話? あたしにも考えさせて」
「案があるのか」
「まだない。でも、あんたが一人で決めるのは違うでしょ。ゴブリンとオークにも聞かなきゃ」
「それは声比べか。名前で揉めたら面倒だな」
セリアが笑った。
午後。ナギはハグレ村に向かった。村長ドムスとの約束の品を届けるためだ。
ゴブリンのキノコ三籠。オークの鍛冶ナイフ五本。リーナの塗り薬十個。これが「一月の試し」の初回納品だ。
村の入口で、意外な人物が待っていた。猟師のロバンだ。
「ナギ、だったか」
「ああ」
「砦の薬は本物か」
「リーナが品質を保証してる。試してみればわかる」
ロバンは黙ってナギの手から薬を一つ受け取った。蓋を開けて匂いを嗅ぎ、指先につけて舐めた。
「……苦いが、悪い薬じゃなさそうだ」
「毒じゃないぞ」
「わかってる」
ロバンは薬を懐にしまった。ナギを見ている目は敵意ではなかった。だが友好でもない。判断を保留している目だ。
「セリアに伝えてくれ。話す準備ができたら、村に来いと」
「伝える」
ロバンが背を向けた。三歩歩いて、振り返った。
「お前の集落、名前はあるのか」
「まだない」
「名前がない場所に品物を納めるわけにはいかない。帳簿に書けないからな」
村の実務的な理由だった。ナギは苦笑した。名前を決めなければならない理由が、また一つ増えた。
* * *
夕暮れ。砦の見張り台。
ナギは四方を見渡した。北の森からゴブリンの歌が微かに聞こえる。東の丘陵でオークの鍛冶の火が赤く光っている。南にハグレ村の煙。西に灰色沼地の霧。
この場所は、四つの領域の交差点だ。
セリアが梯子を登ってきた。弓を背負ったまま、ナギの隣に立った。
「村にキノコ届けてきたんでしょ。反応は」
「悪くなかった。ロバンが薬を一つ持っていった」
「ロバンが?」
「お前に話す準備ができたら村に来い、と言っていた」
セリアは黙った。夕陽が赤銅色の髪を照らしている。風が短い髪を揺らした。
「あたし、村には帰らない」
「いいのか」
「いいの。帰る場所は、もうここだから」
ナギはセリアを見た。セリアは前を向いている。緑色の目が、沈む太陽を映している。
「ここにいる理由は何だ」
「何よ、急に」
「いや、聞いておきたかった」
セリアが弓の弦を一度だけ弾いた。乾いた音が夕空に消えた。
「最初は、あんたが胡散臭かったから見張りに来た。次は、ゴブリンの子供が気になったから。その次は、オークの集落が見たかったから」
「今は」
「今は」
セリアがナギの方を向いた。夕陽を背にしていて、表情が影になっている。
「あんたの通訳がないと、ゴブリンのおばちゃんとキノコの話ができないでしょ」
「それだけか」
「それだけよ」
セリアの手が見張り台の縁に置かれた。ナギの手の隣。今度は、指先が触れた。小指の先が、かすかに重なった。
二人とも、手を引かなかった。
夕陽が沈んでいく。森の木々が黒いシルエットになる。空が紫から紺に変わっていく。
「名前、考えた?」
セリアが聞いた。
「一つだけ」
「何」
「橋守の里」
セリアが首を傾げた。
「橋守?」
「ボルガが教えてくれた古い言葉がある。種族の間に立つ者を『架け橋』と呼ぶらしい。二百年前に最後の架け橋が死んだと」
「あんたがその架け橋ってこと?」
「大層すぎるな。だが、この場所が橋になればいい。ゴブリンと、オークと、人間の。だから橋を守る里だ」
セリアは黙って考えていた。やがて、小さく頷いた。
「悪くない。ゴルドとボルガに聞いてみなさいよ」
「明日、声比べにかける」
「声比べで名前を決めるの? 揉めるわよ」
「揉めるのが日常だ。慣れた」
セリアが笑った。ナギも笑った。見張り台の上で、二つの影が夕闇に溶けていく。
その時だった。
西の灰色沼地から、奇妙な光が明滅した。緑色の燐光が、霧の中で点滅している。ナギの耳が拾った。微かな声。人間の声でもゴブリンの声でもオークの声でもない。もっと低い、もっと——異質な波動。
【契約……希望する……等価交換を……】
ナギの背筋に冷たいものが走った。
「何。どうしたの」
「沼地から声が聞こえた」
「声? 何の?」
「スライムだ。群体知性を持つスライムが、俺に接触してきた」
セリアの目が大きくなった。灰色沼地。あそこに棲むスライムは個々には知性がない。だが群体になると——意思を持つ。
【等価交換……提案がある……応答を求める……】
声は繰り返されている。機械的だが、確かに意思がある。第三の種族が、集落に加わりたがっている。
「今日は行くな。夜に沼地は危険だ」
「わかってる。明日、調べる」
ナギは沼地の方角を見つめた。ゴブリン、オーク、そしてスライム。この集落はまだ成長する。
見張り台を降りようとした時、ガリクが駆けてきた。
【ナギ! 村から使者が来た! 人間の兵士だ!】
門の前に、一人の兵士が立っていた。王国軍の制服。だが階級章は外されている。顔に見覚えがあった。
マルコ。ナギが斥候隊にいた頃、唯一友好的だった同僚。
「久しぶりだな、ナギ」
「マルコ。なぜここに」
「伝えに来た。ヴェルクが辺境に赴任する。お前のいる辺境の監視任務だ」
ナギの拳が握られた。追い出した相手が、今度は上官として来る。
「将軍の命令か」
「左遷だ。ヴェルクは追い詰められている。だからこそ危険だ。追い詰められた人間は何をするかわからない」
マルコはナギの背後を見た。砦の中庭で、ゴブリンとオークが焚き火を囲んでいる。リーナがゴブリンの子供に人間語を教えている。トルクが薪を割っている。
「お前、すごいな。本当に魔物と一緒に暮らしてるのか」
「暮らしてる。お前も来るか」
マルコは苦笑した。
「まだ軍籍がある。だが、ナギ。ヴェルクが来る前に、砦の守りを固めろ。あの男は——お前のやっていることを『獣語りの乱の再来』だと思っている」
マルコは王国軍の書簡を一通置いて、夜の中に去っていった。
ナギは書簡を開かなかった。中身は想像がつく。脅迫か、命令か、あるいはその両方だ。
焚き火の前に戻った。ゴルドが老いた目でナギを見ている。
【客人か】
「昔の仲間だ。厄介な知らせを持ってきた」
【人間の世界も、大変じゃな】
「お互い様だ」
ゴルドが笑った。ナギも笑った。焚き火の灯りが、ゴブリンとオークと人間の顔を同じ色に染めている。
トルクが酒瓶を差し出した。
「飲め。明日からまた忙しくなる」
「ああ。忙しくなる」
ナギは酒を一口飲んだ。喉が焼ける。見上げた空に、星が見え始めていた。
追放されて、砦にたどり着いて、ゴブリンと出会って、セリアと出会って、トルクが来て、リーナが来て、オークと手を組んだ。
廃墟だった砦は、集落になった。
だが物語はまだ始まったばかりだ。西の沼地にはスライムがいる。南の村との関係はまだ脆い。そして東からは、追い出した男が来る。
ナギは星空を見上げた。
セリアが隣に座った。肩が触れた。どちらも動かなかった。
「明日、沼地に行くんでしょ」
「ああ」
「あたしも行く」
「弓は効かないぞ、スライムには」
「あんたの護衛よ。スライム以外に何が出るかわからないでしょ」
ナギは反論しなかった。
焚き火を囲む影は、もう一人ぼっちの追放者のものではなかった。ゴブリンの長老が茶を啜り、オークの戦士が肉を焼き、薬師見習いが星図を描き、元冒険者が酒を飲み、狩人が弓の弦を張り直している。
橋守の里。名もなき集落に、明日、名前がつく。
ナギは酒瓶をトルクに返した。
「ありがとう。ここにいてくれて」
トルクは何も言わなかった。酒瓶を受け取って、もう一口飲んだ。
それで十分だった。




