対峙
【動くな、人間!】
リーダー格のゴブリンが槍を構え直した。だが穂先は震えていた。威嚇ではない。困惑だ。人間が魔物語を話すという事態に、偵察兵たちの判断が追いついていない。
ナギは両手を広げたまま、ゆっくりと膝を折った。ゴブリンと目線の高さを合わせるためだ。見下ろされることを嫌う種族だと、斥候時代の経験が教えていた。
【俺はこの砦に住みたい。お前たちの縄張りは侵さない】
喉の奥で音を組み立てる。人間の声帯ではゴブリン語の高音域が出しにくい。舌の位置を変え、息を短く区切り、意味を音に乗せる。発音はぎこちないはずだが、ゴブリンたちの反応を見る限り、意味は伝わっている。
リーダー格のゴブリンが仲間と顔を見合わせた。大きな耳をひくひくと動かしながら、早口で相談を始める。
【どうする?】
【知らん。こんなこと初めてだ】
【じいさまの、そのまた前のじいさまの話にもないぞ】
【長老に報告しよう。ワシらの判断じゃ手に負えん】
リーダー格がナギに向き直った。槍を下ろしはしないが、殺気は消えている。丸い目がナギの顔をまじまじと見つめていた。
【ここで待て。長老に報告する。逃げたら追う。わかったか】
「わかった」ナギは人間語で答えてから、ゴブリン語で繰り返した。【わかった。ここにいる】
五体の偵察兵のうち三体が、身軽な足取りで森に消えた。残った二体がナギを挟むように座り込む。手には槍を握ったまま、小さな目がまばたきもせずにナギを追っていた。
ナギは背中を石壁に預け、空を見上げた。星が出ている。追放されて四日目の夜。行き場のない人間が、ゴブリンの偵察兵に監視されながら過ごす夜。
笑えてきた。
「……人間との交渉より、よっぽど話が早いな」
独り言に、ゴブリンの監視兵が耳をぴくりと動かした。意味はわからなかったようだ。人間語はゴブリンには聞き取れない。
ナギはそのまま目を閉じた。短剣だけは手の届く場所に置いて。
* * *
夜明けと共に、ゴブリンの監視兵が姿を消した。
取り残されたナギは廃砦の探索を始めた。ここで生きていくなら、この場所を知り尽くす必要がある。
中庭から東に延びる回廊は半分が崩落していたが、奥に兵舎らしき部屋が三つ残っていた。天井に穴が空き、床には枯葉が積もっている。壁を叩くと、石積みの芯はまだしっかりしていた。
「……悪くない。手を入れれば住める」
一番奥の部屋には、木製の寝台の残骸が転がっていた。虫に食われて原形を留めていないが、板材は何枚か使えそうだ。ナギは使える板を選り分けて、中庭の隅に積んだ。
西側には厨房の跡があった。石造りのかまどが二基、壁に沿って並んでいる。煙突は鳥の巣で詰まっていたが、棒で突いて掃除した。かまどの中に残った灰を掻き出すと、底の鉄板はまだ生きていた。
「かまどが生きてるのは運がいい」
かまどの横に、地下へ続く石段を見つけた。
三段降りたところで、瓦礫が通路を塞いでいた。天井の一部が崩落して、石と土が行く手を完全に埋めている。だが隙間から冷たい空気が吹き上げてきた。頬に当たる風には、かすかに湿り気がある。
「地下がある……かなり広いな」
だが今の装備では掘り進めない。これは後回しだ。
井戸に戻り、水を汲み直した。桶を引き上げる腕が重い。三日間まともに食べていない体には、水汲みひとつでも膝が震えた。
砦の外に出て、周囲の地形を歩いて確かめた。北に深い森が広がっている。木々が密集し、下草も茂っている。ゴブリンたちが消えた方角だ。森の入り口に、ゴブリンが通ったと思われる細い獣道が見えた。
東には赤みを帯びた丘陵が連なっていた。乾いた風が吹き下ろしてくる。草は少なく、むき出しの赤土が日差しを照り返していた。
南には遠く煙が立ち上っている。人間の村だろう。距離は半日ほどか。
西は低い灌木の向こうに、灰色の湿地帯が広がっていた。空気が淀んで、かすかに硫黄の匂いがする。
遠くの森から、微かに声が聞こえた。ゴブリンの会話だ。風向きが良いのだろう。
【——水、また減ってたぞ】
【長老が怒る。泉の底が見えてきたって】
【あの人間、本当に井戸を持ってるのか?】
監視兵たちの雑談だった。ナギに聞かれているとは思っていないのだろう。泉が涸れかけている——それは交渉の材料になる。
食料を探して森の縁を歩くと、木の実をいくつか見つけた。斥候の訓練で覚えた種類だ。毒はない。硬い殻を石で割り、中身を齧った。渋いが、腹の足しにはなった。
日が傾く頃、砦に戻った。中庭で火を起こす。斥候時代の乾燥肉が、荷物の底に一切れだけ残っていた。薄くて、掌に載るほどの大きさだ。最後の食料。
焚き火の炎が石壁に影を踊らせていた。ナギは肉を二つに裂き、片方を火の傍らに置いた。見えやすい場所に。見つけやすい場所に。
気配は感じていた。森の縁に複数の目が光っている。ゴブリンの監視だ。朝消えた偵察兵とは別の個体だろう。交代で見張りを続けている。
声が聞こえた。抑えた囁きだが、ナギの耳には届く。
【あの人間、飯を分けてるぞ】
【馬鹿言え。罠だ】
【でも……美味そうだな】
ナギは焚き火に背を向けた。肉を置いた方角を見ないように。贈り物は「見ていない場所」に置くのがゴブリンの作法だ。こちらも合わせる。
「……さて、どう出るかな」
短剣を枕元に置いて横になった。石の床が背骨に食い込む。眠れるとは思わなかった。だが四日分の疲労が体を押さえつけて、意識は泥のように沈んでいった。
* * *
夜明け前に目が覚めた。体中が軋んでいる。石の床で寝た代償だ。首を回すと骨が鳴った。
焚き火は燃え尽きて灰になっていた。ナギは体を起こし、火の傍らを見た。
干し肉が消えていた。
代わりに、そこには木の実が十個ほど積まれていた。丁寧に、崩れないように重ねてある。大きさはまちまちで、種類も三つほどだ。どれもナギが森の縁で拾ったものとは違う、もっと奥の——ゴブリンの領域でしか採れない実だった。
ゴブリン流の「返礼」だ。斥候時代の知識が裏づけていた。ゴブリンは贈り物の文化を持つ。贈られたら、同等のものを返す。その繰り返しが信頼を積み上げる。干し肉一切れに対して、木の実十個。数ではなく「相手の領域のもの」を渡すことに意味がある。
「……話が通じる相手で助かった」
ナギは木の実を一つ手に取った。殻を割り、匂いを嗅ぐ。甘い香りのする白い実だ。口に入れると、じわりと甘みが広がった。腹の底に染みる。
二つ目。これは堅い殻の中に油分の多い種が入っていた。斥候時代の図鑑で見た覚えがある。栄養価が高い。
「ゴブリンの領域でしか採れない実を寄越すか……。律儀な連中だ」
三つ目を手に取った時、指が止まった。
毒々しい紫色をした実だった。表面にうっすらと白い粉を吹いている。大きさは親指の先ほど。ナギの知識にはない種類だ。斥候の図鑑にも、薬草学の教本にも載っていなかった。
鼻に近づけた。甘さはない。代わりに、鼻の奥をつんと刺す鋭い刺激がある。目が覚めるような匂いだ。
「……何だ、これは」
他の木の実と一緒に、同じ山に置かれていた。返礼の一部として。だが意図がわからない。食べろという意味か。あるいは、何か別の意味を持つのか。
ナギは紫の実を革袋にしまった。食べない。わからないものを口に入れるほど愚かではない。だが捨てもしない。
これは会話の糸口になるかもしれない。
井戸の水を汲みながら、北の森を見つめた。木々の向こうに、ゴブリンの集落があるはずだ。偵察兵の報告は、もう長老の耳に届いているだろう。人間が魔物語を話す。その情報が、あの森の奥でどう受け止められているか。
返礼の木の実は、少なくとも敵意の証ではない。だが紫の実だけが引っかかった。
警告か。試しか。それとも——。
答えは、森の向こうにしかなかった。




