礎石
「火だと。どこだ」
ナギは見張り台から飛び降りた。ゴルドの腕を掴む。長老の身体が小刻みに震えている。
【森の南端じゃ。ハグレ村に近い区画。火の手はまだ小さいが、風が北に吹いておる。放っておけば集落に届く】
「セリア! トルク!」
二人が駆けてきた。ナギは走りながら状況を伝えた。
「村の猟師が森に火をつけた。ゴブリンの集落が危ない」
セリアの顔が強張った。
「なんで。どうしてそんなことを」
「ゴブリンを追い出すためだろう。森ごと焼けば、魔物は住めなくなる」
トルクが大剣を背負い直した。
「消火か。それとも村人を止めるか」
「両方だ」
三人は森に向かって走った。ガリクがゴブリンの偵察兵を率いて先行する。
* * *
深緑の森の南端。枯れ葉の積もった地面が、ところどころ赤く燃えていた。
まだ大火ではない。だが乾いた風が煽り、炎が少しずつ北へ広がっている。煙が木々の間に立ち込めて、視界が曇った。
ナギの目が、火元の向こうに人影を捉えた。五人。松明を持っている。先頭に立つ男の顔に見覚えがあった。ハグレ村の猟師だ。以前、村でナギに怒鳴った男。
「やめろ! 森を焼くな!」
ナギが叫んだ。猟師のリーダーが振り返った。
「来たか、魔物の味方。ちょうどいい。お前も焼かれたいか」
「この森にはゴブリンの子供がいる。女も老人もいる。お前たちは何百の命を焼き殺す気だ」
「魔物に命なんてあるか! 害獣だぞ!」
セリアが弓を構えた。矢は猟師の足元に突き立った。
「次は足を射抜く。松明を消して」
「セリア。お前まで魔物の味方か。お前の父さんは魔物に殺されたんだぞ」
セリアの弓が揺れた。だが引き絞ったまま下ろさなかった。
「父さんの話はするな。あんたに、父さんのことを語る資格はない」
膠着した。猟師たちは松明を下ろさない。セリアは弓を下ろさない。炎は広がり続けている。
ゴブリンの偵察兵たちが木々の間から姿を現した。槍を構えている。猟師たちの顔が青ざめた。
「出やがった! ゴブリンだ!」
「だから焼かなきゃ——」
猟師の一人が松明を投げようとした。トルクの大剣が、松明の柄を叩き折った。炎が地面に散らばった。
「俺は冒険者だ。村人相手に剣は抜きたくない。だが次に松明を投げたら、腕ごと叩き落とす」
トルクの低い声が、猟師たちの動きを止めた。
ナギはゴブリンの偵察兵に叫んだ。
【武器を下ろせ! 戦うな!】
【だが奴らが森を焼いている!】
【わかってる。俺が止める。お前たちは消火だ。水を運べ。北の沢から】
ガリクが偵察兵たちに指示を出した。ゴブリンたちが散って、水を汲みに走った。槍を捨てて、代わりに革袋を手に取る。
猟師たちはゴブリンが武器を下ろしたのを見て、動揺した。
「あいつら、武器を捨てた?」
「消火してるのか? 魔物が?」
ナギは猟師のリーダーの前に立った。
「お前たちの目の前で起きていることを見ろ。ゴブリンは森を守るために水を運んでいる。お前たちは森を燃やそうとしている。どっちが害獣だ」
猟師のリーダーの顔が歪んだ。ナギの言葉が刺さったのか、それとも怒りが増したのか。
「綺麗事を言うな。俺たちは村を守ってるだけだ。ゴブリンが増えたら、次は村が襲われる」
「襲われたか? 一度でも」
「まだだ。だが——」
「まだ何も起きていないのに、先に火をつけたのはお前たちだ」
沈黙が落ちた。ゴブリンたちが革袋の水を火元にかけている。煙が白く立ち上った。炎が小さくなっていく。
猟師の一人が松明を地面に落とした。踏み消して、背を向けた。
「帰るぞ。今日は引く」
リーダーは動かなかった。ナギを睨んでいる。
「お前がいなくなれば、全部元に戻るんだ。魔物と人間が一緒にいるなんて不自然なんだよ」
「不自然だと思うか。じゃあ見に来い」
「は?」
「砦に来い。ゴブリンがどんな暮らしをしているか、お前の目で見ろ。それでも害獣だと思うなら、好きにしろ。だが見もしないで焼くのは、狩人のやることじゃないだろう」
猟師のリーダーは何も言わなかった。仲間の背を追って、森から去っていった。
消火が終わった。焼けた範囲は二十歩四方ほどで、大火にはならなかった。だが黒く焦げた地面が、不気味な跡を残している。
ゴルドが焼け跡の前に立っていた。白い髪が煤で汚れている。自ら水を運んでいたのだ。
【ナギよ。人間との共存は、やはり難しいのではないか】
長老の声は、初めて聞く弱さを帯びていた。
【難しい。だが、やめない】
【なぜじゃ。なぜそこまでする】
ナギは焼け跡を見下ろした。黒い灰の中から、緑の芽が一つだけ焼け残っている。
【俺も追い出された側だからだ。居場所を焼かれる気持ちは、わかる】
ゴルドの大きな目が、じっとナギを見つめた。やがて長老は頷いた。
【お前は変わった人間じゃ。変わった者同士、もう少し付き合ってやろう】
* * *
夜。砦に戻ると、オーク族からの使者が待っていた。
若い戦士が二人。ボルガの命で、鍛冶道具を運んできた。金槌、やっとこ、砥石。オーク族の技術の粋を集めた道具だ。
【族長が言った。同盟の証に、砦に鍛冶場を作れと。オークの戦士が二人、常駐する】
ゴブリンの職人たちが物珍しそうにオークの鍛冶道具を覗き込んでいる。自分たちの背丈の倍はある戦士を、おっかなびっくり見上げている。
リーナが目を輝かせて駆け寄った。
「オークの金属加工と、ゴブリンの薬草を組み合わせたら、薬を保存する金属の容器が作れます!」
「まだ同盟して半日だぞ」
「思いついたら試さないと気が済まないんです!」
ナギは苦笑した。リーナの好奇心は、種族の壁を最も早く溶かす力かもしれない。
翌日から、砦の改修が加速した。
ゴブリンの木工職人が屋根の梁を組み、オークの石工が壁を積み直す。トルクが重い石を運び、セリアが見張りに立つ。ナギは通訳として走り回った。
だが摩擦は絶えなかった。
【この壁は低すぎる。オークの基準では話にならぬ】
【高すぎたら中が暗くなるだろう! ゴブリンは光が要るんじゃ】
壁の高さで揉め、屋根の形で揉め、井戸の使用順で揉めた。ゴブリンは多数決で決めたがり、オークは力で決めたがる。
ナギは両者の間に立って、折衷案を出し続けた。
「重要な決定は声比べで。作業の指揮は、その分野に強い方がやる。壁はオーク、屋根はゴブリン。得意なことをやれ」
ゴルドが唸った。
【筋は通っておる】
ボルガの使者も頷いた。
【族長なら認めるだろう】
リーナが歓声を上げた。ゴブリンの薬草担当と共同で作った塗り薬を、オークの鍛冶師が叩き出した金属容器に詰めている。
「できました! 密封できるから、3ヶ月は保存できます!」
ゴブリンの薬草担当が、リーナの手を小さな緑色の手で握った。
【この人間の雌は、話が早い】
「雌って言わないでください! あ、でもそれゴブリン語での褒め言葉なんですか? ナギさん、通訳お願いします!」
ナギは笑った。小さな発明が、少しずつ種族の壁を溶かしている。
夕暮れ。修繕が一段落した砦の見張り台に、ナギは登った。
北に深緑の森。東に赤土の丘陵。南にハグレ村の煙。西に灰色沼地。
四方の景色は変わらない。だが砦の中は変わった。ゴブリンの旗の隣に、オークの戦旗が掛けられている。赤い布に、黒い牙の紋章。
ここが自分の場所だ。
その視界の南。ハグレ村の方角から、複数の松明の明かりが近づいてくる。十人以上の人影。先頭に立つのは村長ドムスではない。猟師たちだ。手に武器を持っている。
昨日の連中が、仲間を増やして戻ってきた。




