牙突き
「ナギ、牙突きって何だ」
トルクが囁いた。大剣の柄を握っている。
「頭突きの決闘だ。オーク流の力試し」
「お前がやるのか」
「やったら死ぬ」
「だろうな」
ナギは息を吸った。正面から牙突きを受ければ即死だ。だが断れば「弱い」と見なされて追い出される。第三の選択肢が必要だ。
力の序列。最も強い者が族長。だが「強さ」は腕力だけではない。ゴルドが教えてくれた。「一族を養う力」も含む。
【族長。牙突きの代わりに、取引で力を示す】
ボルガの目が細くなった。
【取引?】
【お前たちの家畜が死んだ原因を知っている。病気じゃない。毒だ】
広場の空気が凍った。周囲のオーク戦士たちがざわめいた。ボルガの片方の牙が、ぎり、と鳴った。
【毒だと。何を根拠に言う】
【ゴブリンの薬師が死んだ家畜を調べた。口の周りが黒く変色し、内臓が溶けていた。灰色沼地のトリカブトの症状だ。家畜は苦い草を自分からは食べない。誰かが飼料に混ぜた】
沈黙が広場を支配した。オークの戦士たちが顔を見合わせている。ボルガは動かなかった。石の台座の前に立ったまま、ナギを見下ろしている。
長い沈黙の後、ボルガが口を開いた。
【牙突きより面白い。続けろ】
ナギの肩から、かすかに力が抜けた。牙突きは回避した。だが、ここからが本番だ。
【毒を盛った犯人を探す必要がある。俺たちと手を組めば、犯人を突き止められる。ゴブリンの偵察兵は森の隅々を知っている。俺は人間の言葉も魔物の言葉も話せる】
【手を組む? 弱い人間と?】
【俺は弱い。だが三百のゴブリンが俺の砦に水を汲みに来ている。弱い者が三百を動かした。それは力ではないか】
ボルガの口元がわずかに動いた。笑ったのか、嘲ったのか。
【お前は変わった人間だ】
「今日二回目だ、その台詞」
ナギが人間語で零した。セリアが隣で小さく吹き出した。
ボルガが石の台座に腰を下ろした。重い衝撃が地面に伝わった。
【毒の犯人に心当たりがある】
ナギは耳を立てた。
【半月前。丘陵に、人間の匂いがした。鎧の匂いだ。ワシらの鼻は人間の匂いを嗅ぎ分ける。森の匂いではない。金属と油の匂い。兵士の匂いじゃ】
ナギの拳が握られた。やはり。王国の密偵。砦を監視していた連中と同じ人間が、オーク族の家畜にも毒を盛っていた。
【その人間は一人だったか】
【二人。丘の裏から来て、夜のうちに去った。家畜が死に始めたのは、その三日後じゃ】
トルクが低い声で聞いた。
「何て言ってる」
「犯人は王国の兵士だ。鎧の匂いがしたと言ってる。2人組で、夜に来て毒を撒いて去った」
トルクの顎が引き締まった。元冒険者の目が鋭くなっている。
「やはりか。討伐実績のために魔物を煽る手口だ」
セリアが眉を寄せた。
「王国軍が魔物の家畜を殺した? 何のために」
「オークとゴブリンを争わせるためだ。辺境が荒れれば、王国は軍を送る口実ができる。軍功が立つ。出世に繋がる」
セリアの顔から血の気が引いた。
「そんな……。じゃあ、父さんが死んだ時も——」
セリアの声が途切れた。三年前。父を殺した魔物。あの時も、誰かが魔物を挑発していたのか。密猟者が魔物の領域を荒らしたから、魔物が暴れた。その密猟者は、誰に頼まれていたのか。
「セリア」
ナギがセリアの肩に手を伸ばした。指先が彼女の革のベストに触れた。
セリアは振り払わなかった。だが何も言わなかった。緑色の目が地面を見つめている。
ボルガが立ち上がった。
【人間よ。お前の話は聞いた。毒の話も、ゴブリンとの同盟も。だが、ワシが一人で決めることではない】
【わかっている。一族の者に聞かせてくれ】
【明日、集会を開く。お前も来い。一族の前で同じ話をしろ。ワシらは多数決ではない。族長が決める。だが一族の声を聞かずに決める族長は、長くは持たぬ】
ナギは頷いた。ゴブリンの多数決とは違う。だが族長の独断でもない。民意を汲んだ上で、族長が判断する。別の形の合意形成だ。
【一つだけ聞かせろ。お前は何を望む】
ボルガがナギを見据えた。暗い目の奥に、鋭い光が走っている。
【お前は何のために、こんな場所まで来た。ゴブリンとも、オークとも話せる人間が。お前の目的は何じゃ】
ナギは考えた。考えて、正直に答えた。
【俺は追い出された人間だ。居場所がなかった。砦を見つけて、ゴブリンに出会って、今ここにいる。目的なんて大層なもんじゃない。ただ、話が通じる場所が欲しかっただけだ】
ボルガの片方の牙が、ゆっくりと上がった。オーク族の笑いだ。
【正直な奴は好きじゃ。嘘つきの匂いはせぬ。明日、来い】
門番が道を開けた。ナギたちが集落を出る。赤土の丘を下りながら、ナギは隣を歩くセリアを見た。
セリアは黙っていた。弓の弦を指で弾いている。無意識の癖だ。弦が乾いた音を立てる。
「セリア、さっきの話——」
「今は聞かないで」
短い声だった。硬いが、脆い。
丘の中腹で、ガリクが待っていた。潅木の陰から飛び出し、ナギの脚にしがみついた。
【生きてた! 生きてたぞ! ワシは信じておったからな!】
「嘘つけ。逃げる準備してただろ」
【準備と信頼は両立する】
ガリクが鼻を鳴らした。ナギは笑った。セリアの口の端も、ほんの少しだけ上がった。
帰路。森の入口まで来た時、セリアが足を止めた。
「ナギ」
「ん」
「さっき肩に触ったでしょ」
ナギの足が止まった。トルクが前方で振り返ったが、何も言わずに歩き続けた。
「ああ。悪かった」
「悪くない」
セリアが前を向いたまま言った。夕陽が森の木々を赤く染めている。
「悪くなかった。だから、謝らないで」
ナギは何も言えなかった。セリアの横顔が夕陽に照らされている。赤銅色の髪が金色に光っている。緑色の目が、まっすぐ前を見ている。
「あたし、父さんのことがあってから、誰かに触られるのが嫌だった。狩人は一人がいいと思ってた。でも——」
セリアが弓の弦を一度だけ弾いた。
「あんたの手は、冷たくなかったわ」
それだけ言って、セリアは歩き出した。ナギは半歩遅れてついていった。
ガリクが後ろからぼそりと呟いた。
【人間の雌雄の関係は、よくわからぬ】
「俺にもわからない」
森の木々の間を、四人の影が歩いていく。赤土の丘陵を背に、深緑の森に帰る道。
明日、オーク族の集会がある。毒殺の真相を伝え、同盟を提案する。ゴブリンの時とは違う。力を認めさせなければならない。弱い人間の言葉を、八十のオークに聞かせなければならない。
だが今は——。
セリアの背中を見ながら、ナギは砦への道を歩いた。森の空気が肌に馴染んでいく。ここに来て初めて、帰る場所があると思えた。
砦が見えた時、門の前にリーナが立っていた。手を振りながら叫んでいる。
「ナギさん! 大変です! ゴブリンのハナさんが、トリカブトの解毒薬を作れるって! オーク族の残りの家畜を救えるかもしれません!」
ナギの口が、思わず開いた。
交渉の切り札が、また一枚増えた。明日が勝負だ。




