赤土
「本気で行くのか」
トルクが大剣を背負い直しながら言った。朝霧がまだ砦の石壁に張りついている。
「行く。今日を逃すと、オークが森に入る前に手を打てなくなる」
「ゴルドは帰ってきた者がいないと言ってたぞ」
「だから話が通じなかった連中が行ったんだろう。俺なら通じる」
トルクが鼻を鳴らした。否定ではなかった。
セリアが砦の門を入ってきた。弓を背負い、腰に矢筒を二つ提げている。いつもより多い。
「準備できたわ。ナギ、行くんでしょ」
「セリアは来なくていい」
「あたしが決める。行くわ」
交渉の余地のない声だった。ナギは諦めた。
ゴルドがゴブリンの案内役を一体つけてくれた。ガリクだ。耳に骨飾りをつけた偵察兵のリーダー。最初にナギと出会ったゴブリンでもある。
【赤土の丘陵までは半日。道は知っておる。だがオークの集落に入ったら、ワシは先に逃げるぞ】
「正直でいいな」
【正直じゃなきゃ生き残れぬ】
四人は砦を出た。東に向かう。
* * *
森を抜けると、景色が一変した。
黒い腐葉土が赤い砂利に変わる。木々が途切れ、低い潅木と背の高い草が丘陵を覆っている。風が乾いている。森の湿った空気に慣れた肌が、ぴりぴりと引き締まった。
赤土の丘陵。オーク族の放牧地。
丘を二つ越えたところで、煙が見えた。鍛冶場の煙だ。黒く太い煙が空に立ち上っている。
「見えたわ。あれがオークの集落?」
セリアが目を細めた。丘の向こうに、石と丸太で組まれた壁がうっすらと見える。人間の村よりも壁が高い。
ガリクが足を止めた。
【ここまでじゃ。あの先はオークの縄張り。ワシはここで待つ】
「わかった。待っていてくれ」
【死ぬなよ、人間。お前が死んだら、ワシが長老に報告せねばならぬ。面倒じゃ】
ガリクが潅木の陰に身を隠した。ナギ、セリア、トルクの三人が、オークの集落に向かって歩き出す。
集落の入り口は、二本の巨大な牙を門柱にしていた。何の魔物のものかわからない。人間の身長を超える牙が、空に向かってそそり立っている。
門番のオークが二体、ナギたちを見下ろした。
一体は先日の斥候よりもさらに大きい。身長二メートルを優に超え、腕は丸太のように太い。革の胸当てに、鉄の棍棒。もう一体は細身だが、腰に鍛冶で打った短剣を三本差している。
ナギは両手を広げた。武器を持っていないことを示す。喉の奥でオーク語を組み立てた。先日の斥候との会話で、少しだけ精度が上がっている。
【俺はナギ。話がしたい。族長に会いたい】
門番の目が動いた。人間がオーク語を話すことへの驚き。だがすぐに驚きは消え、代わりに嘲りが浮かんだ。
【弱い。お前は弱い。弱い者と話すことはない】
予想通りだった。力の序列。弱い者の言葉は聞く価値がない。それがオーク族の価値観だ。
「ナギ、何て言われた」
トルクが後ろから聞いた。
「弱いから話す価値がない、だとさ」
「俺が前に出るか」
トルクが大剣の柄に手をかけた。門番のオークがそれを見て、鼻を鳴らした。人間の大剣など、オークの棍棒に比べれば小枝だ。
膠着した。
オークは動かない。ナギたちも引けない。太陽が頭上を過ぎ、汗が額を流れた。乾いた風が赤い砂を巻き上げる。
沈黙を破ったのは、矢だった。
セリアが弓を引き絞った。ナギが止める間もなく、矢は放たれた。風を切る音。門番の頭上三十センチを通過し、背後の鍛冶場の方角へ飛んでいった。
金属の甲高い音が響いた。
矢は鍛冶場の金床の穴を貫通していた。二十歩以上先の、拳大の穴に、矢が正確に突き刺さっている。
門番のオークの顔が変わった。
嘲りが消えた。代わりに、目が見開かれている。拳大の穴に矢を通す技術。それは「弱い」という言葉では片付けられない。
もう一体の門番が、腰の短剣に手をかけた。だが先頭の門番が片手を上げて制した。
【待て】
門番がセリアを見た。灰褐色の顔に、初めて興味の色が浮かんでいる。
【小さい雌だが、目が良い。腕も良い。力とは腕力だけではない】
セリアはオーク語がわからない。だが門番の視線から何かを読み取ったらしく、弓を下ろさなかった。弦に手をかけたまま、真っ直ぐに門番を見つめている。
「ナギ、何て言ってる」
「お前の腕を認めたみたいだ」
「当然よ。父さん仕込みだもの」
ナギはセリアの横顔を見た。赤銅色の髪が風に揺れている。汗で額に張りついた一筋を、細い指で払った。弓を構える姿勢に、一切の無駄がない。
「お前、すごいな」
「うるさい。交渉に集中して」
セリアの耳が赤くなっていた。日焼けではないことは、ナギにもわかった。
門番が一歩退いた。門の道を開ける。
【面白い。族長に会わせてやる】
ナギの胸に安堵が広がった。だが門番の次の言葉が、その安堵を吹き飛ばした。
【覚悟しておけ。族長は『牙突き』で客を試す。逃げたら、骨ごと砕かれるぞ】
* * *
オーク族の集落は、ナギが想像していたよりも整然としていた。
丸石を積み上げた低い壁が通路を区切り、石造りの住居が並んでいる。鍛冶場が三つ。赤い炎が石窯から吹き出し、金属を叩く音が絶え間なく響いている。住居の間を、子供のオークが走り回っていた。人間の大人より大きな子供だ。
そして、家畜の囲いが目に入った。
ガルムと呼ばれる大型トカゲの放牧場。だが囲いの中は空に近い。二十頭ほどのガルムが、痩せた体で地面に伏せている。以前はもっと多かったはずだ。
セリアが囁いた。
「あの家畜、痩せてるわ。飢えてるのは本当ね」
「ああ。毒で大量に死んだ後、残りの家畜も餌が足りなくなっている」
集落の中央に、広場があった。大きな石の台座が置かれ、その上に巨大なオークが座っている。
族長ボルガ。
灰色の肌に、額から顎にかけて走る三本の古傷。片方の牙が折れている。過去の牙突きの勲章だ。体は年老いているが、腕の筋肉は衰えていない。座っているだけで、周囲の空気を圧する存在感があった。
ボルガの目がナギを捉えた。深い、暗い目だ。獣の目ではない。多くのものを見て、多くを失った者の目。
【人間が来たか。門番から聞いた。言葉を話す人間と、弓の巧い雌と、大剣の雄】
ナギは一歩前に出た。オーク語で返す。先日の斥候との接触、門番との会話。二回の接触で、精度がかなり上がっていた。完璧ではないが、意思は伝わる。
【俺はナギ。ゴブリン族と同盟を結んだ人間だ。お前たちとも話がしたい】
【話?】
ボルガが立ち上がった。石の台座が軋んだ。立つと、ナギの倍近い体積がある。
【弱い者の話を聞く義理はない。力を示せ。牙突きだ】
牙突き。頭突きの決闘。オーク族が相手の力を測る儀式。ナギの体格では、一発で頭蓋骨が砕ける。
トルクが大剣の柄を握った。セリアの指が弦に触れた。
広場を囲むオーク戦士たちの目が、一斉にナギに向いている。八十の灰色の顔。八十対の暗い瞳。
逃げれば終わりだ。受ければ死ぬ。
ナギはゆっくりと息を吐いた。交渉の糸口を、探さなければならない。




