亀裂
「3名負傷。うち1名は右腕が使い物にならん」
ガレス将軍の声が、軍務省の執務室に響いた。机の上に広げられた辺境の地図に、赤い印が三つ打たれている。魔物の襲撃地点だ。
ヴェルクは直立不動で立っていた。金髪を後ろに撫でつけた端正な顔に、汗が滲んでいる。
「将軍。魔物の移動経路が従来と異なっており、予測が」
「以前はこんな被害は出なかった」
ガレスが遮った。白髪交じりの顎鬚を掻きながら、ヴェルクを見据える。
「斥候の仕事は魔物の動向予測だ。なぜ精度が落ちた」
「それは……」
「言い訳はいい。原因を聞いている」
ヴェルクの拳が背中で握られた。言えない。魔物の動きを読める唯一の兵士を、自分が追い出したとは。
「人員不足です。辺境は範囲が広く、斥候の数が足りません」
「人員は半年前と変わっていない。変わったのは何だ」
沈黙が落ちた。ガレスは答えを知っている目をしていた。ヴェルクの額から汗が一筋、顎に落ちた。
「……先般、斥候を1名除隊しました」
「名前は」
「ナギ。魔物語のスキル持ちです」
ガレスの目が鋭くなった。
「魔物の動向を読める唯一の兵士を、お前が追い出しただと?」
「あの男のスキルは危険です。獣語りの乱の——」
「二百年前の話を持ち出すな」
ガレスが机を叩いた。地図の上の駒が跳ねた。
「現に3つの村が襲撃を受け、兵士が血を流している。お前の保身と天秤にかけて、どちらが重い」
ヴェルクは唇を噛んだ。反論できなかった。
執務室を出ると、廊下にマルコが待っていた。茶髪の若い斥候が、不安げな顔をしている。
「隊長、どうでした」
「将軍に追及された。ナギの除隊を報告した」
マルコの顔が強張った。
「それは……まずいですね」
「まずいのはわかっている」
「ナギがいた頃は、魔物の大群が来る3日前にルートを特定できていました。今は前日でもわからない。被害が出て当然です」
「黙れ」
ヴェルクの声が裏返った。マルコは口を閉じたが、目は閉じなかった。その目が言っている。あなたが間違っていた、と。
* * *
グレンデの砦に、新しい顔が増えた。
「ナギさん! 本当にゴブリンが薬草を使ってるんですね!」
リーナが砦の中庭で目を輝かせていた。ハグレ村の薬師見習い。淡い金髪が朝日に透けている。腰のポーチからはみ出した紙束に、びっしりと文字が書かれている。
「リーナ、いつ来たんだ」
「夜明け前に村を出ました。砦にゴブリンがいるって騒いでるでしょう? 前に薬草の記録をさせてもらった時から、もっと調べたくてうずうずしてたんです。今日は新しい材料を持ってきました!」
小柄な体が興奮で揺れている。腰のポーチが振り子のように振れた。
「怖くないのか?」
「怖いです。すっごく怖い。でも知りたい方が勝つんです」
ナギは苦笑した。声は震えているのに、目だけはぎらぎらしている。厄介な性格だが、集落には必要な人材だ。
「ゴブリンの薬草担当を紹介する。ただし、勝手に触るな。ゴブリンの薬にはまだ俺にもわからない成分がある」
「はい!」
ゴブリンの薬草担当は、モーラの姉にあたる年配の女ゴブリンだった。名はハナ。片目が白く濁っているが、薬草を見分ける目は鋭い。
【長老からは聞いておる。人間の小娘が、薬草に興味を持っているそうだな】
ナギが通訳する。リーナは水色の目を大きくした。
「はい! 特にキノコから作る薬に興味があります。ゴブリンのキノコ薬は、人間の薬草学にない処方がありませんか?」
ナギが魔物語に変換した。ハナの片方の目が細くなった。
【変わった小娘じゃ。怖がりのくせに、目だけはぎらついておる】
「褒めてる?」
「半分な」
ハナが腰の袋から茶色い塊を取り出した。干したキノコを粉にして、樹液で固めたもの。傷口に塗ると化膿を防ぐゴブリンの軟膏だ。
リーナが受け取り、匂いを嗅ぎ、指で崩して中身を観察した。
「これ……タンニンに似た成分がありますね。殺菌作用の原理は人間の薬草学と近い。でも樹液の配合が独特です。ナギさん、どの木の樹液を使っているか聞いてください」
ナギが尋ねると、ハナは森の南側に生える赤松の樹液だと答えた。リーナが走り書きでメモを取る。
「すごい……。赤松の樹液は人間の薬学では使いませんが、抗菌作用があるのは理屈に合います。もっと教えてください!」
リーナの熱意にハナが戸惑っている。ゴブリンの薬草知識は口伝で受け継がれてきたものだ。こうして体系的に質問されたことは初めてだろう。
【この小娘、うるさいが悪い奴ではなさそうじゃ】
「気に入られたみたいだぞ」
「本当ですか!」
リーナの声が中庭に響いた。ゴブリンの子供たちが珍しそうに遠巻きに見ている。ピッケが木の人形を抱えたまま、リーナの背中に近づいて匂いを嗅いだ。
* * *
午後。リーナはハナと並んで砦の隅に座り込み、薬草の分類作業を続けていた。言葉は通じない。だがリーナは実物を指差して名前を聞き、ハナは魔物語で答え、ナギが間を取り持った。
三十種類を超えるゴブリンの薬草が、リーナの紙束に記録されていく。
「ナギさん、大変なことがわかりました」
リーナが声を落とした。水色の目に、好奇心とは別の色が浮かんでいる。
「何だ」
「ハナさんに、東のオーク族の話を聞いたんです。家畜が死んだ原因について」
ナギの手が止まった。
「ハナが何か知ってるのか」
「ゴブリンの偵察兵が、オーク族の集落の近くで死んだ家畜を見たそうです。ハナさんが死体の様子を聞き取ったんですが」
リーナが紙束をめくった。赤い文字で走り書きがされている。
「家畜の死因は病気じゃありません。毒です」
「毒?」
「口の周りが黒く変色していたそうです。内臓も溶けかけていた。ハナさんが言うには、これは灰色沼地に生えるトリカブトの症状に似ている、と。ゴブリンの薬草学では禁忌とされている猛毒です」
ナギの頭の中で、複数の事実が繋がった。
オーク族の家畜が大量に死んだ。飢えたオーク族がゴブリンの森を侵し始めた。その死因が毒殺。誰かが意図的にオークの家畜に毒を盛った。
「リーナ。トリカブトは自然に家畜が食べるものか」
「食べません。苦いので家畜は避けます。ハナさんも同じことを言ってました。誰かが飼料に混ぜたんです」
「誰かが」
ナギは砦の南を見た。ガルガが声比べで言った言葉が蘇る。甲冑の人間。砦を監視していた王国の斥候。あの連中がオーク族の集落にも足を運んでいたとしたら。
「ナギさん?」
「リーナ。これは誰にも言うな。まだ確証がない」
「でも——」
「確証なしに動くと、オーク族が暴走する。飢えている相手に『毒を盛られた』と伝えたら、犯人を探して手当たり次第に襲い始める」
リーナの顔が青ざめた。薬師見習いの頭でも、その危険性は理解できた。
「わかりました。でも、放っておけないですよね」
「ああ。放っておけない」
ナギは東の空を見た。赤土の丘陵が、午後の日差しを浴びて赤く光っている。
誰かがオーク族の家畜に毒を盛った。目的は何だ。オーク族とゴブリン族を争わせること。争えば、辺境は混乱する。混乱すれば、王国軍に討伐の口実ができる。
点と点が、線になりかけている。だが最後の一点が足りない。
誰が。誰の命令で。
砦の門の外に、トルクが座っていた。大剣を膝に立てかけ、刃を布で拭いている。ナギの顔を見て、手を止めた。
「嫌な顔してるな」
「嫌なことがわかった」
「聞くか」
「聞いてくれ」
ナギはトルクの隣に腰を下ろした。リーナから聞いた毒殺の情報を、低い声で伝えた。
トルクの手が止まった。布が刃の上で静止している。
「王国の密偵か」
「まだ確定じゃない。だが辻褄は合う」
「合いすぎる。俺が冒険者だった頃にも似た話があった。辺境の魔物が急に凶暴化して、調べたら人間が巣に火をつけていた。軍の依頼でな」
「軍が魔物の巣に火を?」
「討伐実績を作るためだ。巣を燃やして魔物を暴れさせて、それを討伐する。手柄が欲しい将校のやり口だ」
ナギの歯が鳴った。指を握りしめた爪が掌に食い込んでいる。
「最低だな」
「最低だ。だが、よくある話だ」
トルクが刃を拭き直した。布が金属の上を滑る音が、静かに響いた。
「ナギ。お前はどうする」
「オーク族の集落に行く。毒の話を持っていく。それが交渉の糸口になる」
「相手はオークだぞ。力の序列で生きてる連中だ。毒の話を持っていったところで、弱い人間の言葉を聞くか」
「聞かせる。聞かせるのが俺の仕事だ」
トルクが口の端を上げた。皮肉ではなく、何かを認めた時の笑い方だった。
「ま、死ななきゃいいさ」
夕暮れが砦を包んでいた。リーナの記録した三十種類の薬草が、紙束の上で乾いている。ゴブリンの知識と人間の学問が交わった場所に、一つの真実が転がっていた。
オーク族の家畜は毒で殺された。犯人は人間。
そしてその人間は、おそらくナギを追い出した連中と同じ組織に属している。




