防衛
夜明け前に砦を出た。トルクとセリアを伴い、ゴブリンの偵察兵ガリクの先導で森を東へ進んだ。露に濡れた下草が足首を叩く。誰も口を開かなかった。
【来た。三体。境界の大岩の向こうじゃ】
ガリクが木の上から降りてきた。枝を掴む手が震えている。骨飾りが耳の横でかちゃかちゃと鳴った。
深緑の森の南端。ゴブリンの領域と赤土の丘陵の境界に、人の背丈ほどの大岩が三つ並んでいる。自然の境界線だ。大岩には苔がこびりつき、雨で削られた溝が何本も走っている。その向こう側に、巨大な影が三つ見えた。
ナギは木の幹に背を預けたまま、目を細めた。
オーク。身長は二メートルに達する。灰褐色の肌に、下顎から突き出た牙。一体一体が筋肉の塊だ。人間の兵士五人分とトルクは言った。大げさではなかった。
「ナギ、あたし弓を構えていい?」
セリアが隣で囁いた。矢を番えた弓は、まだ引いていない。
「まだだ。まず話す」
「オーク語、話せるの?」
「ほとんど話せない。だが、意図は読める。魔物語はそういうスキルだ」
ゴルドが杖をついて歩いてきた。長老の顔は険しい。背後にゴブリンの戦士が十体ほど控えているが、オーク三体に対して心もとない。
【ナギよ。頼む。あの連中を追い返してくれ】
「追い返すんじゃない。話をする」
【話? 飢えたオークに話が通じると思うか】
「通じるかどうかは、やってみないとわからない」
ゴルドの白い髪が風に揺れた。老ゴブリンは何も言わず、杖で地面を叩いた。行け、という合図だった。
* * *
ナギは大岩を回り込んで、オークの前に出た。
足元の土の色が変わる。森の黒い土から、赤みがかった砂利に変わる。ゴブリンの領域と丘陵の境目だ。風が変わった。森の湿った空気が途切れ、乾いた熱が頬を撫でた。
後ろにトルクがいる。大剣を鞘に入れたまま、右手を柄にかけている。使うつもりはない。だが、いつでも抜ける体勢だ。
オークの斥候三体が、ナギを見下ろした。
先頭の一体が特に大きい。額に古い傷跡が二本走り、牙の片方が欠けている。歴戦の戦士だ。腰に鉄の棍棒を提げ、革の鎧を着込んでいる。
ナギは両手を広げた。武器を持っていないことを示す。
喉の奥で、低い音を組み立てた。ゴブリン語とは全く違う体系。腹の底から振動させるような、重く短い音の連なり。オーク語だ。接触回数が少なく、精度は低い。だが、やるしかない。
【話……したい。戦い……ない】
三体のオークが顔を見合わせた。ナギの喉から出た音に反応したのだ。先頭の斥候の目が細くなった。
返ってきた音が、ナギの魔物語に流れ込んだ。低く、地鳴りのような声。意味の輪郭はぼやけている。だが、核心は掴めた。
【腹が……減った。ここに……獲物がいる】
飢えている。家畜を失い、食料が尽きた。だから獲物を求めて森に来た。単純な動機。だがそれゆえに切実だ。
「ナギ、何て言ってる」
トルクの声が背後から聞こえた。
「腹が減った、獲物がいる、だ」
「……食う気か、俺たちを」
「人間じゃなくて、森の動物だろう。だが、ゴブリンの領域で狩りをされたら同盟が壊れる」
ナギは腰の袋に手を伸ばした。今朝、砦から持ってきたものがある。干し肉の束と、穀物の袋。ゴブリンからもらったキノコも入っている。
袋を地面に置いた。紐を解き、中身を広げた。
【食べ物。これを……やる。森で……狩りは……だめだ】
三体のオークの鼻がひくついた。先頭の斥候が一歩前に出た。ナギの体から半歩の距離。見上げると、灰褐色の顔が岩壁のようにそびえている。
オークの手が伸びた。干し肉を掴み、鼻先に寄せて匂いを嗅いだ。牙の間から舌が出て、肉の端を舐めた。
そして、一口で呑み込んだ。顎の筋肉が一度だけ動く。人間なら十回は噛む量を、一噛みで処理した。
残りの二体も近づいてきた。穀物の袋を掴み、キノコを拾い上げる。一体は穀物を手のひらに広げ、匂いを嗅いでから口に放り込んだ。もう一体はゴブリンの焼きキノコを食べて、意外そうに耳を動かした。
【悪くない】
その一言が、ナギの魔物語にはっきりと届いた。
先頭の斥候がナギを見下ろした。牙の欠けた顔に、表情は読めない。だが殺意は消えていた。
【人間。お前は何者だ】
断片的だった意思疎通が、少しだけ精度を上げた。接触の効果だ。ナギのスキルは、相手と接するほど研ぎ澄まされる。
【俺はナギ。この森のゴブリンと同盟を組んでいる。お前たちとも……話がしたい】
オークの斥候は何も答えなかった。干し肉をもう一切れ掴むと、二体の仲間に顎で合図した。三体が丘陵の方角に歩き出す。重い足音が地面を揺らした。
去り際に、先頭の斥候が振り返った。
【食い物は受け取った。だが、次はもっと持って来い。三人分では足りぬ】
三人分ではなく、三体分だ。だが「人」と同じ数え方をしたことに、ナギは気づいた。オーク族は自分たちを「人」と認識している。
* * *
大岩の向こうにオークの姿が消えると、ゴブリンたちが一斉に声を上げた。
【追い返した! 人間がオークを追い返した!】
【飯を投げただけじゃないか】
【それでも退いたじゃろう!】
ゴルドが杖をついて歩み寄ってきた。老ゴブリンの目に、安堵と疑問が混じっている。
【ナギよ。今日は食い物で済んだ。だが、飢えたオークが食い物だけで大人しくしていると思うか】
「思わない。応急処置だ。根本的に解決するには、オーク族の食料問題を何とかしないといけない」
【どうやって】
「オークの集落に行く。族長と直接話をつける」
ゴルドの白い眉が上がった。長老が首を振った。
【やめておけ。オークの集落に行った者は、ゴブリンでも人間でも、帰ってきたことがない】
「帰ってこなかった理由は、話が通じなかったからだ。俺なら通じる。完璧じゃないが、今日で少しマシになった」
【お前は……変わった人間じゃ】
「よく言われる」
トルクが横で鼻を鳴らした。
「話は聞こえなかったが、結果は見えた。食い物で追い返したのか」
「一時的にな」
「次はどうする」
「オークの集落に行く。直接」
トルクの目が鋭くなった。
「正気か」
「さっきのゴルドと全く同じことを言ったな」
「そりゃ、正気じゃないからだ」
セリアが弓の弦を緩めた。張り詰めていた肩から、ようやく力が抜けた。
「あたしも行くわ。弓があった方がいいでしょ」
「ゴルドは帰ってきた者がいないと言ってたぞ」
「だったら、あたしが最初の一人になる」
ナギはセリアを見た。緑色の目に、迷いはなかった。三年前に父を失った少女の目ではない。自分で決めた道を歩く狩人の目だ。
「トルクは」
「俺が行かないと思ったか。お前の口先だけじゃ、オークの牙は止まらんだろう」
「頼りにしてるよ」
「言うな。そういう言葉に弱いんだ」
トルクが大剣の柄を叩いた。重い金属音が森に響いた。ゴブリンの偵察兵が耳を押さえた。
オーク語はまだ不完全だ。斥候との会話で少し精度が上がったとはいえ、族長との交渉には心もとない。だが接触しなければ、いつまでも不完全なままだ。
方法は一つ。直接行くしかない。
赤土の丘陵が、夕陽の下で血のように赤く染まっていた。




