橋を架ける者
裂け目が塞がった。
条約締結から一ヶ月後。ナギたちは辺境の橋守の里に戻っていた。裂け目の完全封鎖。最後の仕事だ。
前回は六族だけだった。今回は違う。
王国から派遣された石工が石を積み、人間の鍛冶師がオークの焼き入れ技術で補強材を作り、薬師がゴブリンの薬草で作業員の疲労を癒した。人間と魔物が肩を並べて作業している。この大陸で千年ぶりの光景だった。
ヴァルナザドールの炎が裂け目の縁を焼き固めた。竜の翼が灰嶺の空を覆い、炎が朝日のように裂け目を照らした。深淵蟲が地下から甲殻を運び上げ、割れ目の内壁を補強した。オークの鍛冶師が金属の楔を打ち込み、ゴブリンが足場を組んだ。森狼族が周囲を警戒し、スライムが石と石の隙間を粘液で接着した。そして人間の石工が、精密な技術で最後の石を嵌め込んだ。
七族の共同作業。大陸史上初めての光景だ。言葉の壁を、ナギの根源的魔物語が繋いだ。
【右の壁を補強。深淵蟲、甲殻をもう三枚。ボルガ、楔の角度を二度傾けてくれ。ゴルド、足場を東に三歩ずらせ】
ナギの声が全ての種族に届いた。人間には人間語で。魔物には根源的魔物語で。二つの言葉を同時に操り、七族の作業を指揮した。頭が割れそうだった。だがこれが最後の仕事だ。
最後の石が嵌まった瞬間、裂け目から吹き上げていた冷気が止まった。千年間開いていた傷口が、ようやく塞がった。
深淵蟲の女王が地下から声を上げた。
【これで我が民は安心して眠れる。千年ぶりに】
ゴルドが足場の上で叫んだ。
【塞がったぞ! 千年の穴が塞がったぞ!】
歓声が上がった。人間の声と魔物の声が混ざった。区別がつかなかった。喜びの声に種族の違いはない。
ナギは裂け目の跡に手を触れた。石は温かかった。七族の手で積まれた石だ。ゴブリンが組んだ足場の上に、オークが打った楔があり、深淵蟲の甲殻があり、スライムの粘液があり、竜の炎で焼き固められた縁があり、人間の石工が嵌めた最後の一石がある。一つでも欠ければ、この壁は完成しなかった。
橋と同じだ。橋は一人では架けられない。両岸から手を伸ばして、初めて繋がる。
* * *
作業を終えた夕暮れ。ナギは里の見晴台に座っていた。セリアが隣にいる。
眼下に里が広がっている。ゴブリンの子供とハグレ村の子供が一緒に走り回っている。追いかけっこをしている。笑い声が風に乗って聞こえる。
ボルガが人間の鍛冶師と酒を酌み交わしている。炎の話をしているのだろう。ボルガの不器用な身振りと、人間の鍛冶師の大きな笑い声が見える。言葉は通じていない。だが酒と炎は通じている。
ヴェルクがゴルドと茶を飲んでいる。かつてナギを追放した男と、三百年を生きたゴブリンの長老。二人は何を話しているのだろう。ヴェルクが小さく笑った。ゴルドが胸を叩いた。
グリムが牙の長老衆と裂け目の跡を見つめている。塞がった傷口を、四人の男が黙って見下ろしている。千年間、この裂け目を広げる側にいた者たちが、塞がった跡を見ている。
トルクが広場の隅で大剣を磨いている。マルコがその横で何か書き物をしている。リーナが蟲の酵素液を人間の薬師に見せている。
ナギはセリアに向き直った。
「セリア」
「うん」
「俺は、全部終わったらちゃんと言うって約束した」
セリアが顔を上げた。緑色の目が夕日を反射している。
「うん。覚えてる」
ナギは目を逸らさなかった。交渉者は目を逸らさない。だが今は交渉ではない。もっと難しいことだ。
「お前が好きだ」
セリアの目が見開かれた。だがすぐに細められた。知っていたという顔だ。
「追放されて、最初にお前に会ったときから。お前の声に何度も救われた。辺境で折れそうになった時、お前が隣にいてくれた。王都で暴徒に囲まれた時も、お前が弓を背負って立っていてくれた」
ナギは言葉を探した。交渉の言葉ではない。自分の言葉を。
「俺の橋は、お前がいないと立たない」
セリアの目が潤んだ。だが泣かなかった。笑った。太陽のように笑った。
「遅い。ずっと待ってたのに」
「悪い。交渉は得意だけど、こういうのは苦手だ」
セリアがナギの胸を叩いた。軽く。だが温かく。
「下手くそ。でも、いい。あんたらしくて」
ナギがセリアの手を取った。指が絡んだ。追放された日から、ここまで来た。辺境の森で出会い、ゴブリンと語り、オークと鍛え、森狼と駆け、スライムと分析し、深淵蟲と潜り、竜と対峙し、そして王都で千年の嘘を暴いた。全ての旅路の先に、この手の温もりがある。
セリアがナギの肩にもたれた。夕日が二人を照らしていた。橋守の里の見晴台から、七つの種族が集まった広場が見える。
焚き火に火が入った。
* * *
ヴァルナザドールが空を旋回した後、灰嶺に降りた。巨大な翼が畳まれ、暗翡翠色の鱗が最後の夕日を反射した。竜の声がナギに届いた。
【架け橋よ。千年前、ザルグが橋を架けた。人間がそれを折った。お前がもう一度架けた。だが覚えておけ。橋は架けたら終わりではない。渡り続けなければならない。毎日。毎日言葉を交わし、手を取り、共に歩く。それが橋を架け続けるということだ】
ナギは頷いた。
「わかってる。俺はずっと橋を架け続ける」
ヴァルナザドールの瞳が細まった。竜が笑ったのかもしれない。千年を生きた竜の笑顔を、ナギは初めて見た。
ゴルドが広場から叫んだ。
【ナギ! 宴の準備ができたぞ! 声比べの大会じゃ! 今夜は人間も参加じゃ!】
ナギは笑った。セリアの手を取り、見晴台を降りた。
里の広場に七つの種族が集まっている。焚き火を囲んで。声を合わせて。ゴブリンの歌。オークの鉄を打つリズム。森狼族の遠吠え。人間の手拍子。混ざり合って、一つの音楽になっている。
橋守の里。千年前に折れた橋が、もう一度架かった場所。
ナギはセリアの手を握ったまま、焚き火の輪に加わった。ゴルドが編み細工の杯を差し出した。ボルガが不器用に肩を叩いた。ファングがナギの足元に伏せた。トルクが黙って酒を注いだ。グリムが壁にもたれて笑っていた。
声比べが始まった。ゴルドの三百年の喉が、夜空に響いた。ボルガがハンマーで地面を叩いてリズムを刻んだ。ファングが遠吠えで応えた。人間の鍛冶師が手拍子を打った。子供たちが笑いながら踊った。
マルコが書き物を止めて宴に加わった。リーナが蟲の酵素液の話を止めて杯を掲げた。ヴェルクがナギに酒を渡した。かつて追放を命じた男が、今は同じ焚き火を囲んでいる。
「悪かったな。あの時は」
ヴェルクが小さく言った。ナギは杯を掲げた。
「追放されたから、ここに辿り着いた。恨んでない」
ヴェルクが目を閉じた。杯を傾けた。それ以上は何も言わなかった。言葉にならないものは、酒に任せればいい。
ナギは笑った。涙が出るほど笑った。隣でセリアが笑っていた。ゴルドが笑っていた。トルクが笑っていた。七つの種族が、一つの焚き火の前で笑っていた。
千年の夜が明けた。
空に星が瞬いている。橋守の里の空は広い。王都の狭い空とは違う。辺境の、何もなかった場所。追放された少年が辿り着いた場所。そこが今、七つの種族の架け橋になっている。
共存の地図の、最初の一点。ここから、線が引かれる。道になる。やがて地図になる。
ナギは空を見上げた。星が笑っているように見えた。




