声比べ
三百の目が、ナギを見ていた。
ゴブリンの集落の広場。前回、前々回と同じ場所。だが空気が違う。前回は敵意が渦巻いていた。今回は、期待と警戒が半々に混じっている。
キノコの籠を二つ、ナギは広場の中央に置いた。白い傘が朝の光を受けて輝いている。砦の井戸水で育てた、拳大の森キノコ。集落のものより二回りは大きい。
「ナギ、あたしはどこにいればいい」
セリアが囁いた。弓は背中に背負ったまま、手は添えていない。
「広場の外だ。見てるだけでいい」
「わかった」
セリアが木の陰に下がった。ナギは一人で広場の中央に立つ。
ゴルドが長老の座から立ち上がった。白い髪が風に揺れている。左耳の骨飾りが三つ、かちりと鳴った。
【皆の者。三度目の声比べじゃ。人間ナギの提案を聞け。そして、己の腹で決めよ】
ゴルドの声に、広場が静まった。ナギは深く息を吸った。喉の奥でゴブリン語の音を組み立てる。
【聞いてくれ。俺は二度、この場に立った。二度とも、お前たちを説得できなかった】
正直に言った。飾っても仕方がない。ゴブリンは嘘を嫌う。
【だが、三度目は言葉じゃなく、物を持ってきた】
ナギは籠のキノコを一つ取り出した。手のひらに載せ、広場の前列に向けた。ゴブリンたちの鼻がひくつく。
【食べてくれ。これが、俺の答えだ】
沈黙。
前列の子供のゴブリンが、最初に手を伸ばした。母親が止めようとしたが、隣の老ゴブリンが首を振った。子供がキノコをもぎ取り、齧った。白い歯が傘に沈む。
子供の目が丸くなった。
【おいしい!】
その声が、広場に響いた。子供の叫びに釣られて、二体目、三体目のゴブリンが手を伸ばした。ナギはキノコを次々に渡していった。二つの籠が、みるみる空になっていく。
食べたゴブリンの反応は一様だった。目を見開き、耳を立て、隣の仲間と顔を見合わせる。
【大きい。身が詰まっておる】
【集落のより旨い。水が違うのか】
【こんなキノコ、何年ぶりじゃ】
ざわめきが広場を満たした。ナギはその波が広がるのを待った。交渉の間合いだ。早すぎても遅すぎてもいけない。
【砦の井戸水で育てた。この水を使えば、毎日これだけのキノコが採れる。子供にも、年寄りにも、戦士にも。腹を空かせる日はなくなる】
ピッケの母親、モーラが腕を組んだまま頷いた。農耕の長の同意。周囲の農耕担当たちも、互いに目を見交わしている。
だが。
【待て!】
ガルガが前に出た。太い腕を振り上げ、槍を地面に突き立てた。
【キノコ一つで買われるのか! これは買収じゃ!】
広場が揺れた。ガルガの声は太く、よく通る。戦士長の威圧が、食べ物の興奮を押し返そうとしている。
【甲冑の人間はどうなった。こいつの後ろに王国の手下がいたことを忘れたのか!】
ナギの指が強張った。ここが正念場だ。
【ガルガ。甲冑の人間は俺を追い出した連中の手下だ。俺が呼んだんじゃない。俺の敵でもある】
【敵だと? 人間の内輪揉めに巻き込まれるのはごめんじゃ!】
声が割れた。賛成と反対が入り混じり、広場が騒然とした。声比べの形を成していない。ナギは歯を食いしばった。このまま怒鳴り合いになれば、数の力でガルガが勝つ。
その時、ゴルドが立ち上がった。
【静まれ】
長老の声は大きくなかった。だが、重かった。三百のゴブリンが口を閉じた。
【ガルガよ。お前の懸念はもっともじゃ。だがワシは、この人間の目を見てきた。嘘の匂いはせぬ】
【長老、声比べは数で決めるものじゃ。お前の勘で決めるな】
【勘ではない。証拠がある】
ゴルドが広場の中央に歩み出た。ナギの横に立ち、三百のゴブリンを見渡した。
【この人間は、甲冑の人間の正体を突き止めた。王国軍の携帯食の包みを持ってワシのところに来た。砦を監視していたのは、こやつを追い出した王国の手下じゃ。こやつ自身は、その命令書を焚き火に投げ込んだ】
広場がざわめいた。ガルガの目が細くなった。
【命令書を焼いた? それが何の証拠になる。人間の芝居かもしれぬ】
【芝居かどうかは、これからわかる】
ゴルドがナギを見た。老ゴブリンの目に、静かな信頼があった。
【ナギよ。皆に言え。お前が何を捨てて、何を選んだのか】
ナギは広場を見渡した。三百の小さな目が自分を見つめている。敵意、好奇、不安、期待。全部が混じった視線。
【俺は王国に追放された。魔物と話すスキルが気味悪がられたからだ。王国は俺を捨てた。捨てた後で、また利用しようとしてきた。だが俺は断った】
言葉を切った。一拍の間を置く。
【俺はこの場所を選んだ。砦を選んだ。そして——お前たちを選んだ】
広場が静まった。風が木々を揺らす音だけが聞こえた。
モーラが一歩前に出た。農耕の長が、声を上げた。
【ワシは賛成じゃ。キノコは嘘をつかぬ。この水があれば、子供たちに腹いっぱい食わせられる。それ以上の理由がいるか!】
モーラの周りの農耕担当たちが声を上げた。賛成の声が広がる。だがまだ足りない。ガルガの周りの戦士たちは腕を組んだまま動かない。
拮抗。賛成と反対が、ほぼ同数。
ナギの視界の端で、小さな緑色の影が動いた。
ピッケだ。
子供のゴブリンが広場の中央に駆け出してきた。木の人形を胸に抱えたまま、ナギの脚にしがみつく。大きな丸い目が、広場のゴブリンたちを見上げた。
【ナギは……ナギは、にんげんをなおしてくれたの!】
ピッケが木の人形を振り上げた。何度も脚がもげた人形を、ナギは何度も直した。
【こわくないの! ナギはこわくないの!】
子供の声は甲高く、広場の隅まで響いた。ゴブリンたちの表情が変わった。子供が人間を庇っている。人間に懐いている。その光景は、どんな言葉よりも雄弁だった。
モーラが叫んだ。
【子供たちに腹いっぱい食わせたい! それがワシの声じゃ!】
母親の声が、堰を切った。農耕の担当たちが、子供を持つ親たちが、年老いたゴブリンたちが、次々に声を上げた。
賛成の声が、反対を——呑み込んだ。
ガルガが歯を剥いた。だが声比べの結果は覆せない。それがゴブリンの掟だ。戦士長は槍を拾い上げ、忌々しげにナギを睨んだ。
【……今回は、負けた。だが忘れるな、人間。裏切ったら……】
【わかっている。名前を剥がされるんだろう】
ガルガの目が見開かれた。ゴブリンの最大の恥辱を、人間が知っている。
【……覚えておけ】
ガルガが踵を返した。戦士たちが後に続く。完全な敵対ではない。だが和解でもない。
ゴルドがナギの前に立った。長老の手が伸びてきた。小さな、皺だらけの手。
【同盟じゃ。ナギ。お前は今日から、我らの「数」に入る】
ナギはゴルドの手を握った。小さくて硬い手だった。皮膚の下に骨の感触がある。老体の、だが確かな力が込められた握手。
【ありがとう、ゴルド】
【礼はいらぬ。キノコで返せ】
広場にゴブリンたちの笑い声が広がった。子供たちがナギの周りを走り回る。ピッケが人形を振りながら踊っていた。
* * *
日が傾く頃、ナギは集落の外れの木の下にいた。こめかみが脈打っている。朝から声比べの場で魔物語を使い続けた反動だ。耳の奥で小さな音が鳴り止まない。
祝いの席は続いている。ゴブリンたちがキノコの汁を煮て、集落全体に配っている。甲高い声が飛び交い、子供たちが駆け回っている。
セリアが隣に来た。木の幹に背を預けて、広場を見つめている。
「……あんた、本当にやったのね」
「やった」
「声比べって、あたしにもわかったわ。最後のあの声の大きさ。圧倒的だった」
「モーラとピッケのおかげだ。俺の言葉だけじゃ足りなかった」
「謙遜してるの?」
「事実だ」
セリアが笑った。小さく、だが確かに笑った。ナギがセリアの笑い声を聞くのは、これが初めてだった。
「キノコ、一つもらっていい? 汁じゃなくて、そのまま食べたい」
「ああ」
ナギは腰の袋からキノコを一つ取り出した。セリアに渡そうとした時、指が触れた。
セリアの指先は冷たかった。弓を引く指。硬い皮膚。だがその下に、確かな温度がある。
二人の手が止まった。キノコを挟んで、指が重なっている。
ナギは手を引いた。セリアも手を引いた。同時だった。キノコはセリアの手の中に落ちた。
どちらも、何も言わなかった。
セリアがキノコを齧った。白い歯が傘に沈む。
「……おいしい」
「そうか」
「ゴブリンの子供と同じ感想しか出ないわ」
「十分だ」
沈黙。風が木々を揺らした。集落の笑い声が遠くに聞こえている。
その沈黙の中に、しわがれた声が割り込んだ。
【ナギよ】
ゴルドが杖をついて歩いてきた。長老の顔に、祝いの気配はなかった。
【同盟の祝いに、一つ教えておく】
ナギは立ち上がった。ゴルドの目が暗い。
【東の丘陵のオーク族が、動いておる】
「動いている?」
【奴らの斥候が、この森の境界に来ておる。二度、三度と。数が増えておる】
ナギの背筋が冷えた。東の咆哮。あの夜に聞いた飢餓の叫び。
【オーク族は我らの森を狙っておる。食料が尽きたのじゃ。奴らの家畜が大量に死んだと聞いておる】
「家畜が死んだ? 病気か」
【わからぬ。だが、飢えたオークは手がつけられぬ。力の種族じゃ。我らゴブリンでは、正面から戦えば勝ち目はない】
ゴルドがナギの目を見た。老いた目に、切実な光があった。
【同盟者なら、助けてくれるな?】
ナギは東の空を見た。赤土の丘陵が、夕焼けに染まっている。あの丘の向こうに、八十のオーク族がいる。ゴブリンとの同盟は成立した。だが、それは始まりに過ぎなかった。
「まあ、話してみないとわからないだろ」
ゴルドの耳がぴくりと動いた。
【話す? オーク族と?】
「交渉だ。俺の得意分野だ」
【正気か。オーク族の集落に行った者は、ゴブリンでも人間でも、帰ってきたことがないぞ】
セリアが弓の紐を握りしめていた。ゴブリン語はわからないが、ゴルドの表情から深刻さを読み取ったのだろう。
「ナギ、何の話?」
「東のオーク族が動いてる。ゴブリンの森を狙ってるらしい」
「オーク? あの巨体の……」
「ああ。同盟を守るなら、オーク族とも話をつけないといけない」
セリアの緑色の目がナギを射抜いた。
「あんた、本気で言ってるの?」
「まあ、話してみないとわからないだろ」
「2回言った。それ、口癖?」
「そうかもしれない」
ナギの「交渉」は、始まったばかりだった。




