追放
「お前は人間の味方か、魔物の味方か」
斥候隊長ヴェルクの声が、焚き火の爆ぜる音に重なった。
魔物語。魔物の言葉を聞き取り、話すことができる唯一の斥候。その異端のスキルが、今夜ナギの首を絞めようとしていた。
答えられなかった。どちらでもあり、どちらでもない。そう言えば正直だが、この男の前では自殺行為に等しい。
「……30体のゴブリンの群れが、南に向かっています。ですが戦う気はない。水場を探しているだけです」
つい先ほど報告した内容を繰り返した。森の向こうから聞こえてきたゴブリンの声。人間には甲高い鳴き声にしか聞こえないそれを、ナギは正確に読み取っていた。群れの長が子供たちに「川を探せ」と指示を出していた。それだけのことだ。
「水場を探している、か」ヴェルクは革手袋を外しながら鼻で笑った。「魔物の行動を、まるで隣人のように語るな。気味が悪い」
端正な顔に浮かぶのは嫌悪ではなく、計算だった。金髪を後ろに撫でつけた横顔が、炎に照らされている。この男は常に損得で動く。ナギのスキルが有用なうちは利用し、リスクが上回れば切り捨てる。その天秤が、今夜傾いたのだ。
「獣語りの乱を知らないとは言わせないぞ。二百年前、お前と同じスキルを持った男が魔物の軍勢を率いて何をした?」
「あれは誤解だと……」
「誤解かどうかは問題ではない」ヴェルクが手を振って遮った。「問題は、兵たちがお前を恐れていることだ。恐れは士気を蝕む。私の隊に、蝕みは要らない」
焚き火を囲む斥候兵たちが目を逸らした。誰一人、ナギを見ない。五年間、同じ飯を食い、同じ泥を被り、同じ森を走ってきた仲間たちが、地面や空や自分の爪先を見つめている。
マルコだけが唇を噛んでいた。拳を膝の上で握り、何か言いたそうに口を開きかけては閉じている。だがその拳は震えているだけで、声にはならない。ナギはマルコを見つめた。目が合った瞬間、マルコが顔を背けた。
「答えられないなら、この隊には要らない」
ヴェルクの声は、天気の話と変わらない口調だった。
「装備を置いていけ。支給品は全て返却だ」
革鎧の留め具を外す指が、うまく動かなかった。噛み合わせがずれて、三度やり直す。五年間、毎日脱ぎ着して体に馴染んだはずの装備が、急に他人のもののように感じられた。
胸当て。腕甲。脛当て。最後に、軍の紋章が刻まれた短弓を地面に置いた。弓から手を離す瞬間、弦がかすかに鳴った。
「私物は持っていけ。温情だと思え」
手元に残ったのは、入隊前から使っていた古い革鎧と、柄の擦り減った短剣だけだった。
「どこへ行けと?」
「辺境にでも消えるんだな」ヴェルクは焚き火に背を向けた。もう興味を失ったとでも言うように。「魔物が好きなら、魔物の隣で暮らせばいい」
最後にもう一度、仲間たちを見回した。誰も顔を上げなかった。
ナギは野営地を後にした。背中に突き刺さる沈黙だけが、見送りだった。
* * *
三日、歩いた。
街道を外れ、獣道を辿り、名も知らぬ川を二つ渡った。
携帯食は初日で尽きた。二日目は川沿いの野草を齧って凌いだ。苦い汁が舌に残ったが、吐くほどの余裕もなかった。三日目には水筒の底が乾き、唇が割れて血の味がした。
辺境の空は広かった。見渡す限りの丘陵と灌木の群れ。王都セルディオンの方角を振り返っても、もう何も見えない。街道も、煙も、人の気配も。あるのは風の音と、時折聞こえる遠い鳥の声だけだ。
二度、魔物の声を聞いた。一度目は丘陵の向こうから聞こえたオークの怒号。二度目は沢沿いに潜んでいた森狼の遠吠え。どちらもナギに気づかなかった。斥候の足運びが身を守っていた。
足を止めたら、そのまま倒れる気がした。だから歩いた。
丘の上に石造りの影が見えたのは、三日目の夕暮れだった。
崩れかけた城壁。半壊した門。苔むした石積みの間から、雑草が好き勝手に伸びている。五十年前に放棄された辺境の砦だ。斥候時代の地図に載っていた名前を思い出す。グレンデの砦。
門をくぐると、蔦が絡まる石段の下に中庭が広がっていた。壁の一部は完全に崩落し、瓦礫が積み上がっている。見張り台は半分が欠け落ち、残った柱だけが夕空に突き出していた。
石段を踏んだ瞬間、足の裏に微かな振動が伝わった。地下に何かがあるのか。それとも三日の疲労が感覚を狂わせているだけか。
中庭の隅に井戸を見つけた。縄を手繰って桶を下ろす。遠い水面に桶がぶつかる音が、暗い穴の底から返ってきた。生きている。
引き上げた水は澄んでいた。一口含むと、鉄の匂いが微かにした。冷たさが喉を滑り落ち、空っぽの胃袋に沁みた。ナギは石壁に背中を預け、息をついた。
頭上で一番星が瞬いていた。追放されて三日。行く宛てもなく辿り着いた廃砦だが、水がある。それだけで生きていける。
ここなら——
茂みが揺れた。
ナギの手が反射的に短剣の柄に伸びる。だが耳が先に動いた。音の質が違う。獣の足音ではない。軽すぎる。そして複数。五つ、六つの気配が、中庭を取り囲むように散開していく。
石壁の隙間から。崩れた瓦礫の陰から。蔦の絡まる門の影から。
小さな影が飛び出した。ナギの腰ほどの高さ。
緑色の肌。大きく尖った耳。丸い目が暗闇の中で松明のように光っている。手には粗末な石槍。ゴブリンの偵察兵が五体、ナギを囲んでいた。
甲高い声が夕闇に響いた。人間の耳には、金切り声の鳴き声にしか聞こえないだろう。
だがナギの耳には、はっきりと意味が届く。
【人間だ! 人間がいるぞ!】
【殺すか?】
【待て、長老に聞かなきゃ! 勝手にやったら声比べで負けるぞ!】
先頭のゴブリンが槍の穂先をナギの喉元に突きつけた。リーダー格だ。他より一回り大きく、耳に小さな骨飾りをぶら下げている。歯を剥き出しにして威嚇しながら、仲間に指示を飛ばしていた。
【囲め! 逃がすな!】
その奥の闇から、さらに気配がにじり出てくる。十を超える視線がナギに集中した。木々の間に光る無数の目。
ナギは短剣から手を離した。
ゆっくりと両手を広げ、掌を見せた。斥候として五年間で学んだことがある。魔物にとって、手のひらを見せる動作は「武器を持っていない」の意思表示になる。ゴブリンは知性がある。この仕草の意味を理解できるはずだ。
そして喉の奥で低い音を鳴らした。舌を上顎に当て、息を短く区切る。人間の声帯では完全な再現はできない。だが五年間、森の中で魔物の声を聞き続けた耳と喉は、意思を伝えるには十分だった。
【待て。敵じゃない】
ゴブリンたちの動きが止まった。
槍を突きつけていたリーダー格が、目を丸くした。大きな瞳がぐるりと回り、口が開いたまま閉じなくなる。槍の先が、わずかに下がった。
周囲のゴブリンたちがざわめいた。甲高い声が、闇の中でさざ波のように広がっていく。
【聞いたか?】
【人間が、我らの……】
【嘘だ、空耳だ!】
【違う。確かに言葉だった!】
リーダー格のゴブリンが、震える声で返した。槍を握る指が白くなっている。
【……お前、人間か? 人間が、我らの言葉を?】
その声に宿っていたのは、敵意ではなかった。驚愕と——わずかな期待。
ナギは口の端を上げた。
「まあ、話してみないとわからないだろ」
背後の森から、さらに数十の気配がにじり出てくる。木々の間で無数の目が光り、茂みの揺れが広がっていく。ナギは完全に囲まれていた。
だが不思議と、短剣に手は伸びなかった。




