18
何を思い出せばクルテを人間にできるんだろう?――クルテを抱いて横たわり、顔を眺めてピエッチェはそればかり考えていた。
なんとか思い出そうとするが、そう簡単に思い出せるはずもない。忘れていると言うことはまず、忘れていることにさえ気づいていないものだ。それをなんのヒントもなしに思い出すほど難しいことがあるだろうか? あまりにもとりとめがなさ過ぎて途方に暮れる。
なんの成果も得られないまま日は暮れてしまい、居間に食事が運ばれている気配がした。
「クルテ?」
覗き込んだらうっすらと目を開けたクルテに、微笑んでピエッチェが問いかける。
「夕食が運ばれてきた。起きて食べる? それともこのまま寝てる?」
「今日のピエッチェは優しい」
「うん? 体調が悪い時くらい気を遣うさ」
「いつも優しい。でも、それを表に出してくれない。今日は言葉も声も優しい」
なんと答えていいか判らず、
「いったん俺は起きなきゃ。カッチーが呼びに来たら驚くよ」
そっとクルテの腕を外して上体を起こすピエッチェに、
「ピエッチェが食べるなら一緒に食べる」
とクルテが言った。
ベッドから降り、ベッドの横に置いた椅子に座ってからクルテのおでこに手を伸ばしピエッチェが答える。
「まだ熱がある。でもさっきより少しは良くなってる感じがする」
「うん、頭が痛いのは軽くなった。でも、大きな声はやめて」
ピエッチェが苦笑していると、ノックの音がした。その場で答えようとして思い直したピエッチェ、ドアを開けに立つ。大声を避けた。
「あ、ピエッチェさん――クルテさん、どんな感じですか?」
ドアが開くとは思っていなかったのだろう、カッチーが少しだけ驚いた。
「夕食が届いたんですけど、どうしますか?」
カッチーの問いにピエッチェがクルテを見る。するとクルテが、
「フルーツある?」
と訊いて二人を失笑させた。
「ありますよ――さっき追加でフルーツの盛り合わせを頼んだんです。夕食に果物はないって言われたんで……勝手してすいません」
「いや、構わない。気を遣わせたな。金は足りたか?」
「えぇ、まだ少し残ってます」
クルテはベッドで上体を起こしたが、降りてくる様子がない。さっきは自分で起き上がれなかった。このまま朝まで寝ていれば、全快とまで行かなくてもかなり回復しそうだ。
「どうした? 立つのが辛い? こっちに運んでくるか?」
「ピエッチェと一緒に食べる。えっと……フルーツ以外も食べなきゃダメ?」
そこか? と、ついピエッチェが笑む。カッチーは抑えきれなかったようで、ふいッと居間に戻ったと思ったら、クルテからは見えなさそうなところでクスクス笑った。
「今日だけ特別だぞ? 好きな物だけ食べていい――立てるか?」
ベッドから足を降ろしたクルテの傍に急ぎ足で近寄ったピエッチェ、クルテに手を貸して立ち上がらせる。
「なんだかフラフラしてる気がする。でも大丈夫」
ゆっくりと居間に向かうクルテ、倒れればすぐに支えられるようピエッチェが歩調を合わせて付き添う。居間ではマデルがソファーに座りもせずにクルテを待っていた。
「マデル……」
クルテが両腕を広げマデルに抱き着いた。
「クルテ?」
「ありがとうマデル……お姉さん」
クルテが顔を上げてマデルを見る。
「引き返してくれて、凄く嬉しかった。置いていかれるんじゃないかって、心細かった」
「クルテを置いてなんか行けないよ」
マデルが涙ぐむクルテを抱き返す。そしてピエッチェを睨みつけた。が、何も言わなかった。
「ピエッチェが、食べるのは好きな物だけでいいって許してくれた。特別だって。マデルも許してくれる?」
「うん。だけど、体調が戻ったらちゃんと食べるんだよ――さぁ、座って。果物はクルテのために用意したんだ。食べられるなら全部食べちゃって構わない」
クルテがマデルに助けられながら椅子に座った。なぜか疎外感を感じるピエッチェ、どう言い現わしていいか判らず、
「お姉さんってなんだよ?」
と、クルテの向こう側の椅子に座る。
するとカッチーが、
「あれ? クルテさんと打ち合わせてたんじゃないんですか?」
とキョトンとし、クルテが
「ピエッチェはこっち」
と隣の椅子を指す。
「打ち合わせって何を?」
とカッチーに問い、クルテには嬉しさを隠して『面倒くせぇな』と、ピエッチェが立ち上がる。
「宿にクルテさんのこと、婚約者って言ったんですよね?」
カッチーに言われて、思わず赤面する。
「それは……友人かと訊かれたから、ギュリューの時と同じでいいかなって」
クルテの隣に腰を降ろして
「医者に診てもらうことになった時、俺が同席するには、なぁ?」
ピエッチェが口籠る。
マデルが、
「いいんじゃない? この先も、そう言うことにしておけば。ピエッチェとカッチー、それにわたしは似てない兄弟って思われるだろうけど、そこにクルテまで入れると怪しまれそうだ」
クルテの前、ピエッチェがいったん座った椅子に腰を降ろした。
「わたし、仲間外れ? 迷惑かけてる?」
「はいはい、迷惑じゃないし、大事な仲間。判ったら食事にしましょ」
苦笑したマデルがフルーツの皿に手を伸ばし、ぐずぐず言い出しそうなクルテの前に置いた。途端にクルテの表情が明るくなる。
「ね、この黄色いのは何?」
「うん、なんだろうね。ピエッチェ知ってる?」
「それはバナナだな。パイナップルと同じ地方で穫れる。皮を剥いて食べるんだ」
皿にはバナナの輪切りとブドウが盛られていた。
「へぇ、初めて見たわ。ピエッチェ、食べたことあるの?」
「あぁ、け……けっこう前に一度だけな。柔らかくて甘かった」
献上されたことがある、と言いそうになって慌てて言い変えた。
クルテが手に取り、
「なんでここには皮がない?」
とピエッチェを見上げる。
「そこは切り口だからだ。もともとの形は、棒状なんだよ」
「へぇ……うん、美味しい。でも果汁がない。これじゃあジュースにできない」
口に入れて苦情を言うクルテにピエッチェが苦笑する。
「裏ごしして他の果物の果汁と混ぜればジュースにもなるよ。ミルクで割っても美味しいらしい」
「ミルクを加えたらジュースじゃなくなる」
「ん? まぁ、そうだな。作って貰うか?」
少しだけクルテが考える。
「ううん、手間がかかりそう。ジュースは他の果物でいい。それに今は要らない。でも、朝は欲しい」
「判った。それじゃあ、ワゴンにメモを置いておくよ。オレンジジュース?」
「あればオレンジジュース。大好き」
二人の様子にカッチーが何か言いたそうにしたがマデルの目配せで黙っている。クルテばかりを見ているピエッチェ、果物に気を取られているクルテはそんなカッチーとマデルに気が付いていなかった。
食事の途中でマデルが言った。
「ここ、一泊って言ってたけど、延長できるの?」
「あぁ、大丈夫。とりあえず一泊、もしかしたら二泊になるかもしれないって言ってある。宿は承知した」
パンを千切る手を止めてピエッチェが答えた。
「マデル、明日ここを発とうか?」
訊ねたのはクルテだ。
「なに言ってんの。あんた、明日も寝てないさい。少し良くなったからって、丸一日歩き続けたら、ぶり返すよ」
「そうなのかな? そんなもの?」
ピエッチェを見るクルテ、
「そうだな、マデルの言うとおりだ――でもマデル、いいのか?」
ピエッチェがマデルを見る。一日遅れればそれだけフレヴァンスに辿り着くのが遅くなる。
「バカ言ってんじゃないよ――ジュースを注文するメモに『もう一泊』って忘れず書いてよね」
「わたし、迷惑?」
「もう、クルテ、あんた、時どきイラつくわ」
「迷惑なわけないよ」
そう言ったのはピエッチェだ。
「迷惑じゃない、大事なだけだ。マデルがさっき言っただろう? 大事な仲間、だから心配なだけだ」
「イラつくって言われた」
「心配してるのが判らないの? って言いたかっただけだよ。クルテのことが好きだから、必要な時は甘えて欲しいんだ」
ピエッチェの言葉にクルテが嬉しそうに頷いて、
「マデル、ごめんなさい。明日も寝てる」
マデルにも微笑んだ。
これにはマデルもとうとう、
「ピエッチェ、あんたどうしちゃったの?」
と、呆気にとられる。カッチーが、
「俺には黙ってろって言ったくせに……」
隣でボヤく。
「俺が? どうかしたか?」
自覚のないピエッチェに、
「いいや、なんでもない――さっさと食べて寝よう。もうなんか……歩き疲れかしら、眠いわ」
呆れかえったマデルだ。
バナナを三切れ残し、ブドウを五・六粒食べたところでクルテが立ち上がる。
「ダメ、もう寝る」
ゆっくりと寝室に向かう。が、食事前より足取りはしっかりしている。それでもピエッチェが慌てて立ち上がりクルテに付き添った。
「ピエッチェさん、まるで別人ですね」
カッチーがクスッと笑った。
「あぁ、しかもクルテにだけ。猫なで声で言葉使いも甘あま」
「さっきも、いつもだったらマデルさん以上にイラつくパターンですよ」
「あぁ、『わたし、迷惑?』ってやつ?」
「それです!」
クスクス笑うカッチーに、
「しっ! ピエッチェが戻ってくるよ」
マデルが口止めした。
「クルテを一人にしてよかったの?」
今まで話していたことを噯にも出さず、マデルが尋ねる。
「あぁ、俺に『しっかり食べろ』だってさ。自分はどうなんだよ、なぁ?」
嬉しそうに答えるピエッチェに、マデルもカッチーもこっそり笑っただけだった。
「それよりクルテが、明後日は必ずセレンヂュゲを発たないとマデルが困るって言ってたけど、どういうことだ?」
ピエッチェの質問にマデルが少しギョッとする。
「なんでクルテ、そんな事を言ったんだろうね? フレヴァンス捜索が遅れることを言ったんじゃないかな?」
そんなマデルの答えに、何か別の理由がありそうだと思うピエッチェ、だがそれ以上追求しないほうがよさそうだ。
「しかし、明日は一日空いちまうな。どうする?」
するとカッチーが遠慮がちに
「それなら、その……宿の受付にポスターが貼ってあったんですけど、近くの劇場で明日お芝居をやるそうなんです」
と言った。
「おやおや、カッチーの芝居好きが始まった」
微笑むマデル、
「観に行きたいのか? いいぞ、マデルと二人で行って来い」
とピエッチェも微笑んだ。
「わたしも? わたしがクルテを看てるから、ピエッチェが行ったら?」
「クルテは俺じゃなきゃダメだ――済まないがマデル、カッチーを頼む」
「これだよ……まぁ、カッチーと出かけるのは楽しいからいいか」
断った埋め合わせをするようにマデルがカッチーに微笑んだ。
さっき感じた、嫉妬のような疎外感はこれだったんだと、ピエッチェは思っていた。クルテがマデルに抱き着いてお姉さんと慕った。なんでマデル? 俺じゃなきゃダメなんじゃなったのか?
何を愚かな、と思った。ひょっとして俺は、自分じゃ気が付かなかっただけで嫉妬深いのかもしれない……




