15
翌日はほぼ同じような一日を過ごした。違ったことと言えば、朝食の受け取り時にわざわざ魔法を見せつけるようなことはしなかったこと、カッチーの素振りの回数が四十回になったこと、そしてほんの僅かな間だが、夕食を運んで来た給仕係をクルテが見つめたこと……
決行当日、目覚めるとすぐそこにクルテの顔があった。いつの間にか抱き合っていたらしい。左腕が怠いのはしがみ付かれていたからでなく、腕枕していたからだ。クルテの左腕は右腕の下を通って背中に回されている。ピエッチェの右腕はそんなクルテを抱き寄せている。
いつの間にか? 朧げな記憶を辿って訂正する。魘されているのを感じて、抱き寄せたのを思い出す。安心しろ、俺はここに居る。怖い事なんて何もない……あれは夢なんかじゃない。
クルテが目を覚ますまで、何も言わずにクルテの顔を眺めていた。
その日も午前中は前日と同じように過ごした。カッチーの素振りの回数は五十回に増え、この調子で行くと五日後には百回だなとピエッチェが笑い、十五日後には二百回ねとマデルも笑った。だけどクルテが『百回で最大』と言って、カッチーが内心ホッとしている。このペースで増やされたら三ヶ月後には千回近くなるとゾッとしたからだ。
そのあとは書き方教室、まったり見ていたクルテが欠伸を噛み殺しながら、『ギュリュー千年史をスラスラ読めるようになったら物語の本を買おう』と言って、カッチーを喜ばせた。マデルが『この本に一番退屈してるのはクルテだよ』とこっそり囁く。ピエッチェとカッチーが同意して笑うと、クルテは三人を見て首を傾げたが何も言わなかった。
そして午後、そろそろお茶が運ばれてくる時間だ。
「さて、行くかな」
ピエッチェがマデルとカッチーに声を掛ける。三人で出かけることにしていた。
「いってらっしゃい」
ソファーに座ったままのクルテが笑顔で見送っている。
(大丈夫なのか?)
(何かあればすぐに呼ぶ)
頭の中で交わされる言葉――聞こえていないはずなのに、マデルが二人の眼差しを見て少しだけ笑んだ。
時間通りに扉がノックされ、クルテがゆっくりと立ち上がる。
「お待たせいたしました――お連れさまはお出かけのようですが、四人分のご用意でよろしかったですか?」
「えぇ、急に出かけることしたんです。キャンセルは申し訳ないから……下げるのは夕食と一緒でいいかしら?」
「なんでしたら、今からでもキャンセルを承りますよ?」
「それには及びません。戻ってからいただくと申しておりました。お気遣い、ありがとう」
「とんでもございません――では、下げるのは夕食と一緒でございますね。畏まりました」
代金とチップを渡すとクルテは何も言わずソファーに向かう。給仕係は一瞬キョトンとしたが、すぐに察してワゴンを押していった。
ソファーに向かったものの腰を降ろすことなく、クルテはうっすらと笑みを浮かべたまま給仕係がセッティングするのを眺めている。
「どうかなさいましたか?」
「手慣れたものだな、と思って……働き始めてどれくらい?」
「かれこれ三年でしょうか」
「ルームサービスの係なの?」
「このお部屋の係でございます」
「あら……この宿で、一番のお部屋なのでしょう? 三年で任されるなんて優秀なのね」
するとシャインが少しだけ笑った。
「四階まで運ぶのは大変なので、誰もやりたがらなくて――わたしは自分から願い出ました。ここまで運ぶくらいどうってことありません」
「細身だけど体力には自信あり? 頼もしいわ」
「恐れ入ります」
眺めているのに飽きたのか、クルテは屋上に行ってしまった。仕方なく黙々とセッティングを続けるシャイン、仕事を終えるとテラス窓からクルテに声を掛けた。
「お茶の支度が整いました」
クルテは屋上の中ほどで空を見上げている。今日は深紅に白いレースの縁取りが付いたドレス、上品なデザインで生地もレースも勿論仕立ても、見ただけで高級なのが判る。
「空がとっても綺麗……なんだか、こんなに伸び伸びできるのは久しぶりだわ」
チラリとシャインを見てクルテが言った。
「お加減はもう随分よろしいのでしょう? 一緒にお出かけになればよかったのではありませんか?」
「そうね、一緒に行けばよかったかも。でも、あの人がダメだって」
「それはまた、どうして?」
「観劇に行ったのよ。わたしが役者さんに見惚れるのがイヤだったみたい。わたしとしては、たまには見惚れるような美形を見てみたいのにね」
シャインがクスリとする。
「惚気でございますか? そうですね、お嬢さまを婚約者に持てば、毎日冷や冷やするかもしれません」
「あら、わたしがいけないの?」
「お嬢さまはお美し過ぎますから。誰かに盗られないか、心配で仕方がないのだと思いますよ」
「お上手だこと」
まんざらでもなさそうにクルテがニッコリ笑う。
「ねぇ、お仕事で忙しい? よかったら少し話し相手をしていただけない?」
「えっ?」
「毎日同じ顔ばかり。たまには……あなたみたいなかたとお話がしたいわ」
シャインの返事を待たずにクルテが傍にあったベンチに腰掛ける。
「それとも……わたしのこと、お嫌い?」
シャインがじっとクルテを見る。そしてゆっくりとテラス窓から屋上に出た。
「ここにお座りになって」
すぐ近くに来るとクルテがシャインを見詰めたままそう言った。頷いて腰かけるシャイン、
「ご婚約者さまに叱られませんか?」
クルテから目を離すことなくそう言った。
「お芝居ってそんなに早く終わる物なの? 知らなければ怒りようがないわ」
「それはそうです……では、少し大胆なお話でも?」
「大胆なお話? 何かしら?――ねぇ、ここから見ると部屋が空に浮かんでいるように見えるわね」
「えっ……あぁ、はい、このギュリューの建物はすべて最上階が空の色に塗られています」
「あら、そうなのね――ところで、何度も顔を合わせているのにあなたのお名前を知らないわ」
「わたしもお嬢さまのお名前を存じ上げません」
「教えないと教えてくれないの? 残念だわ、怒られるから教えられない……ねぇ、ご出身は? この街の生まれ?」
「お嬢さまはどちらのお生まれですか?」
「あら、やっぱりわたしが教えないと教えてくれそうもないわね」
クスクスと笑うクルテ、シャインがそんなクルテを見詰めて
「名前や生まれなど、どうでもいいのではありませんか? それよりお部屋に入りませんか?」
とクルテの肩に腕を回そうとした。
スルリと擦り抜けてクルテが立ち上がる。
「あなたは帰ってしまうの? 仕事に戻る?」
「そうなる前に、あなたを満たして差し上げますよ」
「わたしを満たす?」
「ゴツゴツしているのはイヤなのでしょう? 試してみませんか? お望み通り、優しくしてさしあげます」
立ち上がり、クルテの手を取ろうとするシャイン、クルテはクスクス笑いながら、屋上の奥へと踊るように逃げていく。
「お待ちなさい」
「ダメよ、あの人に言われているの。部屋で自分以外の男と二人きりになってはいけないって」
「では、ここで? 別にわたしは構いませんよ」
「あら、本当に大胆ね」
クスクス笑いながらスルスルと腕を擦り抜けるクルテを捕まえられず、シャインがどんどん焦れていく。
「自分で誘っておきながら逃げるのか? 男を馬鹿にすると痛い目にあうぞ?」
とうとう本性をむき出しにする。
「誘ってない!」
「嘘を吐け、お高く留まりやがって! 俺としたくて仕方ないんだろう?」
本気で襲ってくる気だ――流れ込んでくるシャインの怒気と欲望がクルテを震撼させる。
「やめて!」
ふいに蹲ったクルテにシャインがニンマリとする。
「これくらいでビビるなんて、やっぱりお嬢さまだな――やめるもんか、貴族のご令嬢をたんまり味わわせてもらう。終わる頃にはおまえの方からせがむようになるさ」
クルテの後ろ襟をシャインが掴んで引っ張った。
「ほら、立てよ、泣き顔を見せてみろ――うおっ!」
いきなり手応えが消えて、シャインの手には深紅のドレスだけが残る。
「なにっ!?」
呆気に取られるシャイン、その肩を後ろから誰かが掴んだ。
「この野郎!」
掴んだのはピエッチェだ。
「な、なんでこんなに――」
こんなに早く? そう言いたかったのだろうがピエッチェの拳が言わせない。ヘンなうめき声をあげてひっくり返るシャイン、意識があるようには見えない。
「まさか死んだ?」
シャインが立っていた場所には深紅のドレスを〝ちゃんと〟着たクルテ、
「気絶しただけだ、さすがに一発じゃ殺せないと思う――それとも殺すか?」
ピエッチェが真顔で言う。
「カテロヘブ……」
クルテがピエッチェの胸に縋りつく。
「コイツ、急変した……怖かった」
クルテを抱きとめながらピエッチェが答える。
「あぁ、部屋に入った途端、聞こえてきた。俺が戻るのが遅れたらどうするつもりだった? だからやめようって言ったのに」
「来てくれるって信じてたから」
「なんだか、これから先も同じことを言われそうな気がする」
「イヤ?」
「いやじゃない。責任重大だなって思っただけだ」
クルテを抱き締める手に力を込めようとするピエッチェ、なのにいきなりクルテが離れていく。
「マデルたちが戻った」
「あぁ……アイツら、思ったよりも足が早いな」
本当は遅いと思ったが、口ではそう言ったピエッチェだ。
部屋に入るとすぐにマデルとカッチーも屋上に出てきた。
「あぁあ、伸しちゃたんだ?」
「うん、ついね」
「クルテが襲われてた?」
マデルの問いにピエッチェは苦笑いしただけだ。
「カッチー、受付に行って責任者に来るよう伝えて――従業員がお客に乱暴を働いたって言えば、吹っ飛んでくる」
「はい! クルテさん!――俺、てっきりクルテさんがコイツを伸したのかと思ったけど違ったんですね」
「余計なこと言ってないでさっさと行け!」
ピエッチェに怒鳴られて、慌てて部屋を出たカッチーだ。受け付けは一階、四階まで駆け上ってきただろうに、また降りて行かなくてはならない。
「それで、何か判った?」
マデルがクルテの顔を見て言った。




