15
クルテがカッチーの腕を引っ張って、自分の後ろに立たせる。それを待ってピエッチェはクルテの横に立った。寝室の隅、開け放たれたドアの横の壁を背にピエッチェとクルテ、後ろのカッチーは壁ギリギリだ。
ふぅっと深く息を吐いたピエッチェが、まっすぐ伸ばした左腕を前方に向けてあげていく。肘が胸の高さまで上がったところで動きが止まる。そして何かを確認するように、ゆっくりと肘を曲げて掌を自分の顔に向けた。ピエッチェはそのまま動かない。自分の手を睨みつけている。怖い顔だ。
固唾を飲んで見守っていたカッチーが『掌に念を込めているんですか?』と小声でそっとクルテに尋ねるが、クルテもやはり険しい表情でピエッチェを見詰めているだけで答えない。
左肩の故障を忘れていた――肩の高さまで上げようとしたのに、途中で止まってしまった。どうする? 右に切り替えるか? でも……右を使うのは避けたい。
右でもできなくはない。けれど右は剣を持つと想定して、魔法の鍛錬は左で続けてきた。この狭い空間で魔力を使うなら繊細な調整が必要だ。ならば右よりも左を使うに限る。右を使えば魔力不足で魔法が効力を発揮しなかったり、反対に過剰で暴走させてしまうかもしれない。
無動作で施術するか? ダメだ……森の女神の魔法を破るのに、無動作では心もとない。引っ張り出すと同時に、メッチェンゼから奪った魔力をワイズリッヒェから取り上げられなければ苦しい戦いとなる。屈することになったら、この空間に取り込まれるのは俺だけじゃない。
迷うピエッチェに、クルテが囁く。
「そのまま行け。おまえの左には強い守護がついている」
クルテの毛髪を土台に、グレナムの黒瑪瑙を埋め込んだ金の指輪を言ってるのか?
ザジリレン王の魔法はグレナムの力を借りてこそ最強だと教えられた。ならば試す価値があるはずだ。
自分の顔に向けていた掌を下に降ろし、再び前方に腕をあげる。まっすぐ伸ばした腕を肩の高さで構え、掌を対象に翳して魔力を放ちたい。だが、今度も傷ついた左肩は思い通りに動いてくれない。傾いて床を指す腕、ムッと寝室を見渡すピエッチェが意を決する。
軽く折った肘、上に向けた掌に魔力を送り込む。見渡した寝室に『必要な』魔力を溜めて、ギュッと握り締めた。
背後でカッチーが息を飲む。天蓋が捲れ上がり、ベッドやテーブル・ソファーなどの家具類すべてが宙に浮く。握り締めた拳を後ろに放るようにクイッと肘を折れば、浮き上がった家具類が瞬時に消えた。カッチーが『あっ!』と小さな悲鳴を上げ、ドアのほうを見る。
「クルテさん!」
「しっ! まだ終わってない、静かに……」
曲げた肘を伸ばしたピエッチェ、もう手を握り締めてはいない。開いた手を床に翳して、サッと右から左に払えば床板が消えた。ふむ……唸るピエッチェ、地面が見えると予測していたのに現れたのは暗闇だ。不安げな顔でクルテがピエッチェを見上げるが、ピエッチェは暗闇を睨みつけたままだ。
ピエッチェの左腕が動き出す。延ばされた人差し指から細く暗い光線が放たれている。クルテがホッとした顔で、視線をピエッチェが指さす先に向ける。光の筋は寝室の奥に届き、暗闇に飲み込まれていた。そしてゆっくりと移動している。ワイスリッヒェが籠った結界を探しているのか?
「!」
暗闇の少し奥で光線がパッと輝いた。何かに当たって屈折し、少し先の闇の中から上に向かって消えていく。
「カティ!」
いきなり闇に飛び込んだピエッチェに、クルテが叫ぶ。闇の表面は硬く、ピエッチェの身体が沈むことはなかった。
「来るなっ!」
ピエッチェの声に、後を追おうとしていたクルテの足が止まる。そして光線が輝いた場所の直前で、ピエッチェが剣の柄に右手を伸ばす。
シュッと鞘から抜ける音、
「殺しちゃダメ!」
クルテの叫び、両手で柄を握り締めピエッチェが膝を折り、その勢いで闇に剣を突き刺した。
ズンっ! 剣が刺さる鈍い音……
「あ……?」
フラッとよろけるクルテ、
「クルテさん!」
それを支えるカッチー、闇から剣を引き抜いて立ち上がったピエッチェは足元の闇を睨み続けている。すると……
ガタガタと寝室が揺れ始める。ニヤッと笑ったピエッチェが、クルテの元に戻ってくる。カッチーに支えられていたクルテは自力でシャンと立ち、
「馬鹿っ!」
とピエッチェを詰る。
その間も揺れる寝室、原因はすぐ判った。床板が見る見る修復されていく。その反動だ。そして、ヘンに反響する声が響いた。
「家具はどこにやった?」
ワイズリッヒェの声だ。
「えっ? 殺されたんじゃ?」
カッチーの呟きに、ワイズリッヒェがフンと鼻を鳴らす。
「人間の剣で精霊を殺せるもんか」
だって? クルテを見るカッチー、
「グレナムの剣と勘違いした」
気まずげなクルテ、グレナムなら殺せたのかと思うピエッチェ、
「恐ろしいことを言うな」
ワイズリッヒェが苦笑した。
しかし……
「見えない相手とは話しずらい……ワイズリッヒェ、どこにいる?」
ピエッチェの苦情に
「ここだ、カテルクルストの息子」
ワイズリッヒェが寝室の向こうに姿を現した。
「わたしの家具を返せ」
「返してやるさ。俺には用のないものだ――だが、おまえ、メッチェンゼから借りて返してないものがあるだろう?」
「なぜそれを?」
「メッチェンゼから聞いた」
「くっ……そうか、カテルクルストの魔法は今も継承されているのだな」
フッとワイズリッヒェが溜息を吐いた。
「あれ? 今のは風?」
カッチーが不思議そうにドアを見る。カッチーが風と感じたものの正体は、ワイズリッヒェがメッチェンゼに返還した魔力の気配だ。ドアを抜け、昼のメッチェンゼに向かって行った。
「安眠の場所がなくなった」
恨み言を口にするワイズリッヒェ、ピエッチェが
「外野に干渉されたくないなら、この屋敷に誰も入れなければいい」
と言うと、
「ずっと誰もいないのは寂しい……森では多くの生き物に囲まれていた」
それを自分で捨てたんじゃないか、そう思ったが言わずにいたピエッチェだ。
その替わりと言うわけでもないが、
「メッチェンゼも開放するぞ?」
と宣言するピエッチェ、ワイズリッヒェは諦めたのか何も言わない。
「メッチェンゼと一緒に、俺たちも出て行く。いいな?」
ワイズリッヒェがピエッチェたちをこの空間に取り込めたのは、メッチェンゼから奪って魔力が増幅されていたからだ。元もとのワイズリッヒェの魔力ではできいことだ。が、クルテが
「それは……無理だ」
と呟いた。
「さすが姫、判っている」
ワイズリッヒェがニンマリ笑んだ。
「解放したければメッチェンゼは解放したらいい。だけどカテルクルストの息子よ。すでに条件は発動されている。この空間を逃れたいなら、我の望みを叶えるか、あるいは姫を人質に差し出すか? ほかに方法はない」
得意げなワイズリッヒェ、フンとクルテが
「ほかに方法がないわけじゃない――条件を追加するってのもある」
ワイズリッヒェを睨みつける。
「条件の追加?」
クルテを見るピエッチェ、ワイズリッヒェは
「我を解放する、カテルクルストの息子が我と結ぶ、姫を人質にする……この三つに見合う条件など、そう思いつけるか」
ツンとソッポを向いた。
つまり、すでに提示されている条件を達成しなければ俺たちは屋敷から出られないってことか……なるほど、ワイズリッヒェが消滅していたら達成できない条件ばかりだ。クルテが『殺しちゃダメ!』と叫んだのは、だからか。ギリギリ可能性があるのはクルテを人質にってのだが、ワイズリッヒェが消滅していても〝人質〟と認められるか不明だし、クルテを置き去りになんかできない。
「見合う条件ねぇ……」
クルテは目を細めてワイズリッヒェを見ている。そしてニマっと笑った。
「思い上がるなワイズリッヒェ。奪った魔力も使って出した条件と同等の条件を、今のおまえが出せると思っているのか?」
「しかし……しかし、それを言うなら、強い魔力で発動させた条件を、弱い魔力で上書きできやしない」
「あぁ、一つだけではな」
狼狽えて足掻くワイズリッヒェ、クルテがワイズリッヒェを正面に見据えた。
「条件を三つ追加しろ。内容はわたしが決める――上書きされた三条件が達成されれば、おまえが閉じ込めたカテルクルストの息子たちは解放される」
フワッと部屋の空気が生温くなったがすぐに元に戻った。
クルテが放った魔法の影響で空気の温度が変わった。こんな現象を経験するのは初めてだ。でも、なんだか……そうだ、女神の祝福に似ている。身体の芯が熱くなることもあったが、暖かなものに包まれる感覚を味わったこともある。今のはそれだ。
ワイズリッヒェはポカンとクルテを見ている。クルテがニヤリとすると、ワイズリッヒェの口が動いた。
「一つ……二度と屋敷に人間を迷い込ませるな」
表情のない平坦な声、ワイズリッヒェの目は虚ろだ。クルテが魔法で言わせているのかもしれない。
「二つ……寝室の家具を元通りに戻せ」
クルテ、その条件はワイズリッヒェが可哀想すぎる。
「三つ……カテルクルストの息子たちよ。我の祝福を受け取れ」
息子たち? と、呟くカッチーの声、そして身体の芯が仄熱くなった――
昼のメッチェンゼでブルーベリーを摘んでいたラクティメシッスの手が止まった。マデルが不安げにラクティメシッスを見て訊ねた。
「今、屋敷内で大きな魔力が動いたよね?」
「えぇ、こちらに向かって――」
言い終わる前にマデルを押し倒すラクティメシッス、頭上を何かが通り抜けた。ワイズリッヒェがメッチェンゼに返した魔力だ。が、そんなことを知らない二人が顔を見交わす。
「寝室で何か起きたようです」
サッと立ち上がったラクティメシッス、マデルに手を貸して立ち上がらせる。
「今すぐ寝室に戻るよ」
貸した手で、そのままマデルの手を引いて駆け出そうとするが、
「ちょっと待って」
落としてしまった紙袋をマデルが拾い上げる。
「クルテが楽しみにしてる……ピエッチェに食べさせたがってたもの」
ピエッチェもクルテと一緒に、もう食べたとは知らないマデルだ。
袋を拾い上げるくらい、大して時間もかからない。そんなのほっといて、と言いたいところだが言う暇もないラクティメシッス、繋いだままの手を引いて、昼のメッチェンゼの出口に向かった。
すぐに廊下に出て、マデルの足の遅さにイライラしながらも先を急ぐ。が……玄関の間の手前で足を止めた。
「どうなってるのよっ!?」
マデルの叫び、玄関の間への入り口には山積みのベッド、テーブルやソファー、それにチェンスト? 手前のものに隠されて、向こう側はよく見えない。
「なんでよっ!? 魔法は使えるようになってるのに、ちっとも動かせない!」
マデルが金切り声を上げた。




