10
考え込むワイズリッヒェ、少し迷ってから答えた。
「黒ヤギなら来たことがある。メッチェンゼにヤギは生息していない――よろよろして、今にも死にそうだった」
ワイズリッヒェがニンマリと笑む。
「哀れなヤギだった。人間を恋しがり、会いたがっていた。相手を探しているうちに己の棲み処を見失い、自分自身をも見失っていた――人間は家族のもとに帰りたがるものだと、我はそのヤギに教えた。親や兄弟姉妹、夫や妻、子が居れば子の許に、誰もが帰りたがる。そこが自分の居場所だと、信じている」
言葉を切って呟くワイズリッヒェ、呟きは『カテルクルストもそうだった』と聞こえた――カテルクルストが帰っていったのは、ザジリレン王宮で待つ王妃の許だろうか。
「己のいるべきところに戻り、会いたいと願う相手が戻るまでそこで待つことを条件に、我はヤギの望みを叶えることにした。だが、我とてヤギの相手が誰かまでは判らない。ヤギも相手の名を知らなかった。そうなると、いつ戻るかが予測できない――ヤギは死にかけていた。住処に辿り着くまで命が持つか? だから望みが叶うまで生き続けられるよう永遠の命を与えた」
あのヤギ男を魔物にしたのはワイズリッヒェだった……森の女神は生物を魔物にする魔法が使えるのか?……ん?
死人の村ソノンセカのローシェッタ国営宿、あそこに封印されていたのは女神の娘とその恋人。恋人はもともとは人間の男、それが永遠の命を願って魔物に変化した。あの時は、思いの強さが男を魔物に変えたと思ったが、ひょっとしたら違うのかもしれない。ソノンセカの魔法ってことはないのか?――まぁ、考えたところで判りはしないし、今さらだ。
「魔物になって永遠に生き続けろと?」
クルテが嘲るように言った。
「ついでに魔力も与えたのか?」
ワイズリッヒェが嘲り返す。
「当り前だ。魔物と言えど、魔力がなければ永遠に生き続けられはしない――わたしにその力があることは、大昔から知っているはずだったが?」
「あの時、もう二度とこの魔法は使わないと誓ったのではなかったか?」
あの時とはどの時だ?
「約束したとも。〝人間〟を二度と魔物に変えたりしない、とな」
グッと息を飲むクルテ、ワイズリッヒェの言うとおりなんだろう。ゴゼリュスは人間じゃない、約束は守られている。
「そうだったな……確かにそんな約束だった」
クルテが静かに言った。
「それでワイズリッヒェ、その約束の前に、何人の人間を魔物にした? わたしが聞いているのは一人だけだ。他にもいるのではないのか?」
えっ? あ……そうか、ゴルゼもワイスリッヒェが魔物にしたのか? そしてクルテは他にもいると考えている。それが今、ローシェッタ・ザジリレン両王家の滅亡を企てている首謀者なのか?
「我があの魔法を人間に使ったのは一度きりだ」
「わたしが聞いているのは人数だ。その一度きりの魔法で何人を魔物にした?」
ぐっと息を飲むのはワイズリッヒェの番だ。悔し気にクルテを見る。
「ワイズリッヒェの森に迷い込んだ二人連れだ。男二人で何をしに来たと思って眺めていた。一人は姫、おまえも知っているゴルゼだ……ゴルゼは名乗ったが、もう一人は名乗らなかった。だから名を問われても答えられない――コゲゼリテの森と間違えて、我の森に入り込んだから魔物に変えた。カテルクルストに成り代わりたいと望んでいた。カテルクルストは幾つもの祝福を獲得しているうえ、精霊の剣を所持している。人間には倒せない相手、だから魔物に変えた。カテルクルストを生かしてわたしのもとに連れてくることを条件にな」
コゲゼリテの森と間違えてワイスリッヒェの森に入り込んだ……ワイズリッヒェがメッチェンゼに閉じ込められる以前の話ってことか。しかし、魔物に変えたもう一人は誰だか判らない、名を知らなければ言えないのも道理――ワイズリッヒェが俺のことをカテルクルストの息子と呼ぶのは名を知らないからか? いや、そんなはずはない。俺をザジリレンの正統な王と言った。カテロヘブと知らないはずはない。
「生きているカテルクルストを連れてくるのはもはや不可能……その二人、今も魔物のままか?」
「フン! ゴルゼが魔物のまま封印されて、今もどこかに居るのは姫も知っているはず。もう一人はどうだかな? 人の姿のまま、生き続けるのは辛いものだ――妻を持ち、子を産ませ、精神体として己の子に憑りついているかもしれないな」
「複数の子を持った場合はどうなる?」
「またまた、よく知っていることを訊いてくる――魔物が憑りつけるのは一人だけだ。しかも、憑りついた相手が死ぬまで離れられない。我ら精霊よりはマシかもしれないな。相手が一人きりと言うのは同じでも、魔物は次に行ける。それに引き換え我ら精霊は、結んだ相手が死しても他に行けない」
ワイズリッヒェがニヤリと笑う。
「コゲゼリテは日ごと身を焦がしているのだろうな。星の数ほど男はいるのに、カテルクルストはもういない――しかしなぜ、人間の相手は一人と決められていないのだろう?」
「そんなことも知らないのか?」
「姫は知っているのか?」
「人間がどんな生物なのか考えれば判ることだ――精霊は一瞬で心を決める。一目ですべてを悟る。中には未来を見通せる者もいる。そして悩まない」
「そして人間は迷い、移ろい、悩む。自分で決めておきながら、間違いだと言い出しもする。自分の選択に自信が持てずにいる……なるほど、正しい選択ができないから、一人と決められていないのだと言うか?」
「確かに人間は移ろいやすい。その移ろいやすいものが揺るがなければ特別になると『昼のメッチェンゼ』で教えてやったのに、覚えちゃいないんだな」
クルテがウンザリと溜息を吐く。
「そんな答えしか出せないから、おまえは特別になれないんだ」
クルテのこの言葉はワイズリッヒェの癇に障ったようだ。
「ええぃ! 煩い――そんなことより、望みを叶えることのどこが悪いのか、まだ聞いていないぞ!」
怒りの形相を隠しもしない。クルテがフフンと笑う。
「望みを叶えること自体が悪いとは言っていない。おまえが相手のことを何も考えていないことが悪いと言った」
「相手のことを考えるから望みを叶えた。それが偽りだと言うのか?」
「あぁ、まさしく偽善ってやつだ。表面だけを取り繕い、相手がなぜそれを望むかまでは考えていない」
「そんなこと! そんなこと、どうして我が考えなくてはならない?」
真っ直ぐにワイズリッヒェを見詰めるクルテ、怒りとも哀れみとも違う眼差しは何を物語るのか?
「精霊は命を育む者、それを忘れたのか、ワイズリッヒェ?」
クルテの声はいつもよりもずっと重い。
「望みは叶えればいいと言うものではない。もしも真冬にモモの木が実を生らせたいと望んだら、その望みを叶えるか?」
「それは……」
息をすっと吸ったワイズリッヒェ、答えを言えずにいる。
「判ったか? おまえはそんな願いは聞き届けないはずだ。魔法を使えば実らせることもできる。だが、願いを聞き届ければ、そのモモの木はどうなる? 芽吹くべき春を迎えても芽は伸びず、蕾をつけることもできない。休むべき冬に休まず、堪えるべき寒さに堪えなかった木は、内なる力を失うからだ――芽吹かなければ陽光の力も受け取れない。結果、次の冬にそのモモの木は枯れる。それだけでは済まないことも判っているな?」
一本の木が枯れれば、そこに集まる虫や鳥獣たちにも影響が及ぶ。他の木もただでは済まない、クルテはそう言いたいのだ。
「誰でも苦しい時には何かに縋って苦しみから逃げ出したくなる。それが悪いとは思わない。だがな、ワイズリッヒェ。生きるためには乗り越えなくてはならない試練もある。それを避けて成果だけを欲したら、たとえその時は手に入れられても、続く成果は得られないぞ」
言い終えてからも暫くクルテはワイズリッヒェを見詰めていた。ワイズリッヒェは何も言い返してこない。
「まぁ、いい。考える時間は永遠に続く。この空間に居る限り、おまえが尽きることはない」
すると急に動いたワイズリッヒェ、慌てふためいてクルテを見る。
「我をここから出さないと言うか!?」
クルテがフフンと嘲笑する。
「出たところでどうする? おまえの森は草原になってしまった」
「あ……」
「精霊の務めを忘れた報いだ。甘んじて享けるしかない」
「でも、でも!」
蒼褪めたワイズリッヒェ、だがすぐに、わなわなと身体を震わせ始める。絶望が怒りを呼んだ――ここでワイズリッヒェを本気で怒らせたら、どうなるんだ? ピエッチェの緊張が高まっていく。
ニンマリと笑むワイズリッヒェ、
「ならば! おまえたちも永遠にこの空間を彷徨うがいい」
言い捨てるとフィッと姿を消した。
気が付くとカッチーの鼾が消えている。蒼褪めた顔でピエッチェを見ている。ラクティメシッスもどうやら目覚めたようだ。ゆっくりと上体を起こすと、
「何かあったんですか?……ワイズリッヒェの声がしたような?」
やはりピエッチェを見た。
クルテがカッチーに微笑んだ。
「ラスティンに説明して」
「俺がですか?」
頷くクルテ、カッチーが迷い顔でピエッチェを見る。
どこから聞いていたんだろう?……カッチーに説明して貰えば、それも判る。ピエッチェもカッチーに頷いた――
カッチーの説明を聞いて、ラクティメシッスがクスクス笑った。
「それじゃあ、わたしたちはここから出られないってことですね」
ラクティメシッスに揺り起こされて、一緒に話を聞いていたマデルが
「笑い事じゃないわよ」
と難しい顔をする。
マデルはカッチーの話を聞いて、クルテをどう思っただろうか? 少なくとも人間ではないと気づいたんじゃないのか? 森の女神の務めを説いて、ワイズリッヒェを諫めたクルテを『ただの人間』だと考えているんだろうか?
クルテはカッチーが話している間、廊下に続くドアが開くことを確かめてから室内をウロウロしていた。一つ一つベッドを覗き込んでいたから、ワイズリッヒェを探したのかもしれない。時どき、ソファーに座ったままの四人の足や手が同時に動くのは、クルテの動きに引っ張られたリボンのせいだ。
「ワイズリッヒェはどこに消えたんでしょうね?」
ピエッチェの隣に座ったクルテに、ラクティメシッスが話しかける。
「そんなの判んない」
呆気なく答えるクルテ、
「でもこの部屋にはいない――昼のメッチェンゼじゃなければいいけど」
質問したのはラクティメシッスなのに、ピエッチェを見上げて答える。
「昼のメッチェンゼだとまずいのか?」
仕方なくピエッチェがクルテに訊いた。ラクティメシッスは『お嬢さんに無視されました』とマデルに甘えて笑っている。うざい! マデルが肩を怒らせた。
「マデルのご機嫌斜めは寝不足? もっと寝てる?」
今度はピエッチェを無視したクルテ、こそっとカッチーに『俺は誰に甘えたらいいんだ?』と耳打ちするピエッチェ、俺はイヤですよとカッチーが笑う。
「なんであんたたち、そんなに緊迫感がないのよ!?」
クルテに答えず怒鳴るマデル、クルテが
「マデルに無視された」
ピエッチェを見上げた――




