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休むには少し早い時刻だ。調理用の金網は外されているが竈の火は消されることなく、虫除けの香草がくべられた。甘さの中に僅かに刺激を感じる香はローズマリーによく似ていた。
「静かですねぇ……」
ラクティメシッスがシミジミと、誰にともなく言った。
「ところでお嬢さん、明日は日の出とともに出立?」
ラクティメシッスが尋ねるが、ピエッチェに凭れてウトウトしていたクルテは一瞥しただけで居眠りに戻ってしまう。肩を竦めるラクティメシッスに、
「日の出の時刻なら、食事の支度もできないだろうってことさ」
ピエッチェが答える。
「俺たちの朝食をどうするかってなるな」
チラリとカッチーを見るピエッチェ、気付いたカッチーは
「飲食店まで遠いんですか?」
とピエッチェを見る。
「次の集落はスワニー、そこは観光客が来るから賑わっているけど……早すぎてどこも開いてないと思う」
「観光地なんですね」
「うん、小さな沼があるんだ」
「ジェンガテク湖みたいな感じでしょうか?」
「あんなに大きいわけじゃない。小ぢんまりしてる。歩いて一周できる程度の大きさだ。ただね、夜になると沼が輝くんだってさ」
「あら、それ、見てみたいわね」
マデルが興味を示すが、
「毎晩ってわけじゃないし、どうして輝くのか、いつ輝くのかも判らない。運が良ければ、だってさ」
ピエッチェが苦笑する。
「ピエッチェは見たことあるの?」
「いいや、ないよ。行った事すらない――知識としてしか知らない」
ザジリレンのことならば誰よりも知っている、そう思っていたのは間違いだったと感じる。全て書物や誰かから聞いただけ、自分の目で見たり体験したことはどれほどあるだろう。カッテンクリュードから出たことすら、いいや、王宮から出たことだって数えるほどしかない。知っているつもりになっているだけだ。
「スワニーで少し時間を潰すかな? 沼が輝くことはないだろうけれど、美しい場所だって聞いてる。散策しているうちに店も開くさ」
ラクティメシッスが反対するかと思ったが、先にマデルが
「楽しみだわ」
と呟いたからか、何も言わなかった。
スワニーで朝食を摂り、ついでに飲料や食料を買い求めることにした。サウゼンまで、他にも集落はあるが用事を済ませてしまえば素通りもできる。
「食料とかの用意は何日分?」
マデルの質問に、すぐに答えられないピエッチェだ。
「できるだけ多く、だな。山越えなんか普通はしない。だから想像もつかない」
「魔物がいるから無理だって言ったのはお嬢さんでした。なのに今度は尾根伝いに行くと言う――ピエッチェ、本当に山越えでデネパリエルに行くんですか?」
ラクティメシッスが心配そうに覗き込んでくる。山越えを決めた時、反対しなかったのに今さらか?
「まぁなぁ……俺も何を言いだすんだと思ったけど、コイツには何か考えがあるんだと思う」
「考えがあるならあるで、教えて欲しいんですがね?」
「内容までは俺も判らないよ」
クルテは相変わらずウトウトしている。
「聞こえてないんでしょうかね?」
「さぁなぁ?」
きっと聞こえてる、そう思ったが惚けるピエッチェだ。そしてフッと微笑んだ。
「コイツには振り回されっぱなしの遠回りさせられぱなしだけど、結局これで良かったんだっていつも最後には思う」
「だから今度も?」
「うん。きっと巧く行く。そんな気がする」
「気がすると来ましたか!」
ラクティメシッスが楽しそうに笑う。
「わたしとマデル、カッチーもいる。そしてリュネもいる。まぁ、なにが出てきたって、どうにかなりますよ、うん」
「そうだね、頼りにしている」
無責任に笑うラクティメシッスに話しを合わせると、ラクティメシッスが
「それにしても、気のせいかな?」
と不思議そうな顔で川のほうを見た。
「さっきから、視線を感じるんですよね。でも獣や魔物がいるようでもない――何か感じますか?」
「あ、やっぱり? わたしもなんか見られてるような気がするけど、何にもないんだよね」
マデルも川を見てそう言った。
やっぱり見えてないんだなと思いながら、ピエッチェも川のほうを見る。
「いや、何も感じないけれど?」
それからさりげなくカッチーに視線を移す。カッチーは何も言わず、闇の向こうにあるはずの川を見詰めている。ラクティメシッスに『何か感じますか?』と問われて、
「ピエッチェさんとラスティンさん、それにマデルさんに見えないのに、俺に見えるはずありません」
怒ったように答えた。
「俺、もう寝ます」
用意してあった毛布を引っ被って横になった。その様子に、カッチーには見えているんだなと思うピエッチェだ。
「明日の朝は早いんですし、そろそろ休みましょうか?」
ラクティメシッスの言葉にマデルが空を見上げた。
「そうね……星空が綺麗なんじゃないかと思ったけど、木が邪魔して見えそうもないしね」
呟くマデルをラクティメシッスが毛布で包む。
「星空なら、綺麗に見える場所を知ってますよ」
「あら、誰と行ったの?」
「誰とだったっけ?……たぶん一人で――」
二人して横たわった途端、ラクティメシッスの声がいきなり途絶えた。見ると二人はぐっすり眠っているようだ。なるほど、いつもの〝あれ〟か。
カッチーからは鼾が聞こえない。
「見えているんだろ?」
そっとピエッチェが訊くが、カッチーの返事は聞こえない。すると
「いいよ、ほっといて」
カッチーの代わりにクルテが答えた。凭れていたピエッチェから身体を起こし、川に視線を向けている。
この庭に入ってすぐに感じた気配、ここでの遭遇を望んだのは森の女神か、それともクルテなのか? どちらが望んだにしろ、察したリュネはここで足を止めた。それとも『森の女神』ではない? 沸き立つような光の粒を上空に向けて放っているのは川だ。
ラクティメシッスとマデルにはその光が見えない。だけどきっとカッチーには見えている。ピエッチェたち三人には見えていないと思ったカッチーは、だから『俺に見えるはずがありません』と答えた。視線や気配を感じるかと話しているのだから、感じませんと答えるところだ――カッチーにも姿を見せているのなら、やはり森の女神なのだろう。
「ここだと、スワニーの森の女神?」
クルテに問うピエッチェ、カッチーが少し身動いだのが判る。
「そう、でもスワニーの中心部だと沼を輝かせちゃうからここがいいんだって」
クルテがクスッと笑う。
「姿を現すと水に反映するってことか? でもそれなら、なんでラスティンとマデルには見えなかったんだろう?」
「水の中に隠れてるんだよ。で、沼だと全体に行き渡っちゃう。すると大量の魔力が必要になる。だから、他の魔法が使えなくなる。見られたくない相手には見せないとかね」
「沼だと分散しちゃうのか?――それにしても見ているだけで、何も言って来ないし、何もしないな」
「そうだね」
クルテがニヤッとする。コイツ、きっと理由が判ってる、そう思うが追及しないピエッチェだ。スワニーの女神と脳内会話で何か話しているのかもしれない。
暫く何事も起きなかったが身体の中に熱を感じる。すると、光の放散が徐々に鎮まりやがて消えた。
「ピエッチェさん……」
カッチーの消え入りそうに小さな声、振り向くと身体を起こしたカッチーが蒼褪めた顔でこちらを見ていた。
「俺、俺……」
「カッチー、あとで話そう。今は何も言うな」
慌ててラクティメシッスとマデルを見るピエッチェ、二人はまだぐっすり眠っているようだ。しかし寝たふりじゃないとは言い切れない。
カッチーはじっとピエッチェの顔を見詰めていたが
「そうですね。〝内緒話〟はまたにします」
チラリとラクティメシッスたちを見てから横たわった。今度はすぐに鼾が聞こえ始める。
カッチーが言いたかったのは、きっと他人が聞けば笑い飛ばさるような話だ。だがピエッチェに、ちゃんと聞いて貰えると判って安心した。
スワニーの森の女神はカッチーに何か告げたのだろうか? どちらにしても、ラクティメシッスたちに聞かせたくない話、カッチーはそう感じている。だから『内緒話』と言った。
「眠い……」
呟くと寄り掛かって来たクルテ、
「あぁ、俺たちも寝よう」
自分とクルテを毛布で包んでピエッチェも横たわった――
シューパナ街道をゼレンガに向かって行けば、緑色の沼が左側に見えてくる。
「緑って言うか、緑がかった乳白色って感じらしい」
その沼の畔はスワニー村、すぐに判る――ピエッチェからそう言われ、御者台にはラクティメシッスとマデルが座った。クルテが『今日はキャビン。もちろんピエッチェも一緒』と言い張った。
ラクティメシッスとマデルが御者を引き受けるのを嫌がるはずもなく、キャビンにはピエッチェとクルテ、そしてカッチーの三人が乗った。『内緒話』のためだ。キャビンに乗り込むとすぐ、クルテが聞こえず魔法をかけたが同時にリュネがポンと姿を消した。
リュネはすぐに姿を現したが、お陰でラクティメシッスに魔法の気配を気取られずにすんだ。お馬さんでも間違うことがあるんですね、ラクティメシッスの笑い声が御者台から聞こえていた。
「昨夜、川の水って光ってましたよね?」
カッチーが恐る恐る話し始める。
「でも、ラスティンさんもマデルさんも気にしてないって言うか、気付いていなさそうだし、ピエッチェさんは見ないふりしてる感じで――俺、なにが起きてるか判らなくって。ピエッチェさんに動く気配がないから、危険はないんだって思うしかありませんでした」
それでも怖くて、毛布を被って寝たふりをするしかなかった――得体の知れない何かが近くにいれば、そりゃあ怖いよな。
「そのうちラスティンさんたちが眠っちゃったんだけど……でもあれってヘンですよね? あんなにいきなり寝入っちゃうなんて」
そうだね、きっと女神の仕業だ。現れるとき、よく使う魔法だ。
「ピエッチェさんに『見えてるんだろ?』って訊かれて、すぐに光のことだって判ったけど、何か言ったら取り乱しちゃいそうで答えられませんでした。そしたらクルテさんと話し始めて、スワニーの森の女神って聞こえて……そしたら急に!」
カッチーがピエッチェに縋るような目を向ける。
「頭の中で声が聞こえたんです。えぇ、あれは耳から聞こえたんじゃない。頭に直接話しかけてきたんです。信じてください!」
「大丈夫、ちゃんと信じてるよ――女神じゃなくても、頭の中で話せるよ。わたしとラスティンは魔法を使えば声を出さなくっても話し合える」
クルテがいつになく優しく言った。
「そうなんですか?」
目を丸くしたカッチー、安心したのか一気に落ち着いた。
「じゃあ俺、魔法が使えるようになったのかな?」
嬉しそうだ。
カッチー、残念ながら、おまえのは〝おまえの〟魔法じゃない。女神の魔法だ。脳内会話は難しい魔法なんだ――




