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ピエッチェから託された手紙を持ってカッチーが出かけたのは早朝、朝食を摂らずに行った。ラクティメシッスが同行している。
「カッチー、飢え死にしてない?」
クルテが本気で心配する。安請け合いするのはマデル、
「大丈夫、出かける前に残りのお菓子、全部食べた」
ニヤッとしてる。
「ええっ!?」
慌てて菓子袋を探すクルテ、空袋を見つけて愕然としている。食べたのはカッチー、怒りをぶつける相手がここにいない。仕方なくなのか、
「お腹すいた」
と情けない声で呟いた。
「お茶が入ったわよ」
とクリンナーテン、こちらも笑顔だ。
「そろそろ食事でしょう。お菓子はマデルがまた買ってきてくれるわ」
「本当に?」
見上げてくるクルテにマデルが、
「もちろんよ」
と微笑んだ。
ところが、いざ朝食が運び込まれてくると『まだ食べない』とクルテが剥れる。
「朝食はラスティンが戻ってから! 出かけるとき、一緒に食べるって言ってた」
そう言って、ベランダに目を向ける。ベランダではピエッチェが外を見ていた。
マデルとクリンナーテンもクルテにつられてベランダを見た。
「珍しくラスティンに気を使うと思ったら……ピエッチェがラスティンを待ってるから、クルテも待つって言ってるのね」
苦笑するマデル、
「クルテったらね、ピエッチェが世界の全てって言い切ったのよ」
小声でクリンナーテンに言った。
クリンナーテンが少し戸惑う。
「思い切ったことを言ったものだわ……それにしてもラスティンが心配ね」
戸惑ったのはラクティメシッスが遅い事と、それなのにマデルに心配する様子がないことの両方だ。
「そうね、遅いわね――ピエッチェ、朝食の準備ができたよ」
クリンナーテンに同意するものの、マデルは平気な顔でピエッチェに声をかける。
「わたしと彼は王室魔法使いだもの。任務で出かけたら、いつ帰ってくるなんて保証はないわよ」
「だって、心配じゃないの?」
「心配よ。だけどそれ以上に彼を信じているから――だいたい、ちょっとカッチーを送って行っただけじゃないの。少しくらい遅れてるからって、何かあるはずないわ」
「そりゃあそうかも知れないけど」
マデルが決まりの悪そうな顔をする。
「悪いことを考えるのは良くないかなって。もしね、その悪いことが現実になっちゃったら、自分があんなこと考えたからかもしれないって思いそうで怖いのよ」
「あら。考えたことが現実になる能力でもあるの?」
「まさか! ラスティンがそう言ったの。なんでもいい方向に考えなさいって。悪いことを考えるから悩むんですよって」
マデルの言葉に、クリンナーテンがクスッと笑う。
「そうね。ラスティンって悩んだことなんかありませんって顔してるわよね」
「それがさ、偉そうなこと言うくせに、自分はしょっちゅうドロドロ……どんなに慰めたって『自分にはなんの価値もない』とか言っちゃってさ。でもすぐにケロッと立ち直るの。まぁ、そんなとこ、他人には絶対に見せないんだけどね」
「はいはい、マデルだけが知っている彼なのね。ごちそうさま」
「惚気たわけじゃないから!」
見交わして二人が笑う。
クルテはベランダに出ている。部屋は宿の三階、ベランダからは前の道がよく見えた。
「何か変わった様子は?」
そう聞くとクルテは、ピエッチェと同じように下を覗いて寄り添ってきた。それをそっと抱き寄せる。
「いたって平和な朝……まだ早いからね、宿を出る客は少ない。通りに出てくるのは隣近所の見知った顔、互いに挨拶を交わしてる」
「どこにでもある風景?」
「そうだな。どこにでもある朝だな」
「あれ? 今、誰かが怒らなかった?」
「あぁ、さっきから、起こしてもなかなか起きない亭主を女房が怒鳴ってる。さっさと起きて仕事に行けってね――振動で具合が悪くなりそうか?」
「ううん、大丈夫。本気で怒ってるわけじゃないから。でも、少し困ってるね」
「女房の心を読んだ?」
「割と近く、そして声が聞こえてる――読もうと思わなくても判っちゃう」
ってことは、心が読めなくなったわけではないってことか。
抱き寄せていたクルテを少しだけ離して、ピエッチェがクルテの顔を見た。どうしたの? とでも訊くような表情で、クルテがピエッチェを見返してくる。
「なぁ、クルテ。おまえ、俺の心が読めなくなったのか?」
サッと表情を硬くするクルテ、やっぱりそうかとピエッチェが思う。
誰かが居たら訊くことはできない。二人きりになれるのは寝室だけだ。昨夜も訊こうとしたが、ストンと眠ってしまったクルテをわざわざ起こしてまで訊くこともない。そのまま自分も眠った。けれど同時に『都合が悪くなるとコイツは寝たふりをする。それって、心が読めなければできないことだ』とも思った。
だけど今、ピエッチェを見てクルテは首を傾げた。ピエッチェが顔を見た理由が判っていない。やはり読めなくなったんだ……
クルテが部屋の中の様子を窺う。マデルとクリンナーテンは何やら笑いさざめいていた。こちらの内緒話が聞こえることはなさそうだ。
「カティを守る祝福」
ポツリとクルテが言った。なるほど……でも、
「俺も入り込めないのはなぜだ?」
強化された祝福がクルテにピエッチェを読ませないのだとしても、ピエッチェの呼びかけがクルテに届かない理由にはならない。
クルテがギュッと抱きついて、ピエッチェの胸に顔を埋めた。顔を見られたくないのだと思った。そして答えられないのだと悟った――女神との約束に関係しているんだ。
いったい女神は何をクルテに課したのだろう? クルテを人間にするために、俺は何を思い出せばいいのだろう?
「おまえ、できなくなったのはこないだ俺に言ったことと、俺が読めなくなったことだけか?」
魔力を少しずつピエッチェに移譲した代償として、クルテは姿を変えたり消したりできなくなったと言っていた。
「ほかの人の心は読めるんだよな?」
「人間の魔法にはなんにも変化を感じない」
ボソッとクルテが答えた。なるほど、魔物の魔法と女神の魔法が使えないか衰えたってことか。
居間でマデルが呼んでいる。
「ピエッチェ、食べようよ」
邪魔しちゃダメよと、クリンナーテンがマデルの袖を引いた。
「来ないと先に食べちゃうよ――クルテの好きな果物、全部わたしとクリンナーテンで食べるからね」
それでもクルテは動かない。さらに強くピエッチェにしがみついただけだ――
ラクティメシッスが宿に戻ってきたのは夕刻だった。カッチーも一緒だ。
「いやね、カッチーが戻るまで、店の手伝いをしろって言われてしまってね」
出かけた先は例の八百屋だ。ケンブルにあるのは本店、スザンネシルの支店は仕入れのためにあるようなものだが小規模ながら小売りもしている。そこで売り子をしてきたらしい。
「ラスティンに野菜なんか売れたの?」
マデルがクスッと笑うと、
「売り過ぎだって怒られましたよ?」
ラクティメシッスがケロッと言い放った。どうやら、今日一日限りで店に立っている売り子が飛び切りの美形だと、あっという間に評判になったらしい。
「仕入れの責任者が慌てて農家に飛んでいきました」
ケンブルではほとんど営まれていない農業だが、ここスザンネシルでは盛んだ。それを見込んで仕入れはこちらの支店でと言う事なのだろう。
チュルチェムの話によると、ケンブルから商品を運びに来るのはジジョネテスキの屋敷を担当している男だ。その男にカッチーを一日助手として使って貰えないか頼むため、早朝から店で張り込んだ。
店の前で暫く待つと荷馬車の準備を始めた男がいた。店の中から野菜類が入っているらしい箱を運び出しては荷台に積みこんでいる。それが目指す相手だった。
『実はクリンナーテンからジジョネテスキの様子を見てきて欲しいって頼まれたんだけど、わたしが行ってあらぬ誤解を受けてもと思いましてね』
ラクティメシッスの言葉に、
『あぁ、確かにあんたじゃねぇ』
男はラクティメシッスを見て大いに納得したようだ。
『それで、この子を一緒に連れて行って貰えないかと思って……ジジョネテスキも意地を張ってるんじゃないかってクリンナーテンが言うんですよ。だけど子ども相手に冷たい態度も取れないでしょう? いいえ、あなたの助手として屋敷に連れて行ってください。ほら、クリンナーテンからの使いだなんて聞いたら、中に入れて貰えなくなるかもしれない』
伝言なら俺が、と男は言ったが、これもラクティメシッスの説明に頷いた。そんな大喧嘩だったんだねと心配そうな顔をしたのは少し気の毒だったが、なにしろこれでカッチーは怪しまれることなくジジョネテスキの屋敷に入り込める。
『本当なら、スザンネシルに今度来るのは明後日だが、いいよ、夕方また来るよ。ジジョネテスキの屋敷にはこないだ頼まれた野菜を今日届ける予定だったんだ。ちょうどいい』
そんなわけで、ラクティメシッスはスザンネシル支店でカッチーの帰りを待つことにした。話しの流れ的にそのほうが自然だったのだと笑う。
「でも、ボーっとしてるのもねぇ? だから店を手伝ってたんです」
カッチーがケンブルから戻ると、男に礼を言って宿に戻ってきた。渡す予定だった謝礼は、売り子の手間賃との相殺だと言って受け取って貰えなかったらしい。
「貴族よりも、街人のほうがずっと太っ腹ですよね」
マデルが入れてくれたお茶を啜りながらラクティメシッスがニッコリした。
二人が戻ってきてからソワソワと落ち着かないのはクリンナーテンだ。早くジジョネテスキの様子を聞きたいのだろう。けれど食事中のカッチーに話しを催促するわけにもいかない。ラクティメシッスとカッチーは朝から何も食べていないと言った。休憩でお茶をご馳走になっただけだと笑う。
「そうだろうと思ったわ」
マデルが買っておいたパンを出し、お茶を淹れた。もちろんカッチーも、肝心なことは忘れていない。パンに手を伸ばす前に
「預かってきました」
と、ピエッチェに封書を渡している。ジジョネテスキからの手紙だ。
ラクティメシッスとカッチーが食べる横で、ピエッチェが手紙に目を通している。クルテが覗き込んだが、
「なんて書いてあるの?」
と不思議そうな顔をした。
「あれ? クルテって字が読めないの?」
クリンナーテンの疑問、ピエッチェが
「暗号なんだよ」
と笑った。
手紙から興味を失ったクルテがマデルを見上げる。
「ねぇ、わたしもパンが欲しい」
「もうすぐ夕食よ?」
「ラスティンとカッチーも食べてる」
「クルテは夕食が食べられなくなるでしょ?」
「一つでいい」
ラクティメシッスが苦笑いし
「ジャムのパンが好きでしたよね」
と、ピエッチェを窺いながらクルテに渡す。怒られないか危ぶんだのだ。
ピエッチェは怖い顔でジジョネテスキの手紙を睨みつけているだけだった。




