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リュネが高度を落としたのはゲリャンガとは別の山頂付近だった。ゲリャンガよりさらに標高が高い山だ。少し下がればバースンと言う村がある。
バースン村は険しい山が多いザジリレンでは数少ない、谷間ではない場所にある集落だ。ゲリャンガはまだ緩やかな山に位置していた。だがこのバースンは山の麓から急傾斜、うねうねと九十九折の道があるにはあるが、谷あいの隣村から徒歩で三日ほどかかる。そして隣村との間に人家はない。野宿するしかないわけだ。
なぜここに集落があるのか不思議だ――古い村で言い伝えもいろいろと残っている。その中で有力な説はザジリレン建国前からある村で、森の女神に許されてこの地に住んでいると言うものだ。もっとも最近では森の女神信仰が廃れていることも手伝って、疑問視されている。
小さな沼を中心にした集落で、その沼の水が枯れないことも不思議だった。もしも枯れるような沼だったら、とっくに誰も住まなく……住めなくなっていたことだろう。
リュネが降りたのはそのバースン村から少し離れた場所だ。山頂にほぼ近い場所に横から突っ込んだ。
「いやぁ、どうなることかと思いました」
キャビンから降りてきたラクティメシッスが苦笑いする。
「大きな木が何本も生えていて、馬車が入り込む隙間なんかなかった――木が馬車を避けるなんて、お嬢さんの魔法ですか?」
「なんでもわたしの仕業だなんて思わないで。リュネの魔法なんじゃない?」
ムッとした顔でクルテが答えた。
「キャビンはここにおいて歩いていく。荷物はリュネに運んで貰える――バースンに続く道は馬車が通れるほどの道幅がない」
「歩いて行ける距離なんでしょう? でも、なんでここに? 上空から見たけど、かなり辺鄙な場所ですよ?」
「だからじゃない? あの村に情報が届いているとは思えない」
「その判断もお馬さんが?」
「きっとね」
カッチーが貨物台に積んでおいたレモン水を配る。何も言わずにピエッチェに瓶を渡すクルテ、自分で開ける努力は放棄する気だ。
情報――偽ジジョネテスキはどんな情報を誰に流すだろう? カテロヘブ王がザジリレンにいると報せるのか? 違うな、アイツが俺をカテロヘブと見破っているとは限らない。少なくともキュレムベストは気付いていなかった。
王姉クリオテナに宛てた、カテロヘブ王の封蝋を施した手紙を持つ男がいる――キュレムベストからそう聞いた偽ジジョネテスキはどう考えたか? ピエッチェたちを捕らえ手紙を奪って内容を確認すれば、カテロヘブ王がどこで何をしているかが判るのではないか? 手紙に書かれていなければ、ピエッチェたちを拷問してでも聞き出そう……
偽ジジョネテスキはゲリャンガの警備隊を意のままに動かしていた。警備隊の指令官は偽ジジョネテスキの部下、あるいは仲間と見て間違いなさそうだ。けれど偽ジジョネテスキもゲリャンガ警備隊司令官も末端に過ぎない。この企ての中心人物は王都に居るはずだ。
山中に落としたもう一人の偽ジジョネテスキ、こちらは心配いらない。キャビンから落とすのに足払いを掛けると同時に、精神混濁の魔法をラクティメシッスが使っている。救助されたところで、自分がどうして森に居るのか、誰に連れていかれたのか、何も証言できない――
カッチーはリュネに水を飲ませながら、自分もレモン水を飲んでいる。飲み終えたら、持って行く荷物をリュネに背負わせることにしていた。水はピエッチェとクルテがクリンナーテンを救出している間にカッチーが宿にこっそり忍び込み、取り戻した革袋のものだ。宿に預けていた水用の革袋には新しい水が詰められていた。
一人で宿に忍び込むなんて、なんでそんな危険なことをした? 叱るピエッチェに『ラスティンさんに魔法を使って貰ったので、楽勝でした』とカッチーがケロッと言った。ラクティメシッスはニヤッとしただけで、何も言わない。ピエッチェとしては『もう二度と危ない真似をするな』と言うしかなかった。
ピエッチェが開栓したレモン水の瓶を持って、クルテはマデルのところに行くと
「ピエッチェに開けて貰った」
嬉しそうに報告している。マデルはピエッチェたちとは少し離れたところでクリンナーテンと何かクスクス話していた。きっとピエッチェかラクティメシッスの陰口でも言っているのだろう。
クスクス笑う女たちを横目に見て
「で、あの女性は?」
ラクティメシッスが小声でピエッチェに訊いてきた。真贋を確認してきたのだ。
「俺を一目でカテロヘブだと見抜いた。だから間違いないと思う」
「おや、ジジョネテスキ夫人とは懇意だった?」
「幼馴染と言っていい――姉の唯一の友人だ」
「クリオテナの? でも、唯一って、他に友人が居なかった?」
「姉が信用したって意味だよ。上流とは言えない貴族の娘、だけどクリオテナに媚びることがなかった。周囲は王女さまのご機嫌を損ねないよう我儘にも付き合ってたのに、クリンナーテンは平気で『あなた、間違ってるわ』って説教する。そんな高潔さがクリオテナに気に入られ、信用されたんだと思う」
「上流とは言えないのに王宮に出入りして王女と友人に?」
「俺の母も上流貴族とは言えなかった。王妃になるにあたって揉めたらしい――クリンナーテンの母親は俺の母の幼馴染で話し相手に王宮によく呼ばれてた」
「あれ? キュレムベストはクリンナーテンの弟でしょう? 姉の顔は知っていたけれど、弟の顔は知らなかった?」
「クリンナーテンの母親は俺の母より先に亡くなったんだ。母が嘆き悲しんだのをよく覚えているよ。で、キュレムベストの母親は後妻でね。クリンナーテンはクリオテナに呼ばれて王宮に来ることもあったけど、弟を連れてくることはなかったんだ」
「まぁ、異母姉弟じゃ仲がいいとは限らないですよね」
「クリンナーテンが遠慮してたんじゃないかと俺は思うけどな」
三人の女のクスクス笑いが急に途絶えた。クルテがピエッチェを見ている。
「ねぇ、わたしって何かって、クリンナーテンに訊かれた」
何かって……まさか魔物だと見破られたか? クリンナーテンの魔力はそんなに強くないはずなのに?
マデルがクルテを補足する。
「わたしはね、ピエッチェの恋人だよって言ったのに、クルテが否定するのよ」
あぁ、そう言うことか……ピエッチェが苦笑する。
「クリンナーテンまで、クルテじゃイメージと違うって言うし、ピエッチェ、何か言いなさいよ」
イメージってなんだよ?
「なんだって? 俺の恋人がクルテじゃ可怪しいか?」
苦笑してクルテたちの傍に行き、ピエッチェがクルテの肩を抱いた。
「どう可怪しいんだよ?」
「あら、だって……」
クリンナーテンが反論する。
「わたしが知っているカテ――あなたは堅実そのものだったもの。だからもっとなんて言えばいいのかしら?」
堅実だから、もっと王妃に相応しい女を選ぶとクリンナーテンは言いたそうだ。クルテと知りあっていなければ、そうなっていたかもしれない。
肩を抱かれてクルテは嬉しそうにピエッチェに寄り添ってきた。マデルが
「そんな顔して、恋人じゃないなんてよく言うわ」
と笑う。するとクルテが首を傾げる。
「恋人ってどんなものなのか、よく判らない」
「ピエッチェが好きでしょ? ピエッチェもクルテが好きよ。お互いに、この人とだけは離れたくないって思っているんでしょう?」
「何があっても離れたくないのが恋人? 生涯一緒に居たい、それが恋人?」
「そうね、それが恋人」
ニッコリ笑むマデルにクルテが少し寂し気に微笑んだ。寂しげなのはきっと、この先ずっと一緒に居られると確信できないからだとピエッチェは感じていた。
「あらま。クルテは思った以上に若いのかしら?」
クリンナーテンがピエッチェを見上げる。
「まさか、若い子を騙してないわよね?」
「俺が? そんなことするもんか」
「そうよね、そんなことができるほど器用じゃないわよね。あなた、馬鹿みたいに純情だもの」
おい、さてはそう言ってクリオテナと俺を笑っていたな?
「ピエッチェは純情なのね」
クスッと笑うマデルに、
「そうなの、この子ったら、気になる相手が居てもなかなかダンスに誘えないでいたのよ」
クリンナーテンが暴露する。きっとナリセーヌの事だ。それにしてもこの子?
「やめろよ、古い話を持ち出すなって」
対処に困るピエッチェに、クリーンナーテンが真面目な顔になる。
「でもねぇ……もしも本気だとしても、クリオテナを説得するのは難しいかもね」
やっぱりそうなるか。
ウンとは言ってくれないだろうと思いながらピエッチェが訊いた。
「クリオテナを説得しなくちゃならなくなったら味方になってくれる?」
「わたしが? 無茶言わないでよ」
案の定、クリンナーテンは困り顔だ。
「でもね、人の恋路を邪魔するもんじゃない、くらいは言ってあげるわ。クリオテナだってネネシリスとのこと、反対されて苦しんだでしょって」
ピエッチェがクリンナーテンに微笑んだ。
「それで充分。力強い味方だ」
クルテがギュッとピエッチェにしがみついた。おやおや、また焼きもちか?
「毛布は必要ですか?」
カッチーのところに行っていたラクティメシッスが声を掛けてくる。
「もし、バースン村で泊めてくれる家がなかったら野宿になる。夏とは言え、毛布はあったほうがいいと思う」
「金を出してもダメでしょうか?」
「この村じゃ、金は役に立たない――月に一度、前回頼んだものを持ってロバで行商人が来るんだけど、その時の支払いは村の特産品との交換だって話だ」
「月に一度じゃ食料が足りなくなるんじゃ?」
「村で作って蓄えてるさ。畑があって鶏も飼ってる。村にほど近い山中に罠をかけておけばシカやウサギも獲れる」
「自給自足? 特産品って?」
「毛皮に織物」
クリンナーテンがマデルに
「野宿って初めてだわ」
と囁けば、
「わたしは何度か……ピエッチェと知り合ってからだけどね」
マデルが笑顔で答えた。
「でもピエッチェ、野宿できる場所はあるの?」
マデルの質問にピエッチェが考え込む。
「実際に行ったことはないからなぁ……まぁ、行けば判る。さすがに村から追い出しやしないと思うから、どこなら野宿していいか訊こう」
「それもそうね。泊めてくれる家がないと決まったわけじゃなし……こうなったら納屋でもいいわ」
「食べ物は貰えるかな?」
これはクルテ、腹が減ったのか? って、食料は何も持ってない。ギスパで買ったパンは朝、全て食べてしまった。
「村に着く前に狩りでもしてく? 弓を使えばキジとかウサギを二・三羽、獲るくらいすぐできるよ――それとも勝手にそんなことしたら怒られるかな?」
怒るのは村人か、それとも森の女神か?
「売ってくれればわざわざ狩る必要はない。何も売ってくれなかったら、その時は村人に狩りをしてもいいか訊いてからにしよう」
「売ってくれない、狩りもダメって言われたらどうします?」
ラクティメシッスがピエッチェを見る。
「その時は――また考えるよ」
きっと空腹を我慢することになる。そう思いながらピエッチェが答えた。




