15
カッチーの目から涙がポロポロと零れ落ちる。ピエッチェがまた溜息を吐く。
「帰りたくなんかないんだろう? なんで今日のカッチーは、そんなに素直じゃないんだ? 俺とクルテについてくって決めたんならそうしろよ。俺は俺だぞ? まぁ、王だし、名もピエッチェじゃなくカテロヘブだ。もし、今まで打ち明けなかったことを怒っているなら謝る」
「怒ってなんか、怒ってなんか!」
とうとう手放しで泣き出したカッチーにピエッチェが狼狽える。
「おい、こら……そんな大声で泣いたらみんなに聞こえるぞ?」
カッチーに寄り添うように立って声を潜めるが、ラクティメシッスとマデルがドアの向こうで聞き耳を立てているのに気が付いていたし、クルテが寝室のドアを細く開けて見ているのにも気が付いていた。
「だって――だって……」
カッチーが泣きじゃくる。
「ピエッチェさんがザジリレン王に戻っても、傍にいてもいいんですか? 俺を雇ってくれるんですね?」
「あぁ、ずっと前からそう言ってる」
「ほかの人が反対するかもしれません」
「役人に取り立てようってんじゃないんだ、俺が誰を雇おうと俺の勝手だ――あぁ、だけどカッチーが望むなら、登用試験を受けられるようにするぞ」
「俺は! ピエッチェさんの役に立ちたいんですっ!」
「そうか、判った。だからもう泣くな――俺を信じてくれるな?」
声を出せば泣き声になると思ったのか、カッチーは何度も頷くだけだ。
落ち着くのを待って、自室に行って休むように促すと、
「はい、明日も頑張ります」
カッチーはニッコリ笑んだ。寝室に入るのを見届けてからソファーに腰を下ろす。するとクルテが出てきて、何も言わず隣に座った。
「眠かったんじゃないのか?」
肩を抱き寄せると嬉しそうにニマッとして凭れかかってくる。胸に伝わってくる柔らかさと体温、顎の下に納まったクルテの頭から髪の匂いが立ち上ってくる。
「待ち草臥れちゃった」
「待ってなくっていいのに」
「待ちたかったし、待ってて欲しかったでしょ?」
待ってて欲しいなんて思ってもいなかった。だけどそう言われるとそんな気もする。ぐっすり眠っていたら、きっと寂しさを感じていた。
カッチーを泣かせてしまった――配慮が足りなかった。
もっと早く話していたら、こんなにカッチーを悩ませることも泣かせることもなかった。泣きじゃくるカッチーを前に『泣くな』としか言えなかった。頭の中では言い訳や謝罪の言葉が湧くように出てくるのに、声にできなかった。気を使わせるだけ、俺を庇う言葉を聞かされるだけだ。
クルテがそっとピエッチェを抱き締める。何も言わずに抱き返した。
「このままここで寝ちゃう?」
悪戯っ子が悪戯を思いついたような口調に、ピエッチェが笑みを浮かべる。コイツは何も聞かないし、慰めもしない。だけど俺の心が沈んでいることを知っている。それは心を読んだからではなく……
「いいや、ベッドで横になろう。このままじゃ、疲れが取れない」
ギュッと抱き締めてから、クルテが離れて立ち上がる。ピエッチェもゆっくりと立ち上がった。カッチーの寝室からは盛大な鼾が聞こえていた――
そして何事もなく朝になった。ピエッチェが居間に行くと、カッチーがお茶を淹れていた。ラクティメシッスも先に起きていてソファーでピエッチェを見上げ、
「いいお天気ですよ」
と微笑んだ。
「で、朝食はどうしますか?」
カッチーからカップを受け取りながらラクティメシッスが訊いてきた。
「この近くで開いているのはジジョネテスキのレストランくらいだそうです。カッチーが受付で訊いて来てくれました」
「この街の宿の客はほとんど商人なんだそうです」
今度はピエッチェにカップを渡してカッチーが言った。
「なんで、少しでも安く上げるため食事を持参するから、宿も食事を出すのをやめちゃったんだとか」
いつも通りのカッチーだ。
「ほかのレストランが開くのは昼頃なんだろうな」
「サロンはもう少し早くから開くんじゃないですかね?」
「パン屋はそろそろ開くって受付の人が言ってました。俺、買いに行ってきましょうか?」
「パン屋って、近くにあったか? 昨日買ったパン屋は――って、ギスパで買ったパン、食べたっけ?」
ピエッチェが寝室に行くとクルテはベッドに座って髪を梳かしていた。
「どうかしたの?」
「昨日、ギスパで買ったパンは?」
「あぁ、サックの中」
パンまでサックに入れたのかよ? てぇか、今日は久しぶりに男物の服、何か大立ち回りがあると予測しているのか?
髪を一つにまとめるとブラシを袋に入れて、サックの口を開けた。
「ん……パンの袋が二つある」
「二つ?」
「一つは食べきれないって持ってきた丸パン。乾燥させるの忘れてた」
鳥の餌にする予定だったか。
「これがギスパで買ったパン」
サックの中から紙袋を引っ張り出すクルテ、潰れてそうだなと思っていていると、紙袋はサックの口を通った部分から膨らんでいく。すっかり出てしまえばピエッチェの記憶と同じ大きさに戻っていた。
「そのサック、どんな魔法を使ってるんだ?――そうだ、トロンバで警備兵に言われてサックの中身を出した時、なかった袋はどこに隠してたんだ?」
「んー、魔法の手の内は誰にも教えないのが鉄則だって、マデルが言ってた」
なんだよ、それ。まぁ、そりゃそうだけど、俺にも内緒?
パン袋をピエッチェに渡すと、クルテはもう一つのパン袋も出して中を覗いた。
「ま、乾燥してなくてもいっか」
と呟いている。
「カッチーがお茶を淹れてくれた。アイツが餓死する前に朝食にするぞ」
「うん、お腹空いた。早く食べよう。お腹と背中が同化する」
おまえもすぐ腹減りになるよな。
ギスパのパン屋も見た目は同じパンが多かった。けれどグリュンパのパン屋と違って種類ごとに別の袋に入れ、袋に中身を書いてくれている。それを大きな紙袋にひとまとめにしてあった。
「わたしね、カスタードクリームが入ってるのがいいの」
ピエッチェを見上げるクルテ、なんだか必死な形相だ。一つしかないそのパンが、どうしても食べたいらしい。カッチーはニヤニヤ、マデルはクスクスだが、ラクティメシッスは吹き出して笑い始める。
チッと舌打ちしてピエッチェが言った。
「念のため訊くけど、カスタードクリーム、誰か食べたい?」
そして反応を待たずに、
「じゃあ、クルテな」
とクルテに渡す。うわぁ、と喜色満面のクルテ、とうとうラクティメシッスがテーブルをパンパン叩いて笑い転げる。
「ちょっとラスティン、笑い過ぎよ」
窘めるマデルも必死で笑いを堪えている。クルテは全く気にせず、と言うより自分が笑われているとは思ってないようだ。パンを割って中身を確認すると、早速パンに嚙り付いてモグモグしている。
他は複数個有ったので問題なく分配できた。クルテはあとは角切りフルーツのパイだけでいいと言ったが、『これも食え』と卵フィリングが入ったパンを追加された。残ったパンは当然カッチーが平らげることになる。
みんなが食べ終わる頃、クルテはやっと最後の一つ、卵フィリングのパンを割って
「あ……茹で卵?」
嬉しそうにピエッチェを見上げた。自分で選んで買ったのに、覚えてなかったのかい? そうだな、忘れっぽいんだったっけ。
「しかし、退屈する暇がありませんねぇ」
自分のカップにお茶を追加しながらラスクティメシッスが言った。穏やかに笑んでいる。途中でチラッと見ると、マデルのカップにも注ぎ足した。
「王都に帰って来いって、いくら言っても聞かないはずです」
マデルを見るラクティメシッス、フンとマデルに顔を背けられ苦笑した。
「帰って来いって言ってたんだ?」
ピエッチェが訊くと、
「えぇ、何度も――周囲は早く結婚相手を決めろって煩いし、了承して貰えてないのに決まった相手がいるとも言えない。どれほど思っているのか、ちゃんと会って伝えたかった。そしてウンと言って欲しかった」
ラクティメシッスがカップに視線を落とす。マデルは口を尖らせて、なぜか天井を見詰めてる。
「誰かに恋をする気持ち、わたしにだって判るんですよ」
「うん?」
いったい何を言い出す気だ?
「恋に落ちればただの人、誰かを愛しいと感じ、その人を大切に思うのは身分なんかじゃない、王族だろうがなんだろうが関係ない」
昨夜、カッチーが言った『クルテにだけは普通、ただの男』を持ち出したいんだろうか?
「だけど王族には、恋をするにもそれなりの覚悟が必要――それを忘れられるはずがありません」
最後はどういうわけかマデルに言っている。覚悟しているとマデルに言いたかったのか、それともピエッチェに忘れるなと言いたかったのか?
チラリとクルテを見ると、気付いてこちらを見上げてきた。二つに割った卵フィリングのパンを両手に持っている。片方は半分程食べ終わっていた。
「ねぇ、もうお腹いっぱい。こっちは食べて」
割っただけで齧っていないほうを差し出してくる。
おまえができないことはなんだって俺がしてやる。俺のできることならば、なんだって願いを叶てやる――黙ってパンを受け取った。
キュレルベストはなかなか来ない。
「来ないかもしれませんね」
ラクティメシッスが呟いた。
「昼まで待ってこなかったら、こちらから動きますか?」
「店ではなくジジョネテスキの屋敷に乗り込むか?」
「うーん、それって不法侵入では? 警備隊を呼ばれればわたしたち、完全に罪人ですよ?」
「ちゃんと玄関で家人を呼べばいい」
「出てくるとは限りません。来ないと思います」
カッチーはソファーで本を読んでいる。ザジリレンの歴史を読み物にしたものだと言っていた。クルテとマデルはバルコニーで、千切った丸パンを投げては小鳥を呼び寄せている。時どきキャッキャと笑い声が聞こえる。とりあえず平和だ。
「店に出てるのがジジョネテスキじゃないとしたら、本物は屋敷内に監禁されてるんじゃないかな?」
「そうですね、わたしもそうじゃないかなとは思ってるんです。でも確証もないのに踏み込めません」
「……仕方ない、ジジョネテスキは見捨てるか?」
「心にもないことを言うもんじゃありませんよ」
カッチーが本を閉じ、
「お茶でも淹れます」
と立ち上がる。バルコニーに行ったのはクルテとマデルと呼ぶためだろう。クルテとマデルは小鳥と遊ぶのをやめて、バルコニーから身を乗り出すように外を見ている。ジジョネテスキの店のほうだ。テラス窓から声をかければいいのに、カッチーもバルコニーに出て二人と並んで外を見た。
ピエッチェとラクティメシッスが見交わして立ち上がる。カッチーが慌てて部屋の中に戻った。
「ジジョネテスキの屋敷に警備隊が集まってます」
カッチーが言い終わるより早く、ピエッチェとラクティメシッスがバルコニーに向かった――




