10
出発の支度が済むとすぐにリュネが坂を上り始めた。勾配が急になる直前で、
「しっかり掴まって!」
クルテがピエッチェに言った。言われなくても、と思っているうちにクルテがわざわざ言った意味が判る。
「な、なんだ?」
リュネが一歩踏み出すたびに座席の傾斜が緩やかになっていく――リュネの魔法だろう。
冷静になってよく見てみると、一歩ごとに後ろ脚が浮き上がっていた。キャビンが水平になった時には、リュネは前足だけで坂を上ってる。それも、地面についているのは人間で言うなら爪先だけ、その状態でちゃんと前に進んでいる。いや、坂を上っているが正しいか。
のぞき窓が開いてラクティメシッスが顔を覗かせた。
「この坂、上まで行きつくとどうなってるんですか?」
「少しだけ森の中を行ってすぐ街に入る。道に傾斜はほぼないはず」
「じゃあ、もうゆったり座席を使っても大丈夫そうですね」
ラクティメシッスがのぞき窓を閉めた。魔法について訊かれるかと思っていた。自分も恩恵に預かっている以上、魔物だろうが気にしないってことなのか?
この状態で困るのは、前を向いていると地面しか見えないこと、道の先を見るには上を向いていなくてはならない。そろそろ首が痛くなりそうな頃、ようやく視線が下がり始めた。やがて前に続く道の先が見えてくる。両脇は木立、曲がり角まで随分ある。が、あの角を曲がればすぐにゲリャンガだ。
キャビンの車輪がカツンと地に着く音がして、ガラガラ音と振動が戻った――
ハチミツの街ゲリャンガは甘い街だ。角を曲がったあたりから仄かに甘い香りが漂い始め、街に入ると香りの源が花やところどころに置かれた養蜂箱だと判った。時おりブンと羽音をさせてミツバチが通り過ぎていく。あちこちに花壇があって、家々の庭やバルコニーにも花が咲いている。花には当然、ミツを集めるミツバチがたくさん飛び交っていた。
「ねぇ、本当に虫、食べなくていい?」
不安そうなクルテに笑ってしまう。
「ゲリャンガには虫を食べる習慣はないから安心しろって」
「ハチの子料理があるって言わなかった?」
「それはデリッサってとこだよ。そこではスズメバチの子を食べる。でもさ、なんか混同されてゲリャンガではって噂になったんだ」
「じゃ、ハチの子は出てこない?」
「たまに蜜蝋に紛れ込んでることもあるけど、蜜蝋を頼まなきゃいいだけだ」
夕刻まではまだ間がある。道端で花壇の手入れをしている人に声をかけ、宿の評判を訊いた。
「小さい宿ならたくさんあるよ。馬車も預かってくれる宿? それなら旅の養蜂家が使う宿がいいか。だけどあんまりお勧めしないねぇ」
「へぇ、それはなんで?」
「宿の中までハチが飛んでる。不慣れな人は眠れないんじゃないかな? 刺される客もいるらしいよ」
「それじゃあ、馬車を預かってくれる馬具屋とかないかな?」
「厩じゃなくてもいいならどこでも預かってくれるんじゃないかな。この街の家にはたいてい納屋がある。宿を決めたら、その宿で訊いてみるといいよ。近くの、預かってくれそうなところを教えてくれると思う」
「へぇ、この街の人は親切なんだね――食事を出してくれる宿はあるかな? できればルームサービスがあると助かるんだけど」
「あぁ、この街はハチミツで潤ってるからね。食事を出してくれる宿はないなぁ。だけど、巧い料理が食いたいなら、ジジョネテスキさまのレストランの隣の宿にするといい。そのレストラン、宿の泊り客のために朝食の時間から営業してるしね」
「ジジョネテスキさま?」
「うん、半年ちょっと前にこの街においでになった。王都でなんかやらかしたらしいけど、もともと国王と自由に謁見できるほどのご身分だそうだ。で、この街に来てからは趣味の料理に夢中だって話だね」
「へぇ、そんな貴族さまだと出してくれる料理も高級なんだろうなぁ」
「それがそうでもない。なんだかんだで庶民的。だからかなり繁盛してるんだ。わたしらも家族で行くよ。もうちょっと近けりゃ朝食も利用したいくらいさ」
「そっか……じゃあ、宿はそのレストランの隣にするかな」
「あぁ、そうするといい。この道を真っ直ぐ行けばすぐ判る。大きなお屋敷の敷地内にレストランがあって、隣は宿だからね」
「ちょっとお茶がしたいってときはどのサロンがいい?」
「ん、まだ夕食には早いか。それなら――」
サロンの場所を聞くと礼を言って馬車を走らせた。サロンはジジョネテスキのレストランの先、宿に寄って部屋を確保してからレストランを横目に見てサロンに向かった。
「トロンペセスはジジョネテスキがレストランをしているって知らなかったんですかね?」
サロンに落ち着き、注文品が揃ってからラクティメシッスが言った。
「ジジョネテスキはバリバリの武闘派だからね。料理が趣味だなんて夢にも思わないだろうさ」
ピエッチェが笑う。
「前を通った時見たけど、待ってる客がいたな。随分な混みようだった」
「えぇ、わたしも見ましたよ。店員を雇っているのも判りました――ジジョネテスキが自ら料理をしているのか、怪しいもんです」
「従業員はゲリャンガの住人だろう? だったらジジョネテスキが料理もしてると思うぞ。料理が好きでレストランを始めたってのは嘘だって言いふらされたら困るはずだ」
「しかしこうなると、監視の必要なしと思われたのも納得ですが……本当に隠れ蓑ですかね? レストランが楽しくなって、王都や王宮のことなんか忘れてたり?」
「ねぇ、これ、ハチミツのケーキ?」
いきなりクルテが割り込んでくる。
「ハチミツ、掛かってないよ?」
「ん? 生地に練り込んでるんじゃないのかな?」
「ごめんね、話しに割り込んじゃって」
珍しいことを言うなとピエッチェが思っているとクルテがニヤリと笑い、
「三席向こうの二人連れが話に割り込みたがってる」
声を潜めて言った。
「おまえが話に割り込んでくるのはいつものことじゃないか。今さら気にするな」
「そうですよ。もう慣れまてます。いつも絶妙なタイミングですしね」
ラクティメシッスもニヤリと笑った。
二人連れが声をかけてきたのはサロンを出てからだった。
「あんたたち、カッテンクリュードからかい?」
まだ若い二人の男、身なりは庶民的、だけど口調はわざと庶民的にしようとしているのが判る。育ちの良さを隠しきれていない。上流貴族の次男とか三男、そんなところだろう。
「いいや、違うよ。カッテンクリュードには行ったことあるけど、それがどうかしたのかい?」
ピエッチェが答える。横でマデルが『わたしたちは行ったことないよね』とラクティメシッスを見上げる。
「さっき王都とか王宮とかって言ってたよね?」
「あぁ……宿の隣のレストラン、ジジョネテスキが経営してるって聞いたから、ちょっと噂話してた」
「噂話ってどんな?」
「ジジョネテスキはザジリレン一の剣の使い手、それがレストランなんて不思議だって話さ」
「トロンペセスがどうのって言ったよな?」
「言ったよ。ザジリレン一の剣豪だって教えてくれたのはトロンペセスだからね」
「トロンペセスの知り合いか?」
「ワッテンハイゼに泊まった時に知り合った。なぁ、なんか、怒ってる?」
口調がだんだん詰問調に変わってきている。ピエッチェに指摘されて自分でも気づいたのだろう、質問していた男がハッとする。
もう一人の男が取り繕うように言った。
「いや、済まなかった……王都から嫌がらせに来た連中かと思ったんだ」
「嫌がらせ? うーん、それってジジョネテスキにってこと?」
「うん、まぁ、気にしないでくれ。時間を取らせて悪かった――行くぞ」
もう一人を促して立ち去ろうとする。立ちはだかったのはラクティメシッスだ。
「自分たちが訊きたいことだけ聞いて、行ってしまうのは感心しませんね――その嫌がらせの話、聞かせて貰いましょうか?」
二人連れの顔が蒼褪める。
「ラスティン、そんなに怖い顔をするな」
苦笑するピエッチェに、ラクティメシッスが唇を尖らせる。わたしが怖い顔? マデルに訊いている。不満そうだ。
「あんたたちをどうこうしようとは思っちゃいない。たださ、トロンペセスが心配してたからさ」
二人の男が顔を見合わせた。ピエッチェたちを信用していいのか迷っている顔だ。
「トロンペセスが心配してた?」
「あぁ――国王が所在不明になってから、王宮の様子がすっかり変わったって言ってたね。わけの判らないことで投獄されたり失脚させられたり、いったい何が起きてるんだろうって。ダーロミダレムとは牢に行って面会したそうだ。で、ジジョネテスキがセーレムに飛ばされた経緯を聞いて、なんとかしたいと思ったけれど自分にはそんな力がないって嘆いてたよ」
「トロンペセスはたかが警備隊の指令に過ぎない。心配だと? 身の程を弁えろ」
ピエッチェに詰問口調になった男がトロンペセスを馬鹿にする。もう一人の男が
「国王はトロンペセスを信頼している。そう悪く言うもんじゃない」
と窘めるが、
「その王さまは居場所どころか、生死さえ不明なんだぞ?」
トロンペセスだけじゃなく、王に対する侮蔑を隠しもしない。
「王が乱心して行方をくらましさえしなきゃ、ラチャンデルが傷心のグリアシード卿に近付いて取り入ることもなかったんだ。今じゃグリアシード卿はラチャンデルの言いなり、原因を作ったのは王じゃないか」
「おい、ジジョネテスキさまの話をちゃんと聞いているのか? 国王は堅実だしお優しい人柄、年齢の割には落ち着き過ぎてて面白味がない。でも、だからこそ乱心して臣下を殺めるなんて考えられないって言ってたじゃないか」
「乱心したってのは、王の親友グリアシード卿の目撃証言なんだぞ?」
「だからおまえは単純だって言うんだ。そのグリアシード卿はラチャンデルに懐柔されてるのを忘れるな」
「おまえこそ、あの二人が近しくなったのは王の失踪の後だってことを忘れているぞ!」
ピエッチェたちを置いてけぼりに、若い二人の口論が始まった。ラクティメシッスがピエッチェに向かって肩を竦める。有用な情報は得られそうもないぞと目で言っている。どうしたもんかと迷うピエッチェ、二人からジジョネテスキの近況を聞き出そうと思っていた。すると不意にクルテがピエッチェから離れ、トロンペセスを悪く言った男の前に立った。
「ジジョネテスキとはどうして知り合ったの?」
「えっ?」
口論で興奮していたのが急激に冷めたのだろう、男が後退る。もう一人が仲間を庇うように前に出てクルテに向き合った。
「それを知ってどうするつもりだ?」
場合によっては容赦しない……殺気を漂わせてクルテに訊いた。手は剣の柄にある。ピエッチェとラクティメシッスも剣に手を伸ばした。




