10
ピエッチェが窓を開けて外を見る。
「よかった……通りに面してないし、すぐそこに花が咲いてる――歩けるか?」
「ううん、無理」
寝具から顔だけ出して答えるクルテ、ピエッチェがクスッと笑った。この大噓つきめ……それでも、ベッド際まで行くと寝具を剥がして抱き上げる。
「まるで赤ちゃんだって、マデルが言ってたぞ」
「マデルなら何を言ってもいい」
そんなもんなのかねぇ?
窓際で降ろしてやると、クルテは両手を広げて窓の外に身を乗り出した。うっかりすると落ちそうな危うさにピエッチェが抱きとめると、窓枠とピエッチェに支えられたクルテの上半身は完全に窓の外になった。
そこに広がるのは乱れ咲く様々な花、白い花が多い。一番手前に咲いているのはムーンフラワー、香っているのはジャスミン? いいや、マグノリア? 両方が混ざり合ってる? あぁ、今、風に乗って届いてきたのはクチナシの香りだ。
少し離れると背の低いヒマワリも見える。その向こうにはナイトクイーンがぼうっと光を放っている。夜の闇の中で、咲き誇る花の幻想的な美しさは見惚れるほどだ。
「ん?」
異変に気付いたピエッチェがクルテの延ばされた腕の先を見る。広げられた掌の周囲から徐々に侵食していく異変、花が次々に萎れては散っていく。
『花を……』
食事の場で倒れたクルテが、支えようとしたピエッチェの耳元でそっと言った。他の誰にも聞こえなかっただろう。
『花が無ければ、もう動けない』
その時ははっきり判ったわけではなかった。けれど思いついたのは、ララティスチャングを出て最初の宿泊地ゴイングウッドからモリモステに向かう途中で、朝は美しかった花籠の花が枯れてしまった事だった。あの時はクルテの成長に花が必要不可欠なものだったんだと思っていた。でもそうじゃなく、文字通り生きていくのに必要なのかもしれない。それで慌てて花を探そうと考えた。だけど、みんながいる前ではクルテに花を渡せない。だから寝室に移動した。
予測はしていたが、こうして目の当たりにすると驚かずにはいられない。クルテは花から生気を譲って貰っている。クルテが花籠を絶やさないのは少しずつ花で体力を取り戻すためだったんだ……
「ふぅ……」
クルテが身体を起こし、部屋の中に降り立った。
「もう大丈夫……それよりお腹すいた」
クリッとした目でピエッチェを見上げる。
「あぁ……マデルが部屋で食べるよう持ってきてくれたのがある」
「うん。お茶はカッチーが持ってきてくれた。レモン水はオッチンネルテが。ワインはカティのために、だね」
しっかりとした足取りでクルテがテーブルに向かうのを見て、ピエッチェが窓を閉める。窓の周囲はすっかり花が散ってしまっていた。
「ソノンセカに花屋はなさそうだな。朝になったら、少し分けて貰えるように村長に訊いてみるよ」
「この部屋の周囲だけ花が咲いてない。奇妙に思わないかな?」
「不思議に思うかもしれないけれど、日当たりのせいだろうくらいにしか思わないんじゃないかな」
「そうだといいんだけど……」
いつも通り、皿の中をマジマジと見始めたクルテ、でも今日は黙り込まなかった。
「森はね、いつでも何か花が咲いてる」
「うん?」
「女神の最大の務めは森の実りを守ること。女神って元々は樹木の精霊――樹木の娘ってなんだろう?」
「さぁな……判らないけど、花なんじゃないか?」
「判らないのにそう思うんだ?――魔物になる前は森に居て、気が付かないうちに森の木々から生気を貰ってたみたい。グリュンパから魔物の森を通ってギュリューに行った時、森の手前の花屋の前を通ったでしょ? 花がね、連れてけって言ったから買ったんだよ」
「花はなんで連れて行けって?」
「判らない。花ってちょっとした風でも揺れるから、何か言っててもちゃんと聞き取れない。でも、魔物の森で魔鳥が出てきて判った。花の矢は刺さっても相手を傷つけない。花たちは森の魔物の正体が女神のペットだって知ってたんだなって……シャーレジアの剣を取り返すために花籠を女神にあげたって言ったけど、ちょっと違う。花たちが女神のところに行きたがった」
「へぇ、花は女神が好きなのか?」
「花たちはね、役に立ちたいんだ。切り花になったらもう種は作れない。だったら女神や娘たちを元気づけたり、人間の心を癒したり、なにしろ役に立ちたいんだ」
「切られちゃうのはいいんだ?」
「本音は切られたくなんかない。だけどさ、蜂や蝶を誘き寄せるために美しくなった。リスクは承知のうえ、ってことだろうね――ちょっと果物は少な目、だけどトマトとキュウリと、ウズラの茹で卵入りのスープがある。このお肉は何?」
「えっ? あぁ、多分、ウズラ肉のソテーだな」
「多分って言うな」
なんでだよっ?
舌打ちしたい気分のピエッチェを尻目に、クルテは嬉しそうな顔でトマトにフォークを刺した――
マデルが様子を見にきたのは、使い終えた食器をピエッチェが片付けている時だった。クルテは食べている途中でウトウトし始め、ピエッチェに言われて先に寝てしまっていた。
「大丈夫だよ、心配ない。食事もした」
「幸せそうな顔で寝てるわね」
スヤスヤと眠るクルテを覗き込んでマデルが微笑む。
「昨夜は大騒ぎだったもの。疲れちゃったんでしょうね」
「マデルもロクに眠ってないんだろ? 早く戻って休んだ方がいい」
「そうね……」
とは言うものの、マデルはテーブルに向かうと椅子に腰かけた。
「少し話してもいい?」
マデルが俺に話ってなんだろう? 少し怖い気がする……ピエッチェがマデルの対面に座る。
「話って? クルテのことか?」
「うーん、まぁ、それもあるかな……ラクティが何だかピエッチェのことを凄く心配しててね」
「ラクティメシッスが? クルテは俺に似つかわしくないって?」
「まぁ、そう言うことなんだけどね――ピエッチェ、あなた何者?」
マデルがじっとピエッチェを見詰める。ピエッチェもマデルを見詰め返す。
ラクティメシッスが、ピエッチェが本物のカテロヘブだと明かしていないのは間違いなさそうだ。だけどマデルは何かを感じてラクティメシッスを問い詰めた。だがはぐらかされ、仕方なくピエッチェ本人に訊くことにした――そんなところか。
「何者って訊かれてもなぁ……元ザジリレン王家騎士団に所属していた騎士崩れ。演習中に肩を負傷し、クルテに助けられたけど動けるようになるまで一月ちょっとかかった。その間に死んだと思われ、しかも傷のせいで騎士の務めは無理。今さら帰っても迷惑が掛かると旅に出た。そしてマデル、あんたと知り合った。そのあとのことは話すまでもないだろ?」
自分でも呆れるようにスラスラと言葉が出てくる。まぁ、今まであちこちで言ってきた真実まじりの作り話、今さら後ろめたく思うことさえ後ろめたい。
マデルがそっと溜息を吐く。
「そうね、わたしが知ってるピエッチェの身の上はその通りよ。でもね、だとしたら、なんでラクティはあなたを心配するのかしら? それにあの人ってね、いい加減そうに見えて実はすごく慎重な人なのよ。そのラクティがあなたを手放しで信用してるのはなぜ?」
「それを俺に訊かれてもなぁ。本人に訊いてくれよとしか言えないぞ?」
「訊いたわよ。だけど『なんとなく、かなぁ?』なんて言って誤魔化しちゃうの。ピエッチェ、思い当たる節があるんじゃないの?」
「そんなものあるもんか。って、そうそう、最初に言ってたぞ。マデルが信用してるからなんじゃないか? そんなことを言われた気がする」
「そう言われてみれば……でも、やっぱり可怪しい。ラクティは自分で確かめなくては気の済まないところがあるの」
「ふぅん。結構、気難しいんだな」
「そうね、神経質って言うか繊細。見栄を張って、自分を大らかで大胆に見せるようにしてる」
神経質で繊細な国王じゃダメだと、ラクティメシッスは考えたのかもしれない。きっと自分が考える理想の統治者に少しでも近づこうと努力した結果が、ラクティメシッスから受ける印象に大きく反映されているんだろう。
「マデルは彼のことがよく判っているんだね」
「子どものころからの付き合いだもの……ラクティの愚痴を聞いてあげられるのはわたしだけだったしね」
マデルがほんのり頬を染める。
「大人たちには到底言えやしないじゃない。いずれ国を治める者が何を言っているって怒られちゃう。妹は年下ってのもあるけどあの性格でしょ? わたしは同じ齢だし気安かったんじゃないかな?」
愛情が生まれた末に恋に落ちた……マデルとラクティメシッスはそんな関係なんだろう。
「って、わたしのことはどうでもいいの」
マデルがキッとピエッチェを見る。
「今はピエッチェのこと。ねぇ、本当の名は? ザジリレンでも名を知られた騎士だったんじゃないの? ピエッチェってのが偽名だってのは最初から判ってる。貴族名とは思えないもの」
さて、困った。
「ふむ……で、マデル。俺の正体を知ってどうしたいんだ?」
「判り切ったことを訊かないで。最初からの約束よ。フレヴァンスを助け出した暁には、あなたが自分の家を取り返す手助けをするって。そのためにはあなたの正確な名と身分が知りたいの」
「そんな約束をしたことは覚えているけれど、今回のザジリレン行きはラクティメシッスに協力するためだ。俺の個人的なことにまで手が回るかは判らない」
「けれど、そうなるかもしれないとは思っているのよね?」
「もし、そんなことになったら、その時には説明するよ」
「まったく! なんでそんなに隠したがるのよ?」
「それは……」
それは言えない。しかも、この展開では隠してなんかいないとも言えない。明らかに隠している。
「困ったな」
苦笑いするピエッチェに、マデルも苦笑する。
「ピエッチェを困らせたいわけじゃないわ」
だろうね、俺が困っているのは自業自得と言えなくもない。むしろ俺は、マデルを困惑させていることを謝らなきゃならない。
「わたしね、あなたが誰なのか、考えてみたの」
マデルが少しだけ視線を落とす。言うか言うまいか迷っている顔だ。
「ピエッチェって、ラクティのこと、呼び捨てだよね。いくら他国の人でも相手が王太子と知ってて呼び捨てはないと思うわ」
「うーーん……生意気だとはよく言われた」
これはまるきり嘘だ。そんなに遠慮がちではいけないとよく言われた。少しは傲慢な態度も時には必要だと、腰が低いのは王としてはいただけないと釘を刺された。
「ピエッチェが謙虚なのをわたしは知ってる。生意気だなんて嘘よ」
マデルが、今度は悲しげに笑う。
「ねぇ、わたしってそんなに信用できない?」
マデルが顔を上げてピエッチェを見た。
「ピエッチェ、あなた、本当は……行方不明のザジリレン王カテロヘブよね?」




