20
アップルパイを食べ終えていないのを忘れて、ピエッチェがスパイスクッキーに手を伸ばす。甘さの中にピリリとした刺激、鼻孔の奥に控えめに広がる香り……クリオテナが焼いたものによく似ている。
「ザジリレンだ……」
つい呟いたピエッチェをカッチーが見た。
「ザジリレンがどうかしたんですか?」
「あ、いや……この菓子、ザジリレンの味なんだよ」
するとクルテが
「店主がザジリレン出身らしいよ」
とニヤッとする。
「カッテンクリュードの菓子屋にいたらしいんだけど、独立したんだって。妻子を連れてララティスチャングに来て、で、自分の店を始めたって言ってた」
「店主に聞いたのか?」
「言ってたのは奥さん。ザジリレン国内でって思ってたけど、なんかね、カテロヘブ王がいないザジリレンなんてって旦那がやる気をなくしちゃったから、いっそローシェッタに行こうって発破を掛けたって笑ってた」
「うーーん……」
「だからさ、まだ開店して日も浅い。やっとぼちぼち繁盛し始めたかなって思ってたら、今度はラクティメシッスが行方不明だってんで『俺は王に嫌われてる』って店主が沈み込んで働かなくなった。今は奥さんが一人で、お菓子を焼いて店番もしてる。だけど、前より味が良くなったって、却って売れるようになったらしいよ」
クルテがスパイスクッキーを齧って笑う。
「旦那はローシェッタ風にアレンジしてた。でも、奥さんはそんなことができないから、完全にザジリレンの味。うん、美味しい」
服屋でもほかの店でも、街の様子を尋ねると誰もが真っ先にラクティメシッスの失踪を思い浮かべた。とりわけ詳しかったのは服屋、貴族の客も多い高級店には上流階級の噂話も流れてくる。
はっきりした理由までは判らないものの、上級魔法使いに召集がかけられたのは確からしい。ラクティメシッスもそれに応じ王宮に入っている。そして一度は会議に参席したが、その後どこに居るかが判らなくなった。
『ララティスチャングに来たのは初めて、どんな街?』
クルテの質問に服屋が心の中で思い浮かべたのはそこまでだ。
そのあとクルテは
『そう言えば、ザジリレンから喧嘩を吹っかけられてるって噂を知ってる?』
と訊いている。これに対し服屋の店員は
『そんな噂もあるようですね』
とだけ答えた。だが、頭の中ではもっと多くを考えている。
ひょっとしたらラクティメシッスさまはザジリレンに潜入したのでは? でも、もしそうなら一人で行くはずがない。必ず誰か配下を連れて行くはずだ……
菓子屋では少しクルテも肝を冷やした。『カテロヘブ王を名乗る人が何人も居るんだってね』とクルテが笑うと、店主の女房が『カテロヘブさまなら一目見れば判る』と思ったからだ。ザジリレン出身ならカテロヘブの顔を知っていても不思議ない。ピエッチェを店の外で待たせてよかった……サロンに寄ることなくさっさと宿に戻ったのは荷物があったのもあるけれど、王都ララティスチャングなら他にもザジリレン出身者がいるかもしれないと考えたからだ。
「やっぱり、ザジリレンとローシェッタでは食べ物が違うんですか?」
カッチーが三個目のアップルパイを自分の皿に乗せながら訊いた。
「大した違いはないんだけど、材料の配合や味付け、使うスパイスが違ってるって感じかな」
「材料の配合かぁ。そっか、このアップルパイ、いっぱいバターを使ってるし、リンゴの甘煮もローシェッタよりシナモンが強い。リンゴの下のカスタードクリームは砂糖控え目ですよね」
「よく判るね」
「えぇ、俺、食べるの好きなだけじゃなく、作りかたにも興味あるんです」
「マデルから手紙が来ないのって、ラクティメシッス失踪と関係してるのかな?」
いきなり話を戻したのはクルテだ。
「それどころじゃないのかも?」
「ラクティメシッスが気掛かりで他が手につかないんなら、まだいいんだが」
ピエッチェが、食べかけのアップルパイを思い出して口に運ぶ。
「心配なのはさ、失踪にマデルが関係してるんじゃないかって嫌疑が掛けられてないかだ」
口に運んだものの、食べる気分が失せたのだろう、パイを皿に戻した。
「こうなると、なんでマデルに招集が掛からなかったのかも気になるな」
「なんだったら、マデルさんの家に押し掛けましょうか?」
「カッチー、それは藪蛇。下手するとわたしたちが事件の首謀者じゃないかって疑われる」
「事件って、なんの?」
「フレヴァンス誘拐及びラクティメシッス失踪」
「あん? つまり王子と王女が二人ともいなくなったってことになるな」
ピエッチェが唸り
「ローシェッタ王家に恨みのある者の犯行? まさかノホメ?」
クルテを見て意見を求める。
「うーーん……フレヴァンスはともかく、ラクティメシッスは誰が相手だろうとそう簡単に後れを取るとは考えられない」
「でも、事件って言ったってことはラクティメシッスは監禁されてるって考えたんじゃ?」
「あるいは身を隠した?」
「誰から?」
「それが判れば苦労しない」
はい、仰る通りです。
「まあ、いいよ」
クルテが溜息を吐く。なにがいいんだか?
「わたしたちはわたしたちにできることをするしかない。ラクティメシッスの助力は当てにできない。いつマデルと連絡が取れるかも判らない。と、なると、自力で王宮に入り込み、フレヴァンスを送り届けなくちゃならない。それにはどうしたらいいか?」
「王宮に入るのは順番待ちでなんとかなる。でも、入れるだけだ」
「そうだね。役人の審査があって、そこで偽カテロヘブは帰される。国王に謁見できるわけじゃない」
「役人の審査ってどんなものなんでしょう?」
「本物のカテロヘブだと証明するらしいよ」
カッチーの疑問にピエッチェが答えた。ピエッチェは宿の支配人から聞いた。
「証明するってことは、役人もカテロヘブ王の顔を知らないってことですか?」
「だろうね」
「で、役人はどうやって、その証明の真偽を判定するんでしょうか? 例えばカテロヘブ王しか知らない話だとか言ったって、役人にはそれが本当がどうかなんて判断できないですよね?」
「ん……?」
これにはピエッチェも考え込んだ。
「カテロヘブ王には何か身体的特徴とかってないんですか? どこかに黒子があるとか」
「うーーん、聞いたことないなぁ」
カッチーの質問に、ピエッチェが自分のことをあれこれ考える。が、クルテがフフンと笑った。
「ねぇ、忘れてる? わたしたちが連れているのは偽カテロヘブ、証明なんか出来っこない」
「あ……」
思わず見交わすピエッチェとカッチー、カッチーは自分の思い込みに苦笑したがピエッチェはさらに考え込んだ。
「つまり、俺たちにはローシェッタ国王に会う手段はないと?」
「ないわけじゃないけど、ジランチェニシスも連れて行きたいとなると工夫が必要かな」
「ないわけじゃないってどんな?」
「この際カテロヘブは話に出さない。で、謁見を願う用件はフレヴァンス」
「ふむ……フレヴァンスの居所を知っている、そう申し出るか」
「そうだ、偽カテロヘブの目を覚まさせようよ。もういなくてもいい。少し金を渡して、自分の家に帰れって言おう。あれ、お荷物だよね」
「カテロヘブを口実に謁見できそうもないなら、あの状態でおいておくのも可哀想だしな――目覚めさせるのはいいけど、ジランチェニシスが怒るぞ。アイツは本物だと信じてるし、そう信じさせたのは俺だ」
「ジランチェニシスに気付かれないで目覚めさせる方法はないかな? 勝手に目覚めた本人が『実は嘘です』って言い出せば、ジランチェニシスはピエッチェに文句は言えない」
「そうだ。カッチーに働いて貰うか?」
「へっ?」
名指しされてカッチーがびっくりする。
「俺、何をすれば?」
「明日でいい、ジランチェニシスと一緒に街に出てくれないか? 王との謁見用の服を買いに行きたいって口実で」
なるほど、とクルテがニッコリする。が、すぐにちょっと困ったような顔になるが何も言わずにカッチーの様子を窺っていた。
「俺、そんな服なら持ってます」
「えっ?」
「こないだマデルさんと服を買いに行ったじゃないですか。その時、マデルさんに見繕って貰いました」
「あ……でもさ、もう一着あってもいいんじゃ?」
「ジランチェニシスは持ってるのかな?」
珍しくカッチーが〝さん〟を省略する。
「持ってるだろうねぇ……」
これはクルテの呟きだ。
「うーーん、何かいい口実、ないかなぁ?」
カッチーが考え込む。
(服屋であちこち寸法を測られるのがイヤなんだって)
ピエッチェの頭の中でクルテの声、
(マデルと行った時、懲りたらしいよ)
なるほどね、と思うピエッチェだ。採寸をするのは女店員が多い。カッチーにはそれが恥ずかしくて堪らないのだろう。
「明日ですよね? 少し考えてみます――夕食が運ばれてきたみたいですね」
部屋の呼び鈴が鳴らされて、カッチーがメインの居間に向かった――
昨日と同じように、まずはジランチェニシスと偽カテロヘブの部屋に食事を運んで貰った。
「そいつの世話も大変だろう? たまには交代しようか?」
ピエッチェの提案に、
「いいえ、できる限りわたしがします――ザジリレン王にコネを持つのも悪くないですからね」
ジランチェニシスが薄ら笑いを浮かべる。
そんな思惑があったのか……嫌な気分と憐憫に似たものを同時に味わうピエッチェだ。夢を見続ける偽カテロヘブに同情してマメに世話を焼いているのだと思っていたが、だけどそうではなく下心があってのことだった。しかし結局、その下心が結果を見ることはない。
だがそうなると、ジランチェニシスに偽カテロヘブを置いて出かけることを承知させるのは難しそうだ。寝室には内側から掛けられる鍵はあるが、外からは掛けられない。魔法を使ったらどうだと言ってみるか?……ジランチェニシスにはそんな魔法は無理な気がする。
夕食ではカッチーに、もしジランチェニシスを連れ出せたら注意すべきことを念入りに話した。何しろノホメ側に接触させたくない。
「決まったところにしか行かせません。時間はそう長くなくていいんですよね?」
カッチーは服を買う口実で出かけ、気に入ったものがないと言って買わずに帰ることを提案した。
「もっといいのがあればって思ったんだけど、今あるのでいいやって言います」
ジランチェニシスは怒るかもしれないが、クルテが買った菓子が残っている。それをご馳走すれば機嫌は直るとカッチーが笑った。
「キューテマのアップルパイをあげたら凄く喜んでました。甘いものが大好きだけど、菓子店には入りずらいって言ってました」
ジランチェニシスを連れ出して偽カテロヘブを目覚めさせると決まったのに、ふと不安を感じた。偽カテロヘブはどうして自らをザジリレン王だと偽った? なんだか嫌な予感がする。




