19
気分は最悪だった。自分の愚かさに反吐が出そうだ。俺がしようとしたことはただの凌辱だ。逆らわないと判っている相手に自分の思いを押し付けただけ、俺が欲しかったのはこんなだったか?
隣のベッドが軋んだ音を立てた。クルテがベッドに腰かけ、立ち上がったのが判った。ギュッとピエッチェは目を閉じる。クルテに顔を見られたくない。きっとどうしようもないほど情けない顔をしている。
クルテがベッドに腰を降ろした。重みでベッドが僅かに傾く。まさか、俺がこっちで寝てるから、おまえもここに潜り込む気か?
「眠りなさい、愛しい子」
消え入りそうな歌声が聞こえた。子守唄だ。子どもの頃に聞いたことがある。ピエッチェが横たわるベッドに座ったままクルテが口ずさんでいる。
「楽しい夢は今日のため、不思議な夢は未来のため」
微かな振動、クルテが動いた。そして髪に触れる手を感じた。
「悲しい夢はすぐに消える。わたしが食べてあげるから」
そこでクルテの歌は途切れた。子守歌には続きがある。
夢の精霊は悪戯で、喜ばせるのも好きだけど悲しませるのだって大好きよ。だけど一番好きなのはあなたが安らかに眠ること。あなたが幸せを掴むこと。だから安心してオヤスミ。必ず目覚めの朝が来る。
歌ってくれたのは母だった。悲しいことがあって泣き濡れる夜には必ずこの歌だった。可愛がっていた小鳥が死んでしまった時もこの歌だった。今、クルテがしているように髪を撫でながら歌ってくれた。
目頭が熱くなり、何かが頬を流れていった。なんで俺は泣いている? 答えを探す余裕はなかった。心地よい眠りに誘われているのを感じていた。
「どうしたらいいか判らなかったんだ」
クルテはもう歌っていない。ピエッチェの髪をそっと撫でながら呟いたのは独り言だろうか?
「だから真似をした。それがおまえを傷つけるなんて、知らなかったんだ。だからお願い、嫌わないで」
それとももう俺は夢を見ているのか? クルテの声が遠くなった……
日差しの眩しさに目を覚ます。窓から差し込む光は、とっくに朝は過ぎていると教えている。ぐっすり眠ったのだろう、昨日の疲れは感じない。
ぐっすり眠れたのはこいつのお陰か? 腕に抱き込んだ柔らかなものにピエッチェが苦笑する。記憶にないが結局、クルテはこのベッドに潜り込んだんだろう。そして俺は無意識のうちに抱き寄せて、いつも通り抱き合って眠っていた。だからこそ、ぐっすり眠れたのだと思った。
クルテの寝顔を見ると、ほんの少しだが涙のあとがある。クルテを泣かせたのは俺だ――胸の苦しさに、昨夜とは違う後悔を感じた。
「本当におまえは、俺のことばかりだな」
それに引き替え俺は? 自分の思いだけで突っ走り、勝手に後悔し、拗ねておまえを拒絶した。そうされたらおまえがどんな思いをするかなんて、これっぽっちも考えなかった。それなのにおまえは、そんな俺に愛想を尽かすこともく、こうして離れず寄り添っている。大人にならなきゃダメなのは俺だ。
髪を撫でられながら聞いたクルテの声は夢なのか現実なのか判らない。だから考えないことにした。それでも、クルテが嫌われたくないと思っているのは間違いない。何度も本人から聞いた言葉だ。
そして思った――どうしたらいいか判らないから真似るのではなく昨夜の俺のように、クルテが込み上げるものに突き動かされるようになるまで待とう。そんな日がくるのはそう遠くない。クルテも俺を愛している。確信できる。それとも俺の思い上がりか?
「ん……朝?」
眩しげにクルテが目を開けた。
「イヤ、そろそろ昼だ」
「いつから起きてた? よく眠れた?」
目が覚めた途端に俺の心配か? 俺は……おまえの愛情に応えたい。
「おまえの子守歌のお陰でな――好きだよ。クルテ」
唐突なピエッチェの言葉にクルテが驚き、すぐに嬉しそうに笑う。
「本当に? 信じちゃうから!」
抱きつくクルテ、受け止めるピエッチェ、キスを交わしながらピエッチェが思う。今はキスまでだ。昨夜の続きはおまえに、俺の妻になると言わせてから――
ダイニングに続く居間ではカッチーが本を読んでいた。ピエッチェを見ると、
「あー、もう、俺、腹ぺこ過ぎです。マデルさんを起こしてもいいですよね」
本をテーブルに置いて立ち上がった。お茶を淹れて一人で飲んでいたらしい。置き去りにされた本のタイトルは『魔法使いと女神の娘』だった。
朝食はとっくに運び込まれていて、通い箱に入れたままダイニングにあった。デッセムが言うには、通い箱に入れておけば半日程度は料理が冷めないらしい。開業当時に逗留した魔法使いが掛けた魔法だと言っていた。
献立は朝食にしてはかなり豪華、それでも胃の負担を考えたのか消化のいい品ぞろえだ。コーンポタージュ、ひき肉を包み込んだオムレツ、カリカリに焼いたベーコン、茹で野菜が数種、そのほかヨーグルト、ジュースはブドウとリンゴ、今朝はミルクもあった。果物は盛り合わせだがこの辺りでは珍しいバナナもあるところを見ると、デッセムはかなり奮発したのだろう。
「わたし、ミルクは温めようかな?」
起きてきたマデルがミルクの瓶を持ってキッチンに向かうと、クルテもついていった。クスクス笑いが聞こえてくる。
「あれ、なんかピエッチェさんの悪口言ってますよ」
カッチーがニヤッと笑う。
「言わせておけばいいさ」
「あれ? クルテさんもそうだったけど、ピエッチェさん、凄く機嫌がいいですよね」
「いつもと変わらないよ――それよりデッセムには会ったのか?」
「いいえ、俺が起きた時は食事、玄関の間に置いてありましたから」
アリジゴクの骸は湖に打ち上げられただろうか? デッセムが言いに来ないのならまだか? それともゆっくり寝かせようと、遠慮してるんだろうか?
ホットミルクに垂らしたハチミツを溶かしながらマデルが言った。
「それで、今日はどうする?」
ジェンガテク湖に来た目的は人を飲み込む穴が森に出現すると聞き、それがフレヴァンス誘拐と関連があるかどうかを調べるためだ。
結果として全く関連がないわけではなかった。が、それは人魚からの情報、アリジゴクを退治したのは人魚だと明かしていないのに、どう説明するか?
「今朝早く、虫の死骸がないか湖のほとりに行ってみた」
ピエッチェが迷っているうちにクルテが話し始めた。
「死骸はなかったけど、人魚に会った」
「へっ? って、クルテ、一人で行ったの?」
「ピエッチェも一緒――で、アリジゴクを連れてきたのはコテージに住んでたヤツだって教えてくれた」
「やっぱり関係があったんだ?」
「なんかね、街で飼えなくなってこの森に捨てたらしい」
「つまりラジが住んでいるのは街ってことですね。しかし街って言っても、どの街なのかが問題です」
これはカッチー、
「取り敢えず、村や小さな集落は除外できます。前進って言えば前進ですか?」
と、ピエッチェを見た。
「それに加えて舞踏会を開けるほどの大広間があるような屋敷がある街となると絞れるんじゃないのか?」
ピエッチェがマデルを見る。
「あぁ、デレドケで弄ばれたってあれね」
クスッと笑ってマデルが答える。
「真っ先に候補に挙げたいのは王都ララティスチャングだけど、あそこは王室が街を把握してる。空き家になってるお屋敷はないと思う」
「王都以外だと?」
「その大広間ってどれくらいの規模だったのよ?」
ザジリレン王宮の大広間並み、とは言えない。いや、言えるか。
「ザジリレン王宮で開かれた舞踏会に出席したことがある。似ていると思った」
「舞踏会を開く広間なんてどこも作りは似たようなもんよ。でも、そうなるとかなり大規模ね」
「ギュリュー清風の丘のお屋敷に空きはない?」
これはクルテ、なぜか半分飲んだミルクのカップに一口大に切ったバナナを、皮を剝いては放り込んでいる。
「おい、おまえ、何してる?」
「バナナをミルクに入れてジュースみたいにするって教えてくれたよ?」
「ああ? それは、そんな切っただけのバナナじゃ無理だぞ? 摺り潰さなきゃ」
「そうなの? じゃあいいや」
スプーンを手にしてバナナを掬って口に運んだ。
笑いを噛み殺すカッチー、マデルはクスッと笑ってから、
「清風の丘に行ってみる? あそこは王室も把握してないから。別荘までは関知しないのよ」
とピエッチェに言った。
舌打ちしたそうな顔でクルテを見ていたピエッチェが、
「どうせギュリューには行かなきゃだしな。グレイズに奥さんがどうしてああなったかを教えた方がいいような気がする」
とマデルを見た。
少し考えたマデルが、
「そうね、他人の噂なんか信用できるものじゃないけど、どこかでひょっとしたらって思ってしまうのが人情よね」
と悲しそうな顔をした。グレイズの妻が正気を失したのは暴行されたから、その噂を思い出していたのだろう。
「自分を信じていたほうが幸せに通じる」
ミルクを飲み干したクルテがポツンと言った。
「ギュリューに行くのはあとにしよう。ノホメがクサッティヤの家に戻っていたら、そっちが先」
「ノホメに何か訊く気か?」
「ラジの正式名を思い出したか訊いてみる」
「あの様子じゃ思い出してくれそうもありませんよ?」
これはカッチー、
「そこは話の持って行きよう。ところで、リュネの世話はした?」
クルテがカッチーを見た。
「え、はい。さっき、水を替えてきました。デッセムさんが野菜をくれたみたいで、飼葉桶は満杯でした」
「ん? 何かあった?」
どことなく沈んでいるカッチーをクルテが訝る。するとカッチーの代わりにマデルが答えた。悲しそうだし、困っているようでもある。
「リュネ、魔物になっちゃったみたいなの」
マデルが言葉を選び選び説明した。昨日リュネが、マデルとカッチーがロープを引くのを手伝ったこと、ピエッチェのロープがビクとも動かくなくなると身体が大きくなり頭から角が生えたこと、ピエッチェのロープだけでなくクルテのロープも切れていると知ったら座り込んで、元のオイボレ馬に戻ってしまったこと、それなのに水を飲んだだけで若々しさを取り戻したこと……
「やっぱりリュネは魔物になっちゃったんですね?」
カッチーがギュッと目を閉じたのは涙を堪えたからか。
そんなカッチーにピエッチェが言った。
「リュネが魔物になったのは、俺たちの役に立ちたいからだ。カッチー、おまえ、なんでそんな悲しそうにしてる?」
「だってピエッチェさん、魔物は退治しなくちゃいけないんじゃ? リュネを退治だなんて」
「なぁ、マデル。魔物になったリュネは退治しなくちゃいけないのか? ローシェッタ国・王室魔法使いとしての見解を聞かせて欲しい」
ピエッチェが問うと、カッチーがマデルを見詰めた。
「そうね」
マデルが考え込む――




