15
きっとチャンスは一度だけ、失敗すればあとはない。ピエッチェが、剣を握る手に力を籠める。
敵は何を考えている? 感情も、何を見ているのかも読めない七対の目、動き続けるバカでかい顎……見極めろ、ヤツの動きを。見極めろ、斬り込む隙を。ヤツに向かって流れ続ける土、ほとんど埋もれて思うように動かせない足、左腕には失神したクルテを抱え、圧倒的な不利、それでも! 必ず勝機はあるはずだ。
来る! 今、ヤツは俺を見た。見たと感じた。右肩をあげ、左腕を後ろに、上体を捻る。左から右に剣を振って、ヤツの顎の内側を狙え! あのギザギザに引っ掛けてそのまま思い切り振り切るんだ。きっと顎の片側を外せる。あとは俺とアイツの力比べだ。負けるもんか!
アリジゴクが、大きく広げた顎をピエッチェに向けた――
「あっ!」
カッチーが小さな声を上げた。マデルがクルテのロープを手繰っていた手を止めてカッチーを見る。
「手応えが変わりました。急に重くなって動きません」
すぐさまカッチーに駆け寄るマデル、同じロープに手を伸ばす。しかし、二人で力をあわせているのにロープをそれ以上引き寄せられない。
「引いて、引くのよカッチー!」
「引っ張ってますってば」
真っ赤な顔のカッチーが声を振り絞る。顔を顰めて目を閉じて、マデルも真っ赤になっている。それでもロープは動きを止めたまま、ビクともしない。
「えっ?」
不意にカッチーが顔を上げ、後ろを向いた。いきなりロープが後ろに動いた。マデルも後ろを見て口をぽかんと開けた。
「リュネ、おまえ……」
カッチーとマデルが手にしたロープの先をリュネが引っ張っている。いつものリュネとは違う。頭に生えた一本の角、その角にロープを絡めていた。
マデルとカッチーが、茫然とリュネを見ていたのはどれほどか? すぐにマデルが気を取り直す。
「リュネのことは後で考える! 今はロープ!」
「は……はいっ!」
カッチーの目元が光って見えたのは、汗か涙か? それでも、しっかりとロープを握り締め、その先に繋がった大事な人を取り返そうと足を踏ん張る。
じりじりと、二人と一頭がコテージの方へと後退する。が、ガクン! と前に引き戻された。
「向こうからも引いてます!」
「言われなくても判ってる! もっと、もっと! 頑張るの!」
もう、何を言っているのか、マデルにもよく判らない。だけど引っ張るだけだ、それは伝わっているはずだ。
リュネが嘶き、グイッとロープを引いた。再びジリジリと後退が始まった。なのに……
プツン――いきなり抵抗する力が消えた。マデルとカッチーが同時に後ろに放り出され尻餅をつく。リュネは何度か蹄を鳴らしただけでシャンと立ち、すぐにロープを引き始めた。痛む尻を構う暇などない、カッチーも立ち上がってロープを手繰る。
「マデルさん……」
やっと立ち上がったマデルに振り向いたカッチーの顔は真っ青に変わっている。
「カッチー……」
カッチーが手にしているものを見てマデルの顔も蒼褪める。カッチーが手にしているのはロープの先端、明らかに刃物で切られていた。
突然アリジゴクが素早い動きを見せた。だがそんなことは想定内、それくらいのことに対処できないピエッチェではない。自分でも信じられないくらいに冷静だ。この窮地に却って心は研ぎ澄まされ、相手の動きが不思議なくらい良く見える。
今だ! 左に構えていた剣を、敵の顎の内側めがけて右に払う。行ける! 狙い通り、内側のギザギザに刃が当たった。ガツッと響くような抵抗を感じ、右腕が止まりかける。負けるな、このまま振り切るんだ。そうだ、もう少しだ!
「うおっ!」
いきなり腰を引かれ、ピエッチェの身体から力が抜ける。剣はどこかに吹き飛ばされた。しまった、ロープだ。なんで、このタイミング!?
アリジゴクを見ると、どうやら剣は大顎を折ったらしい。ピエッチェが当てたあたりから先がない。しかし、どうする? 剣はどこかに飛ばされた。敵は激怒して顎を振り回している。痛みに耐えているわけじゃない。あれは怒っているんだ。すぐにまた来る。
そして味方は当てにできない。引っ張られる感触はあるものの、ピエッチェの身体を動かせたのは最初だけだ。身を乗り出すように剣を振っていて土の抵抗が弱まっていたんだろう。引いているのは判るが、ピエッチェを動かせるほどじゃない。敵に集中しなくていいならこちらから動きたいところだが、今は無理だ。隙を作るわけにはいかない。
なんてことを考える余裕もない。アリジゴクが顎を突き出し降りかかってきた。
「クルテ!」
何も考えず、クルテに覆いかぶさり庇うピエッチェ、万事休す!? もうダメだ、ピエッチェが目を閉じた。その瞬間――
誰かが足をギュっと掴んだ。強烈な力で土の中に引っ張り込まれる。あっという間にずっぽり頭まで土の中だ。少しでも土を吸い込まないよう、クルテの顔を懐に抱き込んだ。自分も目を閉じる。口にも鼻にももちろん目にも、土が入ってくるだろう。
頭上でズサッと聞こえた。アリジゴクの顎が土に刺さった音か? って事は、俺の足を引っ張っているのはヤツじゃない。だったら別の魔物か? アリジゴクと俺たちを取り合ったか? アリジゴクのライバルってなんだ?
それが判ったところで、どうしようもない。土の圧迫は思いのほか強い。このままじゃクルテを守り切れない、もう呼吸が続かない。ぐいぐい足は引っ張られ、身体はどんどん深く埋もれていく。何も見えない、身体も簡単には動かせない。どうしたらいい? 俺の足を掴んでいるのは誰だ?
違う、誰にも掴まれていない? 足首から下の土がサラサラと流れている。流砂か? 腰を引かれたことで立ち位置が変わり、流砂に足を踏み入れた? いや、待て……この流れ、この冷たさは水だ! 地下水脈だ! ならば! ピエッチェが一縷の望みに縋りつく。
抱いているクルテの後ろに両手を回し、クルテの腰を探った。剣はどこだ? クルテの細身の剣でもロープくらい切れる。手探りで左はロープを見つけ、右は剣の柄を握り締めた。そしてクルテのロープをまず切った。でも、自分のロープはどうすれば切れる? 両手を後に回したら、クルテをどうやって支えればいい?
再び腰が引っ張られ、ピエッチェの身体の向きを変えた。腰が上なら正面は下だ。僅かに上昇するのも感じるが、まだ弱い。水脈の流れには逆らえず、身体はじわじわ下降を続けている。
それに上にいるのはアリジゴク、不気味な振動はアリジゴクがロープを齧っているからじゃないか? ロープの先に獲物がいると知っているんだ。
足が膝まで水に浸かったのを感じた途端、グイっと身体が持っていかれた。全身が水の中、土の中より自由に動ける。それに目が開けられる。左腕のクルテをグッと抱き締めて、水流の中で自分に繋げられたロープを探した――
デッセムが様子を見にきたのは夕刻、そろそろ傾き始めた太陽に影が長く延びている。マデルとカッチーの様子に、なんと言おうか迷っている。お喋りなデッセムも、この時は気の利いたセリフが思い浮かばなかったのだろう。
「夕食、四人分用意するから――明日の朝は……あとでまた聞くから」
返事を聞かずに本館に戻っていった。
デッセムがコテージに顔を出したのは、今日はこれで三回目、最初は朝食を終えたピエッチェたちが焚き場に向かうと来ていた。リュネのために野菜屑を運んでくれていた。
「毛布は役に立ちそうかい?」
「あぁ、ありがとう。何か礼をしなくちゃな」
「またうちを利用してくれればいい。夏は避暑、秋は紅葉、冬は雪景色、年に何回来てもいいところだよ」
「ジェンガテク湖に氷は張らないんだ?」
「碧色の水は凍らないんだそうだ。不純物がどうのって話だけど、そんな理屈はどうでもいいさね」
二度目に来たのは、切れたロープにマデルとカッチーが茫然と座り込んでいた時だった。
「あんたら、どうした!?」
マデルに駆け寄り助け起こそうとするデッセム、マデルはそんなデッセムを見て涙を溢れさせた。
「二人が……二人を繋いだロープが切れた」
はっとしたデッセムがマデルから手を放し、今度はカッチーの傍に行く。そしてカッチーが握り締めていたロープと、もう一本、放り出されたロープを見比べた。どちらも刃物で切られている。そんなことはデッセムにも判る。
「これを切ったのは、旦那か嬢ちゃんだ。だから、そんなに心配しなくていい。穴に落ちたなら切りゃしない。そのうち心配かけたなって戻ってくる――それより、地面に座ってないで、せめて椅子に座りなよ」
それからウッドデッキの横の竈に火を熾し、二人のために茶を淹れてくれた。
「これはサービス。村のために働いてくれてるんだ。これぐらいはさせてくれ」
出してきたのはジャムを乗せて焼いたクッキーだった。どうやら差し入れしようと来たらしい。
そして三度目、これはピエッチェとクルテが戻ったかが気になってのことだ。しかしマデルとカッチーの様子を見れば訊くまでもない。だからわざわざ夕食は四人分と言って、二人は無事だと匂わせた。でもきっと、デッセムは諦め始めている。『朝食についてはまた聞く』と言ったことでも判る。
暫く二人とも何も言わなかった。思い出したように呟いたのはマデルだ。
「さっきのリュネは、なんだったんでしょうね?」
ピエッチェのロープが切られているのが判り、最初に立ち直ったのはリュネだ。すぐに今度はクルテのロープを引っ張り始めた。それを見て、カッチーもクルテのロープをこれ以上は無理と言うほど腕を動かして手繰ったがこちらは最後まで手応えがないまま、切断された先端を目にすることになる。
へなへなと崩れるカッチー、リュネは悲しげに嘶き、いつもの場所に戻って座り込んだ。力を使い果たした、そんな感じだった。一回り大きく見えていた身体が急速に元に戻り、それとともに頭にあった角も引っ込んでいった。
それを見てマデルが呟く。
「リュネに水を飲ませなきゃ」
でも、動けそうもない。カッチーが、目のあたりを袖で擦ってから立ち上がった。
「はい――リュネのヤツ、力の限り頑張ったみたいですね。元のボロ馬に戻ってます」
カッチーが水桶に水を入れてもリュネは座ったままだ。
「飲むんだ。そしたら少しは元気になる」
カッチーを見詰めてから、立ち上がってリュネは水桶に首を突っ込んだ。
見る見る若返っていくリュネに、歪んでいくカッチーの顔、
「マデルさん……リュネは魔物になってしまったんでしょうか?」
震える声で問いかけてきた。立ち尽くしてリュネを見詰めるカッチーに、いったいなんと答えればいい?
「でも、もし魔物になったとしても、悪い魔物じゃないわ」
何が言いたいのか、マデル自身にもよく判っていなかった。




