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一瞬、ノホメは目を見開いたが
「コテージに住んでた少年って言うとラジジュマニュレだったかラジジャメニョレだったか、綺麗な顔をした子だね? 輝く金髪、涼やかな碧眼、いい男になったことだろうよ」
と、すぐ笑顔に戻った。
「おばあさん、男の子の名を知ってるの?」
「うーーん……正しくは思い出せない。わたしらはラジさまって呼んでたから」
「ラジさまのお母さんの名も判らない?」
「奥さまって呼んでたんだよ。ここに住み始めた頃に世話をしていた女の人も姫さまって呼んでて名を聞いた覚えはないね。母親は栗色の髪に鳶色の瞳、男の子はきっと父親似なんだろう。顔も母親にはあまり似ていなかった。だけど母親だって負けないくらいの美人さ――あの親子がどうかした?」
「亡くなった息子さんの隠し子を探してる知り合いがいてね、もしかしたらと思って」
マデルがチラッとクルテを見た。マデルの知り合いが孫を探していることは心を読んだだけでマデルから聞いたわけじゃない。似過ぎた話にマデルは怪しまなかったか? それとも、よくある話と思っただろうか? ピエッチェが心の中で冷や冷やする。
「そうなると、ない話じゃないね。正式な奥方じゃないのは判ってた。その奥さまが産んだんだ、隠し子ってことになる――名は判っているのかい?」
「それが、男の子ってだけで不明なんです」
「母親の名は?」
「それも判らないんです。隠し子がいた息子さんは秘密主義だったようで、最近になって見つかった日記に『愛しいあの人とわたしの息子』って記述が何度か出てきて、それで慌てて探し始めたそうなんです」
「手掛かりなしで名も知れず。それで探すんじゃ雲を掴むような話だね。だいたいあの男の子がここに住んでたのは、ええと……何年前までだったかね」
「十八年前だよ、祖母ちゃん」
考え込んだノホメにデッセムが助け舟を出す。
「そうか、もうそんなになるかね? 月日が経つのは早いもんだ――今じゃ何処に住んで、何をしているのかも判らない。役に立てそうもないよ」
「ううん、ラジって呼ばれてたことが判っただけでも充分です」
微笑むクルテ、ノホメの心を読んで他にも情報を掴んだかもしれない。
「それでね、おばあちゃん――人魚のことなんだけど、満月の夜に封印の岩が砕けるって伝説があるでしょ?」
話を進めるクルテ、ノホメが少しホッとした顔で微笑んだ。ラジのことは訊かれたくなかったか?
「あぁ、あるね。一人ジェンガテク湖に取り残された人魚が心待ちにしてるけど、いったいいつの満月なのかは判らないし、本当にあの大岩が砕けるのかも怪しいもんだよ」
「おばあちゃんはその伝説、信じてないんだ?」
「信じちゃいるけど、あてにならないかなぁって」
「あてにならない?」
「どうして人魚たちが封印されたか知ってるかい?」
「人間に敵意を持って戦いを挑んできたからだって聞いてるよ」
「そう、だいたいそんな感じ。で、封印したのは誰だかは?」
「ローシェッタの魔法使いでしょ?」
「うん、そう言われてる。だけどね、本当はザジリレン王だって、このあたりじゃ信じられてる」
「ザジリレン王?」
「ローシェッタとザジリレンは親戚だからね。で、その時の王妃はローシェッタ王女だった。そんな関係から助っ人に来たんだよ」
「しかし、他国の魔物狩りに王が自ら出陣?」
疑問を呈したのはピエッチェ、ノホメがピエッチェに微笑む。
「今のわたしと一緒さ。お妃の里帰りに同行してた、ま、遊びに来てたんだ。で、ザジリレン王はなんとかって剣を使って人魚たちに言うことを聞かせた」
「ひょっとしてグレナムの剣?」
「うーーん、そこまでは判らないけどさ、ザジリレン王が一振りすると剣は眩しいほどに輝き始めたって伝えられてる」
「それでどうなったの?」
先を促すクルテ、ピエッチェは怖い顔で黙り込んだ。
「その剣には精霊が宿っていてね、輝いたのは精霊が姿を現したからなんだよ――精霊は話し合おうと人魚たちに呼びかけた。自分が仲に入り、決して悪いようにはしない、精霊はそう言ったんだ。だから人魚たちは精霊の指示に従って湖の畔、崖の下の洞穴に集まった。なのに、ローシェッタの魔法使いが洞窟の前にあのバカでかい石を置いて人魚たちを閉じ込めちまった」
ノホメが溜息をついた。
「ローシェッタの汚点だよ。人魚を騙し討ちにし、精霊、さらに言えばザジリレン王の顔に泥を塗ったことになるからね。だからさ、民間ではザジリレン王やその剣から出現した精霊の話は消えた。地元のここでだけ細ぼそと言い伝えられているんだよ」
「顔を潰されたザジリレン王と精霊は怒ったのでは?」
「まぁ、ザジリレン王もただの男さ、恋女房の家族に強くは言えなかった。しかし精霊は激怒、だけどこっちはこっちで剣の主人を責めることもできない――精霊のそばに居て、封印されずに残った一人の人魚に約束したんだ。数年後の満月の夜、大岩を砕くってね」
「なんですぐに砕かなかった?」
「封印された人魚たちは怒りにまかせて暴走するだろうって。もう精霊の声も耳に届かない。少し冷却期間が必要だってのが精霊の考えなんだけど……問題はさ、忘れちゃうってことなんだよ」
「忘れちゃう?」
「あぁ、剣に宿っていたのは黎明の精霊、黎明ってのは夜明けのこと、明るく成り切ってなくってぼんやりしてる。精霊もぼんやりしててね、なにしろ忘れっぽい」
「それじゃ、精霊は人魚との約束を忘れてて、だから未だに人魚たちは封印されてるってこと?」
「そうなるねぇ。信じちゃいるけど当てにならない、判って貰えたかい?――ま、そのうち思い出すんじゃないかね」
面白そうにノホメが笑う。
「ねぇ、おばあちゃん。なんで満月なんだろう?」
「いや、そこまでは判らないよ。でもさ、月の魔力は満月の時が一番強いって言われるから、そのあたりじゃないのかね」
「なるほどね……夜香花が満月に歩き回るのも関係する?」
「どうだろう? さっきも言ったけど、恋人が来るのが満月の夜だったから、これじゃあご不満かい?」
「そうなるとさ、なんで恋人は満月の夜だけ会いに来たのかが不思議だよね? どんなに満月が好きでも、他の日だって会いたくなれば時間を作りそうだよ?」
「あぁ、言われてみると不思議だね。まさか恋人も人間じゃなかったとか?」
「だとしたら、女神なら見破りそうだよね?――それと、さっき訊き忘れたんだけど、満月に夜香花に化身するなら、普段の女神はどんな姿をしているのかな?」
「ほかの森の女神と同じさ。光を放つほど美しいのだとか。昔は森に行けばたまには会えたらしいけど、男に去られてからは隠れちまって出てこない。女神を拝んだことがあるヤツは、今じゃ居ないよ」
「でも、森は生きている。女神はどこかに居るってことだね――それでね、おばあちゃん、森に不思議な穴ができて人間を飲み込んじゃうらしいんだけど、何か知ってる?」
「あぁ、その話かい」
ノホメが悲しそうな顔になった。
「デッセムから聞いて知ってるけどね、わたしが詳しいのはこの村の、昔っからの言い伝え。最近のことはよく判らないんだよ」
「言い伝えの中に、何か関係しそうな話はないのかな?」
「穴が出たって聞いていろいろ考えたんだけど思いつかない。どこからか、何かイヤなものが迷い込んだんじゃないかって考えてる」
「イヤなもの……忌むべきもの?」
「うん。だけどこの森には女神がいる。忌むべきものなら女神が放っておくはずはないよ」
「そうだよね……」
考え込むクルテ、少し間を取ってノホメに微笑んだ。
「ありがとうございました。とても参考になりました」
ノホメも微笑み返すものの、心配そうにクルテを見た。
「デッセムから聞いたよ。穴は魔物の仕業だと思ってて、その魔物を退治するつもりなんだって? ありがたい話だけどね、不都合に見えてもそのままにしておいた方がいいことだってあるよ」
「やめた方がいいってこと?」
「やめろとは言わないけれど、自分を犠牲にしてまですることじゃない、それは忘れるんじゃないよ」
デッセムが支えようとする手を振り払って、元気よくノホメは帰っていった。
カップを片付ける手を止めてカッチーが
「あれっ?」
と小さく叫んだ。
「デッセムさん、朝食の代金、すっかり忘れてますよね?」
ハッとするピエッチェとマデル、次には吹き出す。
「まぁ、いいよ。あとで宿の受付に寄ろう――で、とりあえず、夜香花のことは考えなくていいってことだな?」
「そうね、クルテは気に入られたから心配ないってノホメが言ってたものね」
「その言葉、信じちゃっていいんですよね?――あっ!」
再び叫ぶカッチー、
「夜香花、消えてます」
とキャビネットを見た。
これにはクルテも『ん?』と視線を向ける。
「女神が元の姿に戻ったって事かもね」
手には薄い絹の小さな巾着袋、縛っていたのに広げて中を覗き込む。
「花は健在。でも枝は消えてる」
花だけ摘んでを袋に入れ、ポプリを作っていたところだ。
「夜香花は夜しか匂わない。ポプリも夜には香るのかな?」
「なんの匂いもしないのか?」
「微かに香る程度。まぁいいや」
巾着袋の口を縛ってクルテがピエッチェを見上げた。
「これからどうするか、決めなくちゃね」
クルテには訊きたいことがあった。ノホメが言っていた黎明の精霊がクルテと関係しているような気がした。人魚はクルテのことを『儚き早暁の精霊』と呼んだ。黎明の精霊ではなかった。でも繋がっている、そう思えて仕方ない。そして剣はきっとグレナムだ。
だが、マデルやカッチーがいるところで訊くわけにはいかない。脳内会話もできなくはないが、ここで黙り込むのもヘンだ。夜、寝室で二人きりになった時にでも確かめればいい。クルテの言うとおり、今はこれからどうするかを話そう。
「結局、穴についての新しい情報はなかったな」
カッチーが使用済みのカップを片付け、新しいお茶を淹れて戻るのを待ってピエッチェが言った。
熱いお茶をふうふうしながらクルテがクスリと笑う。
「だけど他のことは幾つか判った。デッセムには感謝、ノホメにはもっと感謝」
「ん? まぁ、このコテージに住んでた男の名のヒントは貰えたな。ラジって呼ばれてたってことは判った」
「それに、母親が姫って呼ばれてたことにも注目」
「姫って、貴族の娘ならそう呼ばれることもあるわ」
とマデル、
「マデルさんも姫って言われてましたね」
とカッチーが笑う。
「そう、だからこそ、母親は上流貴族の娘だってこと。上流貴族の令嬢が、幾ら相手が貴族でも愛人になってるのはヘン」
「あっ……」
マデルがクルテを見た。
「まさか、誘拐されてここに連れて来られた?」
「その可能性もなくはないよね」
クルテがズズッとお茶を啜った。




