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マデルたちが帰ってきたのは、日没が迫る頃だ。
「本当に同じ馬かって疑っちゃたわ」
リュネを見てきたマデルの感想だ。
カッチーはかなり興奮したらしいが厩に行ったあと、あちこち散策してきたことで戻ってきたときには落ち着いていた。
「手入れ次第でこうも変わるんだってのがよく判りました。リュネの世話の重大さを目の当たりにした気分です」
真剣な眼差しは決意表明のようだ。ピエッチェに『任せたよ』と言われ『はい』と答えたが、いつものような軽さは消えて、元気の良さが〝頼もしさ〟として残っていた。
クルテの言うようにいつまでも子どもじゃないんだ、としみじみ思う。が、カッチーと自分は四つしか違わない。他人から見れば俺もただの若造、カッチーどころじゃない。カッチーに負けていられない。
マデルが見繕ってきた花はクルテを喜ばせた。太陽の光で見たいと言ってベランダに行ったと思うと、抱きかかえてニマニマしている。
「黙ったままのラベンダー、とっても幸せガーデニア、スパイリアは儚いけれど、カンパニュラは永遠の愛を誓う……」
歌なんだかお呪いなんだかよく判らないことをブツブツ言ってはニンマリしている。溜息を吐くピエッチェにマデルが『花言葉よ』とこっそり言った。
「やっぱり歌なのか?」
ピエッチェもこっそり尋ねる。
「どうなのかしらね? 歌みたいだけど、聞いたことないわ。ザジリレンの民謡とかじゃないの?」
「俺も聞いたことないな」
「さっきと同じで元歌があるのかも。買ってきた花に合わせてるみたいよ」
「さっきって、イチゴか?」
思い出してピエッチェが笑う。
「しっかしなぁ……あの物言いはなんとかならないのかな?」
「ピエッチェにだけよね、あんなふうなのは」
「うん?」
ニヤッとしたマデルから視線を逸らしたピエッチェ、
「そうだっけか?」
と惚ける。マデルに言われなくても判っていた。そんなピエッチェにマデルが微笑む。
「どんな形だろうが特別は嬉しいわよね――ねぇ、食事に行きましょうよ」
ピエッチェの反応を待たずにベランダに向かったマデル、『食事に行くよ』とクルテに声を掛けている。カッチーが、
「ピエッチェさんの最大の弱点って女性かも知れませんね」
クスッと笑った。
レストランよりも居酒屋のほうが気楽でいい。数種類の料理を頼み、取り分けて食べるほうが楽しい。何しろ値段も安い――声高に言うカッチーに、マデルが微笑む。
「カッチーはテーブルマナーが苦手だものね」
「イヤ、まぁ、確かにそれもありますけど」
「ここの料理も悪くないけど、凝った料理もそれはそれでいいものよ」
「マデルさんはレストランの方が好きですか?」
「わたし? 美味しければどっちでもいいわ」
そりゃそうだとピエッチェが笑う。
それからクルテを見て、
「おまえは……いや、聞くべきじゃなかった」
と苦笑いした。クルテは例によって取り分けた料理の材料を確認するのに忙しくしていて、チラッとピエッチェを見たが何も言わなかった。
「で、ピエッチェはどうなの?」
とマデルが訊いた。
「あまり、あれが食べたいとかって言ったことがなくってね」
王宮での食事は、出されたものを何も言わずに食べる、そんな感じだった。
「調理係が頭を悩ませて考えた献立を、丁寧に料理して食卓に並べてくれる。それに注文を付けたり文句を言ったりなんてできなかった」
チラリとクルテがピエッチェを見たが、今度も何も言わなかった。
「やっぱりピエッチェって大貴族なのねぇ」
「よく言うよ。マデルだってそうじゃないか」
「うちの父はしょっちゅう料理に文句言ってたわ。塩辛いだの甘すぎるだの」
「それじゃあ、調理係はすぐクビだ?」
「そんなことはなかったけどね。でも、うん、父が文句を言わなくなると、クビにされてた」
「見放されたってことか?」
「それがね、他に行っても通用する料理人になったって事らしいの。母がそう言ってたわ」
すると横からクルテが口を挟んだ。
「マデルのパパは人を育てるのが好き?」
「そうかもしれないわね。何人も弟子が居てね。凄く厳しいの。でも、優しい人でもあるわ」
「会いたくなっちゃった?」
「パパに会いたいって泣くほど子どもじゃないわよ」
笑うマデルにクルテが頷く。
「判った、少しでも早くマデルが家に帰れるようにする。そのために明日は清風の丘に行く」
「って、会いに行く気か? 口実はどうするんだよ?」
慌てるピエッチェにクルテが笑む。
「口実なんか要らない。会いたいから来たって言えばいい」
ピエッチェがマデルと顔を見交わした。カッチーは『言えてる』と小さく呟いた。
宿に戻ってからゆっくり話そう――その場で話を切り上げたが、言い出したら聞かないのがクルテだ。どうせ明日は清風の丘に行くのだろう。
「カッチーがリュネに乗りたがってる」
寝室でピエッチェと二人きりになるとクルテが言った。ピエッチェはデスクの、クルテは鏡台の、備え付けの椅子に腰かけていた。
「すぐには無理だ。リュネも訓練して、初心者が乗っても大丈夫にしてからだな」
「リュネも訓練?」
「手綱をどうされたらこうするとか、鐙の合図が何を示すのかとか。それをリュネに覚えさせるんだよ」
「リュネもお勉強」
「リュネも? ふふん、カッチーのライバルか?」
「そうなのかな? うん、そうだね」
クルテはやっぱりマデルが買ってきた花を抱えている。前回と同じようにマデルが気を利かせたのだろう。花籠になっている。
「なぁ?」
ピエッチェが、前々から気になっていたことを聞いてみた。
「おまえ……俺がザジリレンで落ち着いたら森に帰るって、マデルに言ったんだって?」
クルテがチラッとピエッチェを見た。
「カテロヘブが王座を取り返したら人間の姿ではいられなくなる。急に居なくなっても、森に帰ったと思ってくれればいい」
そう言うことか。
「俺はおまえを必ず人間にする。だから、そんな心配はしなくていい」
今度はピエッチェを見ずにクルテが言った。
「世の中に必ずはないと思ったほうがいい」
「俺が信用できないと?」
「何を根拠に信用しろと?」
グッとピエッチェが言葉に詰まる。
「おまえは――」
「信用するとかしないとかじゃない」
ピエッチェを遮ったクルテ、ピエッチェが言葉を変える。
「信用できないなら……」
信用できないなら一緒に居る意味がない、そう言おうと思った。でも、そんなことを言ったらクルテは消えてしまわないか?
「……せめて期待してくれよ」
クルテから視線を外し、ピエッチェが項垂れる。
情けないと思った。声が弱々しく、自信の欠片も感じられない。もちろん、情けないのは声だけじゃない。
マデルの言うとおりだ。俺はクルテに勝てない。縋ってでもそばに居て欲しい。どうしてこうなってしまったのか? 窮地を救われ、匿われ、怪我の治療をしてくれ、身体機能の回復にも手を貸してくれた。クルテが居なければ、こうして命を永らえてはいなかっただろう。でも、それとは違う。これは別の思いだ。
おまえが居なければ生きていけない――本気でそう感じている。クルテを失いたくない。失うのが怖い。俺はこんな弱いヤツだったのか?
視線を外したピエッチェを、今度はクルテがマジマジと見詰めていた。そして抱えていた花籠を鏡台に置くと立ち上がり、ゆっくりとピエッチェに近付いた。
クルテがそっとピエッチェの髪に触れる。
「フワフワと柔らかい。それに優しい色合い――朝陽の中で見ると透けて輝く」
ピエッチェがクルテを見上げる。
「おまえは自分の髪が嫌いらしいが、わたしは好きだよ」
クルテが微笑んで、今度は両腕をピエッチェの首に回して頭を包み込んだ。
甘い匂い……おまえの体臭ってこんなだった? もっと、こう、新緑みたいじゃなかったか? なのに今は、どこからともなく漂ってくる花の香りみたいに甘く、酔わされてしまいそうだ――あぁ、そうか。花籠を抱いていたからか。
クルテが囁く。
「肩も背中も鍛えられた筋肉で覆われて、とても力強い」
耳元で言っているはずなのに、なぜだかクルテの声は遠くから聞こえる。
「首だって、わたしの倍はありそうなほど太い。おまえの身体は頑丈だ」
クルテがピエッチェの頭に頬ずりする。泣きたいような気分のピエッチェ、胸が押し潰されそうだ。
「髪も身体もおまえだ。柔らかく繊細なおまえ、力強く挫けることのないおまえ、どちらもおまえの一部分――そしてどちらがより良いものかなど、誰にも、おまえ自身にさえも決めることなどできない。比べられる物ではないからだ」
クルテがゆっくりと身体を離していく。そしてピエッチェの目を真直ぐに見て言った。
「そんな顔をするな。わたしだっておまえが居なければ生きていけない」
でもそれは、おまえが魔物で、餌食にする相手が必要だからだ。俺の秘密を食うために、おまえは俺から離れないんだろう?……ピエッチェがクルテから目を背けた。
「クルテ、おまえはなんにも判ってない――弱さ・強さは併せ持っているものだとでも言いたいようだけど、そんなんじゃないんだ」
クルテが自分を見ているのを感じる。情けない俺をどう思っているんだろう? 慰められれば余計に惨めになると、おまえに判るだろうか?
「情けないなんて思っていない」
クルテの言葉にピエッチェが思う。心が読めるのに、なんで俺の気持ちが判らないんだ?
「長所とか短所とか、そんなことを言ってるわけでもない」
じゃあ、いったい何が言いたいんだ?
「……判っていないのはカテロヘブ、おまえだ」
クルテが数歩後退り、ベッドに腰を下ろした。
「自分一人が苦しんでいると思い込んでる」
俯いていた顔を上げて、ピエッチェがクルテを見る。今度はクルテが顔を逸らした。それをピエッチェが鼻で笑う。
「つまり、なんだ? おまえだって苦しいんだって言いたいわけか?」
心が叫ぶ。それ以上言うな!
「俺と一緒に居ると苦しいってか?」
ダメだ、止められない。
「だったらどこか行っちまえよ。お互いそれで清せいするぞ」
クルテが茫然としている。茫然とこっちを向いた。何か言えよ。どこにも行きたくないって言えよ。そしたら俺は……
ピエッチェを見たままクルテが言った。
「どうせわたしはいずれ消える。でも――」
「でも!?」
その先は聞きたくない。『でも、おまえが望むなら今すぐ消えてもいい』そう言うと思った。
「俺が消えろって言えば、今すぐ消えるのか? いつまでだって一緒に居るって言ったのは噓か? あぁ、そうだよな、おまえはいつだって嘘ばかりだ」
「嘘なんか言ってないよ、カテロヘブ」
激昂するピエッチェに対し、クルテはいたって平静だ。
「信じられない?」
「何を根拠に……」
クルテに言われた言葉を、言われたよりも酷い言葉でピエッチェが投げ返す。
「魔物を信じろって言うんだよ?」




