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迷ったがやはり気になる。ベランダから戻ったクルテに、ピエッチェが小さな声で訊いた。
「マデルの様子は?」
カッチーが窓の向こうを盗み見る。
「疲れたって。わたしも疲れた。寝る」
そのまま寝室に入ってしまったクルテ、カッチーが
「リンゴを食べたからですよ。クルテさんは食べるとすぐ眠くなります」
と笑う。
「かなり参ってますね、マデルさん」
「参ってるって?」
「王太子さまの話を聞いてから無口になっちゃいました」
ピエッチェがマジマジとカッチーを見る
「王太子の話って、なんとかってご令嬢との縁談の件か?」
「えぇ、それです。こないだ食事に誘われたじゃないですか。で、期待しちゃったかなって」
「それはないと思う。二人とも王室魔法使いで、以前からの知り合いだ。食事くらい今までだってしてるだろうし、仕事の話があったのかもしれない」
カッチーの邪推はいい線だ。クルテから聞いていなければピエッチェも同じように考えただろう。けれど同意するわけにはいかない。
クルテはマデルの心を読んで、ラクティメシッスとの事をピエッチェに話した。マデルはラクティメシッスとの仲をピエッチェが知っているとは思っていない。
かつての恋人が別の女性と結婚する――〝かつて〟とは言っても、マデルは吹っ切れていなさそうだ。動揺もするだろう。動揺とは少し違うのかもしれない。傷ついた? 落ち込んだ? 言葉ひとつじゃ言い表せない。でもきっと、マデルはそんなこと、誰にも知られたくないはずだ。
「ピエッチェさんはなんだと思ってるんですか? クルテさんに様子を聞いたってことは、いつもと違うって感じてるってことですよね?」
「さぁなぁ? 判らないからクルテに訊いたんだよ」
苦笑してピエッチェが立ち上がる。
「明日になっても元気がないようなら、何か手を打つ。だからそっとしておけ――俺ももう寝るよ。それじゃあな」
眠いと言っていたが、クルテは寝ないで待っているような気がした。眠るのを待つのではなく、二人きりで話したがってる。そんな気がした。
思った通りクルテは寝ないで、厳密には熟睡しないで待っていた。
寝室にはベッドが二台ある以外は鏡台にスツール、小さなデスクと椅子があるだけだ。クルテは椅子に座り上体をデスクに投げ出して転寝していた。が、ピエッチェが部屋に入るとふらふらと身体を起こし、少し焦点の合わない目をピエッチェに向けた。
「……手が届かない」
「へっ?」
「ここのブルーベリーは、なんであんなに高いところにしか実がないの?」
「おい、夢でも見たか?」
「だからね、抱き上げて。手が届くように……」
完全に寝ぼけている。眠いと言っていたのは本当だったらしい。
これではまともに話しなんかできない。
「ほら、寝るならベッドで寝ろ」
二の腕を掴んで立たせようとするとなんとか立ち上がったものの、そのまま撓垂れかかってくる。支えてやらないとぶっ倒れそうだ。仕方ないので抱き上げると
「これじゃ手が届かない」
とブツブツ言っている。まだ夢の中を彷徨っているらしい。
ベッドに降ろして寝かせようとすると、今度は首に回した腕を放してくれない。
「おい、こら、放せ」
ところがますます強い力で抱きついてくる。寝ぼけているのか疑いたくなるような力だ。荒っぽくも扱えない。どうしたものかと困るピエッチェの耳元で、クルテが何か言った。
「抱いて、カテロヘブ……」
「えっ?」
心臓がドキリと音を立てた。どんな意味で言った? クルテの顔を見ようとするが、しっかり抱き込まれて首を回せない。髪の匂いと体温と柔らかな感触に眩暈がしそうだ。
「ねぇ、カテロヘブ」
「クルテ、しっかりしろ。おまえ、寝ぼけてるんだろう?」
声が裏返りそうで、自分でも情けない。それにこれじゃあ、だって、止められなくなりそうだ。それとも? 迷わず先に進めば、別の道が開けてくる? ピエッチェがクルテを抱きとめる手に力を込めようとする。が……
「クルテって誰?」
クルテの呟きがピエッチェの熱を瞬時に冷ました。
「どうしてわたしじゃないの?」
さて、どうするか? 揺さぶって目を覚まさせる? 寝ぼけたヤツのペースに嵌ったままでいいわけがない。だが、どこを揺さぶる? この体勢じゃ触っちゃいけないところに触ることになりそうだ。
「おい、クルテ! おまえがクルテだろうが!」
「違う、クルテなんかじゃない」
「俺はおまえからクルテって名前しか聞いてないぞ?」
「嘘吐き! わたしの名を知ってるくせに!」
ワッと泣き出したクルテがピエッチェの首に回していた腕を放し、どさっとベッドに横たわった。そして動かなくなる。もう泣いていない。
「おい、クルテ」
やっと自由になったピエッチェが、そっとクルテの肩に触れる。
「まだ寝ぼけてるのか?」
クルテの反応はない。どうやら眠り込んでしまったようだ。
「どうなってるんだ?」
呆気に取られたピエッチェ、いっそ起こしてみようかとも思ったが同じことが繰り返されたら面倒だ。
思った以上にクルテは疲れているんだろうか? だから混濁した? だったらこのまま寝かせておいたほうがいい。
さっきまでクルテが座っていた椅子に腰かけた。今すぐベッドに潜り込んではダメだと思った。クルテを起こしてしまうからじゃない。ほんの少し前の記憶が蘇りそうで怖かった。
翌日――朝食を運んで来たのは宿の主人だった。
「力仕事は俺の担当さ。まぁ、他にも何人か雇っているけどね」
ギュームを知ってるかとクルテが訊ねると
「あぁ、シャイン……レムシャンが本名か、の父親だろう? 行方不明だったらしいけど、無事に帰ってきた。王太子さまが連れてきてくれたってんで、大騒ぎになったさ」
あっさり答えた。
「確か息子夫婦と清風の丘の天辺の家に住んでる。この街じゃあ珍しい平屋さ」
「どんな色の家? ここってどの建物もカラフルだよね」
「あぁ、俺もここに来た頃は目が回りそうだった。でも清風の丘は貴族さまの別荘ばかりで、色は普通さ。レムシャンの家もお屋敷ってほどじゃないけど普通に大きい家、外壁は白っぽい色だったと思うよ。少しばかり広い庭があって、覗けば四阿が見える。周辺は立派な門と高い塀で囲まれたお屋敷ばっか、木の柵の家はそこだけだから行けばすぐ判る――ギュームさんがどうかしたのかい?」
「肖像画を描いて貰おうかなと思って」
「ってことはギュームさんって画家なんだ?」
「あら、違った?」
「いや、俺が知らないだけだ。この街の噂は入って来ないんだよ。ほら、俺の話し相手はここの街人じゃなく旅行客ばっかだからさ」
「でも、街の様子だって少しは聞いてるんでしょ? 奥さんからとか」
「そりゃあね。でもアイツは噂なんか馬鹿馬鹿しいって滅多に話さない。大騒ぎになった時くらいだ」
「そうだよね。でなきゃギュームさんがどこに住んでるか知らないよね」
「肖像画を頼むってことは清風の丘に行くってことだね。クレメンテルさまの別荘もあそこにある。運が良ければラクティメシッスさまを拝めるかもしれないぞ」
「それって幸運なことなの?」
「輝く黄金の髪、涼しげな碧眼……ローシェッタの王太子さまは美男子、女どもはみんなキャーキャー言いやがる。でもお嬢ちゃんは興味なさそうだね」
「見てみなきゃどう感じるかなんか判らないよ。美男子の基準がどこにあるかは人それぞれかも――王女さまもいたよね? やっぱり美人?」
「あぁ、フレヴァンスさまは見たら目が潰れそうな美女さ。誰かの目が潰れたって噂は聞かないけどな――ここんところお加減が悪いらしくって、公式の場に姿を現さないって話だ。結婚相手選びの舞踏会でお倒れになったんだってさ。しかし、なんだってローシェッタの王子王女は婚期が遅れてるんだろ?」
「結婚したくないのかも? 王女さまのご容体は心配だね」
「王族とか貴族とかは、したくなくても結婚して子を儲けるのも務めだって聞くけどね――ま、王宮には偉いお医者も魔法使いもいる。すぐに元気になるだろうさ」
と、廊下から『どこで油売ってるの!?』と声が聞こえ、
「いけねぇ、他の客の部屋にも食事を持ってかなきゃだ。あとでまた話そう」
宿の主人は慌てて部屋を出て行った。
サラダを突きながらマデルが言った。
「よく喋る男でよかった」
もちろん宿の主人のことだ。
「お陰でギュームの家が判ったわ」
「が、なぜ俺たちと会いたくないのかは判っていない」
ピエッチェは茹で卵の殻を剥いている。隣でクルテがじっとそれを待っている。巧く剥けないからと、クルテが渡した茹で卵だ。
「だから不用心に訪ねていくのは得策じゃない」
ピエッチェが剥き終わった卵をクルテの皿に乗せると嬉しそうにクルテがニッコリし、すぐに真面目な顔に戻って言った。
「だからって、予告してから行けば居留守を使われる」
「俺たちに会いたくないのはギュームなのか、それともレムシャンか、あの宿なのか?」
「グレーテかもしれないわよ」
「街ぐるみも忘れるな」
クルテの言葉にピエッチェとマデルがハッとする。
「ギュームを街ぐるみで死んだことにしてた。生きてると不都合だったか?」
「ダメよ、ピエッチェ。クルテは可能性を言っただけ、決めつけたら目が曇る」
「ピエッチェの目はいつも澄んだブルー」
クルテの抗議はピエッチェとマデルに無視された。代わりにカッチーが、
「クルテさんの言う通りです」
と微笑んだ。
結論を出したのはピエッチェだ。
「こうしていても埒が明かない――街で訊き回ってみよう」
「今度は何に化けますか?」
前回を思い出してカッチーが勢い込む。
「またマデルさんのロクでもない弟になりますか? で、マデルさんは浪費癖のある阿婆擦れ、ピエッチェさんは金持ちの女好き、クルテさんはその情婦?」
確かにそんな設定だった。だけど、今さら聞くと赤面物の役割にピエッチェが鼻白む。
「いいや、今度はまともな人物にしよう。ないとは思うけど、ラクティメシッスにでも出くわしたら厄介だ」
「そうなると、画商や前と同じ金貸しには行けないわね」
昨日の落ち込みはどこへやら、マデルはいつも通り、むしろいつもより元気かもしれない。普段、起き抜けはボーっとしているのに、起きてくるとすぐに『今日はどうするのかな?』と言い出した。
心配していたピエッチェは拍子抜けし、だからって咎めるわけにもいかず『朝食の時に話そう』とその場は流した。宿の主人がラクティメシッスの名を出したのには冷や冷やしたが、表情に変化を見せなかったマデルにホッとした。
今もどうしようかと躊躇いを感じたが、言い淀むのもヘンだ。だから普通に話題にあげた。そしてマデルも普通のままでいる。吹っ切れたってことか?
思ったよりも逞しい、そう思った時、頭の中でクルテの声がした。
(マデルは魔法の鏡を使った)
魔法の鏡ってなんだ? ピエッチェがさりげなくクルテを見た。




