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優しいお兄様はもういない

作者: 伊織ライ

「セレナ、お前の見合いが決まったぞ」


 日課である剣の素振りをこなし、汗を流そうと自室へ戻る道すがら。執務室から出てきたお兄様は徐にそう告げた。

 先ほどまでは心地よく火照っていた身体から、急激に熱が引いていく。うなじを流れる汗など冷たくて震えそうなほどだ。


「──どうしてですか?! お父様は、結婚なんてまだ早いって……! ずっとうちにいれば良いって言ってくれていたのに……!」

「はぁ……父上はお前に甘いからな。そんなことを言っても、行き遅れの令嬢なんて周囲からは笑い者にされるんだぞ。父上とて騎士団の長だ、いつ何時どうなるかなど保障はない。俺ももう時期結婚するんだ、その時お前は俺の妻やいずれ生まれる子供と共にずっとこの家で暮らすのか? 俺は父上のようにお前を甘やかすつもりはないがな」

「そんな……! でも、だからって、急にお見合いだなんて……」

「安心しろ、お前が急に淑女らしくなれるだなんて思っていない。庭先で剣を振り回し、体術だなんだと床を転がり回る貴族令嬢などお前以外にどこを探してもいないだろうからな。お相手は、少々お転婆でも体力があるのは良いことだと言ってくれた商家の跡取り息子だ。お前は下手な貴族に嫁ぐよりも、裕福な平民の方が自由に暮らせて良いだろう。年もさほど離れていないし、頭の切れるなかなか精悍な好青年のようだぞ。これ以上ないほどに良い話だろう」


 お兄様は腕を組み、私を見下ろすようにしてそう言った。その眉はいつだって不機嫌そうに顰められ、表情は厳しい。お兄様は騎士ではないけれど、見た目で言えば戦場の鬼と恐れられるお父様に生き写しのそっくり加減なのだ。

 でも、私がそんな表情程度で怖気づくと思ったら大間違いである。


「嫌よ、ぜーったいに嫌! 私、お見合いなんてしませんからっ! お兄様なんて──大っ嫌いよっ!!」


 鍛錬後で動きやすい服を着ていたのも良かった。軽いステップで立ち塞がるお兄様の脇をすり抜け、いーッと歯を剥き出しながら玄関へ向かって駆け抜ける。

 どんなに顔が怖くても、お兄様は騎士ではない。訓練を詰んだ騎士達のような素早い動きは出来ないし、逃げ出そうとする犯人を咄嗟に捕縛する術など持ち合わせていないのだった。

 


「……大っ嫌い、か……」


 肩をしょぼんと下げ、トボトボと部屋に戻っていくお兄様がいたとか、いなかったとか……。


 ◇


 パタパタと靴音を鳴らして廊下を走る。途中すれ違う騎士達は私を見つけると、手を振ったり挨拶をしてくれたりする。みんな見た目は厳ついけれど、親切で優しくて大好きだ。


「セレナちゃん、そんなに急ぐとまたすっ転ぶぞ〜い!」

「もうっ、あれは子供の時の話でしょっ! 忘れてちょうだい!」

「はっはっは! そうだったそうだった! お爺は忘れっぽいからもう忘れたわい!」


 特に医局のお爺は幼い頃からの仲良しさんだ。お父様にくっついてたびたび騎士団に遊びに来ていた私を預かり、面倒をみてくれたのがお爺だったから。

 今お父様は長期の遠征中で地方に行ってしまっているけれど、もう私の顔は皆が知ってくれているから快く受け入れ通してくれるのだ。


 トントントントンっ!


 昂る気持ちに任せて扉を強く叩くと、どうぞと入室を許可する低い声が響いた。


「エド兄様〜っ!」


 叫びながら駆け寄ると、中にいた彼も立ち上がって私を迎えてくれる。勢いに任せて胸に飛び込めば、頭をポンと軽くひと撫でした後にベリッと剥がされてしまった。


「突然どうしたのですか? 団長はまだ遠征中ですが」

「うん、それは知ってる……。今日はエド兄様に会いに来たの」


 私の肩をがっしりと掴む手は硬くて大きい。騎士にしては細身の身体で、熊のような巨躯の父と並ぶと小柄に見えてしまうけれど、実際は厳しい訓練を積んだ正真正銘の騎士なのだから当たり前かもしれない。騎士団副団長であるエド兄様は長い銀髪に紺色の瞳をしており、繊細そうな銀縁の眼鏡が大変知的だ。大声で笑ったり叫んだりしながら肉を噛みちぎる団員たちの中、ひとり優雅に紅茶を傾け幼い私に焼き菓子を勧めてくれた彼に惹かれるのは当然のことではないだろうか。


「……エド兄様……!」


 もう一度その胸に抱きつこうとした私を一歩横にずれる動きで軽やかにかわし、エド兄様はスマートに私をソファーへ座らせた。

 ぷぅっと膨らんだ私の頬をひと撫でし、テーブルを挟んだ対面に腰掛ける。優しく細められた瞳が格好良くて、余計に憎らしかった。


「セレナももう年頃なのだから、そのような振る舞いをしてはいけませんよ」

「……エド兄様にしかしないもん」


 だって私が触れたいと思うのは、エド兄様だけなのだから。


 昔から、エド兄様が好きだった。確かに最初は恋情というよりは、憧れに近かったのだと思う。優しくて、穏やかで、知的で落ち着いていて。

 血の繋がった本当のお兄様からは、マナーや礼儀についていつも厳しく叱られていた記憶がある。私が幼い頃に母は亡くなっているから、将来私が困らないよう教えてくれていたのだと今は分かっているけれど……それでもガミガミ怒るお兄様に比べ、優しく頭を撫でてくれるエド兄様がとてつもなく光輝いて見えたのだ。

 

 このままでは、見知らぬ相手と結婚させられてしまう……。

 私が触れたいと思うのも、触れられたいと思うのもエド兄様だけだ。こうなったらもう、思いつく方法はひとつしかない。


 ──既成事実を作ろう!


 さっと立ち上がり、テーブルを回り込む。そのままの勢いでエド兄様の首に手を回し、引き寄せながら顔を近づけ口付けを──する、つもりだったのだけれど。

 ぐるりと世界が回った次の瞬間には、とさりと背中に柔らかな感触がぶつかっていた。何が起きたのか分からずぽかんと見上げたそこには、光を反射してきらりと輝く銀縁の眼鏡。


「……悪戯な子猫ですね」

「なんで……」


 これでも私は騎士団長の娘。幼い頃から遊びと称して体術は教え込まれていたし、力では敵わなくとも素早い身のこなしには自信があった。エド兄様はソファーに腰掛けていたし、そこに私が上から飛び込めば絶対に逃げられないはずだったのに……!

 何がどうなったのかも分からないまま体勢は逆転しており、情けなくソファーに転がされた私の対面には平然とした表情のエド兄様が腰掛けている。のろのろと身体を起こして座り直せば、いつも通り優しげな微笑みが返された。


「セレナは相変わらず真っ直ぐですね。子供の頃から全然変わっていない」


 憧れのお兄さんに会うたび、抱っこしてと強請ってしがみついていた。私はいまだにあの頃のまま、幼い少女としか見られていないのだ。

 心臓がぎゅうっと縮んだ気がした。分かってしまったからだ。大好きなエド兄様から、女性として全く相手にされていないということを。騎士団長(上司)の娘だから優しくして貰えるし、突然訪問してもこうして丁寧に対応してくれるけれど──ただ、それだけ。


「……お邪魔して、申し訳ありませんでした」

「セレナ……?」


 あんなに勢い込んでいた気持ちも風船が萎むようにぺちゃんこになってしまって、唯一の取り柄である元気な笑顔も見せられそうにない。私は乱れてしまったスカートの皺を手で軽く伸ばし、俯いたまま小さく膝を折るとそのまま部屋を後にした。

 帰りに再び会ったお爺は、様子のおかしい私に小さな飴を握らせてくれた。子供の頃から大好きだったものだ。それなのに今日はなんだか、甘いはずのそれが酷く苦く感じた。


 それからは大人しく家で淡々と時間を過ごした。お兄様が呼んだらしい仕立て屋が来て、新しいドレスを作ったり。ハンカチに刺繍をしたり、何故か張り切っている侍女たちに身体を磨かれたり。

 大好きな剣の素振りも体術の訓練もやる気が起きなくて、庭にも出ていない。少し日焼けしていた肌も真っ白に戻り、青ざめた顔には頬紅がいつもよりしっかりと差されていた。


「お嬢様、本日旦那様が遠征より戻られたそうですよ。後処理を済ませて、数日後にはこちらへ帰られるとのことです」

「まあ、お父様が……?」

「もしご都合が良いようでしたら、差し入れを持って行かれませんか? 旦那様もお嬢様のお顔を見られたらきっと喜ばれるでしょう」

「そう……そうね。お話ししたいこともあるし。そうするわ」


  あの日のことを思い出すと、正直まだ胸がモヤモヤしてしまうけれど。お父様に相談すれば、ひとまず今回のお見合いの話はなかったことにしてくれるかもしれない。

 そうやって時間を稼いで私がちゃんと大人の女性になったのだとアピールしていけば、エド兄様にも意識してもらえるかもしれないのだ。


 落ち込んでいたってどうしようもない。こぶしを握り、気合を入れてから私は騎士団へと向かうことにした。


 がたごとと揺れる馬車が一旦停まり、問答の後再び進み出す。ひとつ目の門を越えたのだろう。お父様が所属する騎士団は、王城内に詰所や訓練場などの施設を構えている。そこへ辿り着くまでには、いくつかの門を通り抜ける必要があるのだ。

 幼い頃より通い馴れた道だから、目を閉じていても窓から見える光景を思い浮かべることが出来る。けれどなんだか今日は、そんな景色をちゃんと目に焼き付けておきたいと思った。もし──結婚したら。もう、ここには来られないかもしれないから。

 城の庭師たちが整えた美しい庭園には、今が盛りの花々が咲き誇っている。いつもは通過するばかりでちゃんと見ることもなかったけれど、あの遊歩道をゆっくり歩きながら花々を愛でるのは確かに楽しいかもしれない。願わくはその隣に、望む人がいてくれたら──。

 そう、諦め悪く思い浮かべてしまった罰なのだろうか。


 美しい庭園を歩くふたりの人影に、私の視線は釘付けにされてしまった。

 身体に沿った騎士服をかっちりと着こなし、光を浴びて輝く銀髪は編んで肩に流されている。銀縁の眼鏡の奥の瞳はきっと紺色だ。差し出された腕がいつもより逞しく見えるのは、その腕に掴まっている女性が一際細身で華奢だからかもしれない。

 何事かの会話を交わし、微笑み合い、ゆったりと歩く男女はどう見てもお似合いだった。見知らぬ女性が見せる、余裕のある優雅な仕草は淑女の鏡と言っても良いほどだ。私がどれほど練習したって、あんなに素敵な女性にはなれそうもない。そしてエド兄様の大人っぽい笑顔も、私に見せてくれるものとは大違いだ。やれやれと困ったように微笑むエド兄様は、もしかすると上司の我儘な娘に辟易していたのではないだろうか……?


 たとえ、今回のお見合いがなかったことになったとしても。

 私とエド兄様では、そもそも釣り合っていなかったのだ。


 大好きなお父様にくっついて、いつも騎士団の訓練を見学していた。私は母が亡くなった後、夜になると不安で泣くことが多かったのだそうだ。けれど日中外に出てぴょんぴょん跳ね回り、思う存分身体を動かせば疲れでぐっすり眠ることが出来た。そんな理由もあったから、父も騎士団の皆も、私を受け入れて可愛がってくれたのだと思う。

 物心ついてからは自分でも見よう見まねで木剣を振り、体術も習うようになった。そんな私を面白がって、新人騎士のように指導をしてくれる者も少なくなかったのだ。父の遺伝子もあるし、運動神経がよかったのだろう。男の子よりもずっと身体を動かすのが得意で、喧嘩をしても私の方が強かったからか同年代の友達はできなかった。思春期の男の子たちからすれば、小柄な少女に転がされるのは面白くなかったのだろう。


『女のくせに剣を持つなんておかしい!』

『女のくせに調子に乗るなよ!』


 そんな風に言われて泣いていた私に、エド兄様は膝をついて視線を合わせて優しく手を握ってくれた。


 『セレナは可愛らしいから、自分を守る術を身につけるのはとても良いことだね』


 だからおかしくなんてないし、思う通りに生きたらいいんだよ、と。


 あれからずっと好きだった。いつか大きくなったら、エド兄様のお嫁さんになりたいと願っていた。

 エド兄様もずっと結婚する様子がなかったし、当たり前のように叶うと思っていたけれど……。

 瞬きをした瞬間に、ポロリと一粒涙がこぼれ落ちた。ギュッと唇を噛み締める。

 彼でないならば、もう誰だって同じことだ。お見合いでもなんでも受けて、もうここへは来ない方がいい。その方がきっと、邪魔をせずに済むだろうから。

 御者に予定の変更を告げ、行き先を変更してもらう。お父様は数日後には家にお帰りになるだろうから、その時に挨拶すれば良いだろう。

 今度は窓の外を眺めることもせず、私はひたすら目を閉じて揺れる車内をやり過ごすのだった。


 ◇


「……セレナ?」


 不自然な動きで行き先を変え、引き返していく馬車には見覚えがあった。騎士団長の家の紋、可愛らしい造りのそれはいつもセレナが使っていたものだ。

 突然執務室を訪ねてきたと思えば、いつにも増して密着してきたり抱きついてこようとしたセレナ。しまいには膝の上に乗り掛かり、その可愛らしい唇が触れそうな位置まで迫って来ていたあの瞬間は息が止まるかと思ったものだ。

 なんとかかわしてやり過ごしたものの、あれからセレナはすっかり顔を見せなくなってしまった。対応が不味かったのだろうか。とはいえ、幼い頃から可愛がっている上司の娘に手を出すなどあってはならないことだろう。セレナのファンの団員たちになんやかんやと文句を言われるのも鬱陶しいが、誰よりセレナのことを心配しているのは自分だと思う。

 今も本当なら後を追いかけて話を聞きたいところではあるが──。


「可愛らしいお嬢様が乗っていたみたいね。お知り合いかしら?」

「は、騎士団長の御息女セレナ嬢かと」


 隣国から迎えた賓客の奥方である彼女は、空いた時間に庭を散策していて迷ってしまったそうだ。上からの指示を受け彼女を保護し控室まで戻る途中である今は、勝手にこの場を離れることは出来なかった。


「まあ、あの騎士団長様の御息女があんなに可愛らしいだなんて」

「亡くなった奥方によく似ておられますから、団長も大層可愛がっておいでですよ」

「まあ……可愛がっているのは団長だけではなさそうですけれど? ……ふふ、よそ者の私が口を出すのも無粋ですわね」


 何やら意味ありげにふふふと笑う彼女は、自国で若い独身貴族たちの()()()()()とやらを行っているらしい。私の勘によればアリ寄りのアリね、などと呟かれた言葉の意味はついぞ分からないままであった。


 問題なくご婦人を控室まで送り届け、その足で団長室へ向かう。

 遠征帰りの団長は髭も伸びきっており、山ほどある書類を前に苛立つ表情はまるで野生の熊のようだ。


「おう、エドワードか。ちょうど良いところに来たな。明日は休みにしておいてくれよ」

「は? 何をふざけたことを言っているんですか。遠征関連の報告書を早急に上げなければならないのですから、無理に決まっているでしょう」

「そこんところをちょちょっとお前がなんとかしてくれたら良いだろうが」

「私は留守番で遠征に行ってもいないのに、なんとかできるはずがないでしょう。何よりこうなることが分かっていたから、途中経過を軽くでもまとめておくようにと言っておいたのに……」


 だが、それは、とモゴモゴ言い訳を重ねる団長は癖のある栗色の髪をくしゃりとかき混ぜた。それを見て改めて、セレナはこの方の娘なのだなと実感してしまう。顔立ちこそ亡き奥方に似て可愛らしいセレナだけれど、色味でいえば父である団長にそっくりなのだから。


「……何か気掛かりなことがおありなのですか?」


 憔悴した表情で副団長室を後にしたセレナ。そして先ほどは、不自然な動きで馬車を引き返させていた。もしやセレナの身に何かが起きていたのだとしたら……。


「いやな、明日は(セレナ)の見合いだとか言うんだよ。俺がいない間に息子(イーサン)の奴が勝手に話をつけてきたようで……セレナはずっと俺の手元においてヨシヨシしてやるつもりだったのに……っ!」

「……セレナが、見合い?」


 全身の血液がカッと頭にのぼるような感覚がした。その後、行き場をなくしたそれらが腹の底でぐるぐると回り内蔵を掻き回している気がする。

 これは一体何なのだろうか。妹のように可愛がっていた少女が見合いをすることが心配、なのだろうか。昔から真っ直ぐな瞳でこちらを見上げ、にぱっと明るい笑顔で『エド兄さまがだいすき』と言ってくれていたセレナが。『エド兄様と結婚したい』と腕にしがみついてきたセレナが。私の膝に乗り上げ、首に細い腕を回し、甘い香りを漂わせながら口付けを強請ったセレナが──私ではない他の誰かと、結婚するかもしれないのだ。


「……それは、許せそうにありませんね」

「だろう!? だから明日は休みにしてくれよ、会場に乗り込んで──」

「いえ、団長は予定通り書類を片付けて下さい。セレナの所には、私が行きますので」


 なんでだよ、と叫び散らす団長をそのままにして部屋を出る。あれほど言ったのに書類仕事を後回しにした団長が悪いのだ。私の仕事は既に目処が付いているし、明日の分もこれから処理すれば問題なく片付けられるだろう。

 勤怠の調整をしているのが自分で良かったと、今日ほど実感した日はなかったと思う。


 ◇


 瀕死の様相で報告書を書いている団長から聞き出した見合いの会場は、最近街で若い女性たちに人気の小洒落たカフェであった。セレナは活発で身体を動かすのが好きだけれども、同じくらいに甘いものが好きだ。それに若い女性らしく流行りの可愛い小物なんかも好きだから、この選択は悔しいことに間違っていないと思う。

 あれから急ぎ集めた情報によると、見合いの相手は新進気鋭の商家の息子なのだそうだ。おそらくは実家の商売上、貴族との繋がりを欲してこの話を進めたのだろう。貴族然とした気張った形ではなく気軽な雰囲気も卒がなく、流石は時勢に詳しい商売人だなと歯噛みする思いがした。


「──すっごく素敵です! そういうの憧れちゃうな……!」

「そうですか? セレナ様にそう言っていただけると、僕も自信が出ますね」

「ええ、絶対に結婚したら幸せになれると思います!」


 到着したカフェの前庭に面したオープンテラス。目に飛び込んできたセレナは見たことのない美しいドレスを身に纏い、対面にいる愛想の良い青年の手を取ってぶんぶんと振っている所であった。

 ──私は、間に合わなかったのか? 己の気持ちにも気付けぬ朴念仁であったばかりに……?

 だがもう私は気付いてしまったのだ。たとえセレナの気持ちが私から離れていってしまったのだとしても、知らなかった頃にはもう戻れない。彼女が私を慕ってくれていた時間の分だけ、これからは私が返そう。だから、どうか──。


 ◇


 私は今日、お兄様に無理やり組まれたお見合いに来ていた。城の庭園で偶然見かけたエド兄様と見知らぬ女性との逢瀬の場面ですっかり意気消沈してしまい、お見合いの中止をお父様に頼み込む気力もなく当日を迎えてしまったのである。

 お相手には、誠心誠意謝ろうと思っていた。エド兄様でないなら誰だって一緒だと一時は考えたものの、そんな気持ちで結婚するなど失礼だろうと気付いたからだ。お兄様も実際お見合い会場に出向さえすれば、一応は許してくれるだろう。

 新しく仕立てたドレスはレースが美しく、とても軽くて着心地が良い。この生地が実は今回お会いする商家の新商品であるらしく、この先貴族令嬢向けのドレスに推していく予定なのだそうだ。衣装にそれほどこだわりのない私でさえその素晴らしさが分かる一品なのだから、きっと瞬く間に社交界の話題をさらうことになるだろう。

 いいお話……なのだとは、分かっている。素敵なカフェで私を待っていてくれたお相手は、三歳年上の朗らかな笑顔が印象的な方だった。見目も悪くないどころか、私には勿体無いくらいの好青年。すらりとしていて身長も高く、話上手で聞き上手。彼の手腕があるからこそ、ご実家の商家は今破竹の勢いで事業を拡大しているのかもしれない。

 挨拶を交わし、美味しい紅茶とケーキを頂きながら会話を重ねる。たった数十分のそんな時間で、私には思い人がいるため結婚する気はないのだということまで赤裸々に話してしまうことになったのだから。


「ああ、それはなんというか……僕にとっても大変幸運なことでした」

「と言いますと?」

「実は僕の方も同じなのです。両親はこのレースを売り込むために今こそ貴族との繋がりを、と張り切ってしまっているのですがね。僕は……このレースを編んでくれている幼馴染と、以前から想いを交わしておりました。ですから今回のお相手には謝罪して、お話をなかったことにしてはいただけないかとお願いするつもりだったのです」


 本当に申し訳ありません、と頭を下げる姿に慌ててしまう。私も同じことを考えていたのだから、謝る必要など全くないからだ。

 互いに状況を理解した後は、より気兼ねなくお茶会を楽しむことができた。彼と幼馴染の女性の出会いや、好きになるきっかけを聞いたり。その後の二人の温かな交流の様子は互いへの信頼感が滲み出ており、私の憧れのカップル像そのままではないかと興奮してしまった。


「それではこの後彼女にプロポーズされるのですね……?」

「ええ、これ以上両親が暴走して彼女を不安にさせてしまうのは嫌なので。僕がもっと早くはっきりさせるべきだったのですよ」

「わぁ、良いですね……! 場所や台詞はもうお決めになっているのですか?」

「ええ、最初にデートした公園に行こうと思っています。彼女の好きな花束を持ってね」

「──すっごく素敵です! そういうの憧れちゃうな……!」

「そうですか? セレナ様にそう言っていただけると、僕も自信が出ますね」

「ええ、絶対に結婚したら幸せになれると思います!」


 思わず彼の手を握り、ぶんぶんと上下に振り回してしまった。劇のような素敵なプロポーズはきっと、思い出に残る瞬間になることだろう。

 そんな私の手を、横から駆け込んできた誰かが握り込み、強く引き寄せられる。


「──えっ?!」


 息を乱し、額から汗を流しつつ私を胸に抱き込んでいたのは──


「……セレナっ!」

「えっ……エド兄様……?」


 いつだって冷静で、穏やかに微笑んでいたエド兄様が。こんなに慌てている姿など初めて目にするものであった。


「結婚なんて絶対に許さないよ? セレナはエド兄様と結婚するってずっと言ってたろう! 俺から離れるなんて、そんなこと絶対に許せるわけがない……!」


 ぎゅうっと抱きしめられた胸元は逞しく、ほんのりと湿って汗の匂いがする。ドキドキと脈打つ心臓の鼓動が聞こえ、私の頭は混乱するばかりだ。つい視線を彷徨かせてお見合い相手のご子息と目を合わせれば、彼は訳知り顔でにっこりと笑い返してくれた。多分、先ほど私が話した思う相手がこの方なのだと伝わってしまったことだろう。そんな私の様子を知ってかしらずか、エド兄様は余計に抱きしめる腕の力を強くする。


「──っ」

「ああ、痛かったか? すまない、セレナ。けれどセレナがよそ見をするから……」

「よそ見だなんて、でも、だって、エド兄様こそ私のことなんて全然相手にしていなかったのに……」

「ああ、私が悪かった。セレナのことは可愛い妹だと思い込もうとしていたんだ」

「子供だって、全然成長していないって、言った……」


 その大きな硬い手のひらが、私の頬をそっと撫でる。大事なものを慈しむように、激情に揺れる炎を瞳の奥に宿したままで。


「悪かったよ、セレナがずっとまっすぐに私を好きだと慕い、態度と言葉に表してくれていた事実に慢心していたのだと思う。大事な上司の愛娘であり、大切な妹だと思い込もうとしていたけれど……セレナが離れていくかもしれないと知って、いてもたってもいられなくなってしまったんだ」

「……でもっ、昨日お城の庭園ですっごい綺麗なお姉さんと一緒に歩いていたでしょう。エド兄様はああいう大人っぽい美人とお似合いだと思って──」

「ああ、だから引き返して帰ってしまったの? ごめんね、セレナ。あれは他国の要人に帯同してきたご夫人で、迷っていたところを保護しただけなんだ。仕事だったから抜けられなかったけれど、あの時もセレナを追いかけたくて堪らなかったんだよ。好きだ、セレナ。信じて欲しい……私が愛しているのはセレナだけなんだ」


 伝えられた言葉に歓喜が湧き上がり、身体の奥が震えてしまう。


「エド兄様……」

「もうそんな風に呼ばれても、優しい兄貴面はしてやれないかもしれない」

「じゃあ……副団長様?」

「ふっ……相変わらず悪戯な子猫だ。揶揄っているならこちらももう容赦しないからな?」

「え、と……旦那、様?」

「セレナ……!」


 耳も首も熱く火照っていて、赤くなってしまっていると思う。それらを見られないように、逞しい背中に腕を回してぎゅうっと強く抱きしめた。

 激しく高鳴る鼓動は、自分のものか、エド兄様のものだろうか。きっと──両方なのだと思う。自然と浮かんだ目尻の涙をエド兄様の胸元へぐりぐりと擦り付けてやれば、ふふッと楽しげな笑い声が聞こえた。


「セレナ様、良かったですね」

「──あっ、ハイ……!」

「ああ、君はまだそこにいたのですね。このような事情ですから、見合いの話はなかったということでよろしいですね?」

「ええ、もちろん」

「……? 随分物分かりのいいことですね?」

「ええ、そもそもセレナ様とお話をして、互いに結婚するつもりはなかったと確認したところでしたから」

「うん、そうなの。彼にはもう結婚を約束した幼馴染の彼女さんがいるんだって! すっごい素敵な恋の話もいっぱい聞いたの!」

「はぁ……そうだったのですね……。それは、何よりでした。そういうことであれば、ご両親が望んでいらっしゃる貴族とのパイプは私の方で段取りをつけましょう。幼馴染のお相手と、是非幸せになって下さいね」

「ありがたいことでございます」


 私を胸に抱いたまま、エド兄様は彼とガッチリ握手を交わしていた。仲良くなったのならば良いことだと思う。このレースは本当に素敵だし、仲良くなった相手のお家の商売がうまくいくなら私も嬉しいから。

 


 カフェで解散し、私はエド兄様の馬車で自宅へ帰った。いつもなら対面に座っていただろうけれど、今日はピタリと寄り添って隣同士に座っている。触れ合う身体がなんだかむず痒く、でもとても嬉しい。


「ただいま……!」

「おかえり」

「ああセレナ、父様はお前に会いたかったぞ…………て、なんでエドワードが一緒なんだよ?! ていうかなんで手まで繋いでいるんだっ離せっ、この、おいこら離せっ」


 玄関先まで迎えに出てきてくれたお兄様は、私たちの姿を見て苦笑を浮かべた。そして久しぶりに顔を合わせたお父様は、戦場の鬼と呼ばれる凶悪な怒りの表情を浮かべエド兄様に殴りかかっていた。私の手を離さず負担もかけないまま、ひらりひらりとお父様の攻撃をかわす姿はまるで蝶のように美しい。


「お見合い会場で出会いまして、お互いの想いを確認し合い、結婚の意思を固めたために許可を頂こうかと思いまして」

「──ハァっ? そんなこと──っ」

「うんっ、そうなの! お父様、お兄様。私、結婚するね! ずーっと大好きだったエド兄様と結婚できるの、すごく嬉しい……!」

「セ、セレナ……っ! くっ……セレナのこんな笑顔を見せられたら、父様は……何も言えんではないか……!」


 拳を握りしめたお父様は膝をつき、ぶるぶると震えながら涙を流している。騎士団長であるお父様をこんなふうにさせられるなんて、エド兄様は本当に凄い。格好いい。大好き。


「父上……。まあ、副団長が相手なら結婚してもしばしば会えるでしょうから、良いのではないですか。お転婆なセレナでも……彼ならきっと上手に面倒を見て下さるでしょうしね」

「セレナ、これからも騎士団の父様の執務室に遊びに来てくれるな? ちょっとでも嫌なことをされたら、この家に帰って来るのだぞ? 分かったな?」

「ハイっ、いっぱい遊びに行きますね! エド兄様の執務室に行った後でもよければ!」

「ああっ、セレナ……!」


 こうして私とエド兄様の婚約は結ばれ、その半年後には無事結婚することができたのだった。


「あのね、エド様、お願いがあるんだけど……」

「なんですか? セレナのお願いならばなんだって叶えて差し上げましょう」

「あの時、体術で全然叶わなかったのが実は結構悔しかったの。だから、もう一回挑戦させてくれないかな?」

「……ええ、もちろん、いくらでも。その代わり……セレナの訓練が終わった後で、私の体術の訓練にも付き合ってもらってもいいですか?」

「えっ、エド様の訓練? やりたいやりたい! いっぱい訓練したらきっと私もいつか、エド様に勝てる日が来るかもしれないもんねっ!」

「ふふっ……。私はもうとっくの前から、セレナには負けっぱなしですけれどね。さあ、行きましょう? 私の可愛い奥さん」

「ハイっ、旦那様っ!」 


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― 新着の感想 ―
腹黒インテリ眼鏡さま最高です! 体術の訓練が、本当の意味でタイトル回収になりそうだと思ってしまいました笑
優しさから溺愛♡ インテリ眼鏡キャラだからこそ、「悪戯な子猫ですね」というセリフが映えるのです…! 体術の特訓が意味深に聞こえてしまった私は、もう一周させていただきます!
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