ギャンブル大将への道 ど素人による私的博打論
私はギャンブル好きではないが、分相応にギャンブルを楽しんでいる方々を非難する気は毛頭ない。高校時代に学年でトップだった同級生は麻雀狂で有名だったが、現役で東大に合格した。一方、全国的にも有名な福岡県の最難関校に進学した後輩は、寮の麻雀の元締めになったが、学業成績がふるわなかったため、寮にはびこる悪習の一掃を目論んだ学校側から、半強制的に諸悪の元凶に仕立て上げられたうえで、自主退学に追い込まれた。もし二人が麻雀対決したら、同級生が圧勝していたと思う。なぜなら・・・
昭和の昔、香港で有名な喜劇役者ホイ三兄弟が演じる『ミスター・ブー』というコメディ映画のシリーズが製作された。どれもが一級品のコメディで日本でもヒットしたが、その中で一番印象深かったのが、第三作の『ミスター・ブー、ギャンブル大将』(香港ではこれが第一作)だった。
映画を観た時、まだ中学生だった私は、中国人がでかい牌をガチン、ガチンと鳴らしながら麻雀を打つ姿に妙な格好良さを覚え、高校生になってからは下宿していた同級生の部屋にたむろして麻雀を打つのが日課のようになってしまった。
今となっては時効だが、昭和の麻雀は学生同士でもお金を賭けるのは当たり前だったので、高校生とはいえ、勝っても負けても百円から千円程度に納まるくらいのレートで楽しんでいた。どちらかというと金を稼ぐためではなく、背伸びして紫煙の中で酒を酌み交わしながら大人の世界を味わいたいという他愛のない理由で、コミュニケーションの一環としてやっていたように思う。
金銭への色気がなければこそ、大車輪や流し満貫といった荒唐無稽な手を狙ったりといった冒険もできて、これはこれで遊びとして楽しめた。だからこそ、たまに大勝ちした者は、次回に酒や煙草を差し入れするのが慣習化し、恨みっこなしの麻雀ライフを謳歌できた。おかげで麻雀の腕はさほど上がらず、大学生になって雀荘などに行くようになると、手出しの方が多くなった。
それほど極めたいという思いもなかったので、初心者や普通の同級生相手ならそこそこ勝つが、上手い相手、年季の入った年上には負けるの繰り返しで、場代を含めるとトータルでは赤字だが、ゲーセンで金を落とすよりは楽しめる遊びだったので後悔はない。
社会人になってからも「中国語同好会」の名目で、職場の同僚や先輩と週に一回くらいは午前様の麻雀生活を続けていたが、ある年齢層以下からは、麻雀をする者が減ってゆき、平成の中頃からはメンバーを集まらないことを理由に足を洗ってしまった。
私がそれほど麻雀にはまらなかった理由は、麻雀がめちゃくちゃに強く、場代を払ってもトータルで黒字という父親から、上には上がいることを痛感させられていたからだ。
ギャンブルというのは学業成績と同じで、努力しても勝てないほどの素質を持った者がいることを早く悟れば、少額でちょっとしたスリルを楽しむ宝くじ程度の庶民的趣味で収まるかもしれないし、一部の老人ホームでボケ防止の遊戯としてやっているようなノリかコミュニケーションツールと割り切れば、仕事や生活に支障をきたすほどエスカレートすることはないだろう。
それでもやめられないほどギャンブルが好きな方は、努力するしかない。ただし、幾ら真面目に勉強しても、東大、京大、医学部には才能がなければ無理なのと同じく、博才(ばくさい=博打の才能)がなければ無駄な努力に終わる可能性の方が高い。
私はカードなら一番下を一番上に持ってきたり、その逆の操作をするエレベーターはできるし、特定の相手にエースを三枚配ったりすることくらいは造作ない。こんな素人マジシャンくらいの技は訓練次第で可能なので、仲間内のポーカーくらいでは使ったことはある。ただし、自分が勝つと勘繰られるので、あらかじめ打ち合わせをした仲間に大勝ちさせ、後で山分けという寸法だ。
それでもこんな素人芸は、見破れる人には見破れるので、ちょっと気に入らない奴をおちょくる程度のお遊びに過ぎない。逆にこんな稚拙な小細工も見破れないで、見知らぬ相手とポーカーやブラックジャックをやるのは危険度が高すぎる。せめて、お守りくらいのつもりで、ユーチューブで何種類かのカードマジックを学んでからカジノに繰り出すのが常道かもしれない。
運試しのスリルを味わうこと自体は、程度の差はあるにせよ、全くそれを否定する気はないが、イカサマでカモられているのも気付かずに熱中しているのは、当たりの入っていない籤に夢を託して延々と引き続けているのと同じくらいの愚行である。運試しはせめてフェアプレイが担保されている状態で楽しんで欲しいものだ。
大学時代から、私の友人、知り合いには不思議とギャンブルが強い人が多く、勝つためには努力が伴うという共通認識を持っていたため、バイクに金と時間をかけたかった私にとって、彼らに勝つためにギャンブルを学んで極めようなどという気持ちは全く湧かなかった。以下は私が友人たちから聞かされた勝つための奥義の一部である。そこまでは無理、と思う方は私と同様に、ギャンブルは動かす金の額ではなく、少額の投資で楽しい時間を共有する手段と割り切っていただけることを期待したい。
まず麻雀だが、最重要項目は対局する三人の相手がどんな手を作っているか、推測する能力である。裏を返せば、自分の手を推測されないことも重要なので、ツモった牌は捨牌以外は無造作に並べる必要がある。
そもそも麻雀牌には漢字や絵の牌があり、それらは上下がある。ちゃんと並べた方が見やすいことも確かだが、ツモった牌の上下を直しているところを見ている他の三人は、それが上下のある牌であると認識する。それを逆手に取るのも手かもしれないが、徹夜麻雀などの長丁場になると、毎回意識的にトラップを仕掛けしながらやるのは辛いから、結局のところルーティーンワークに戻るものだ(ただし終始あの手この手のトラップを繰り出すだけの強靭な体力と集中力の持ち主が少なからずいることも事実である)。
また牌を並べ変えたりする行為も、刻子や順子ができたことが悟られやすく、下手に警戒されると、せっかくの満貫狙いが、ピンフや鳴きのチャンタで阻止されたり、自分の手を崩してでもその場は流そうとされることもある。
しかし、上下が逆さの牌もそのままにして十三枚の牌が完全にばらばらに配置されている状態でも、頭の中には綺麗に並べたところが浮かばなくてはならないとなると、相当な記憶力が必要である。自分の牌だけならまだしも、同時進行で対局中の三名がどんな手を作っているのか想像しながらとなると、暗記物の教科が苦手な人にはまず無理だろう。
さらに上級者は場の捨牌も俯瞰しながらプレーしているため、自分がテンパりそうになった時、待ち牌が出る確率まで瞬時に計算してしまうのだ。これはポーカーも同じで、強い人ほど直感より統計を重要視する。例えば二、五、八萬の三面待ちでも、誰かが萬牌を集めている場合や、捨牌の数によっては、和了る確率はかなり上下動するため、場合によっては二、五、八の萬のいずれかを切り、字牌で単騎待ちを選ぶことがあるかもしれない。結果、機をてらった待ちが効を奏することもあるが、もし厳密に和了る確率を計算して、三面待ちが15%、単騎待ちが10%だったとしたら、その時はたまたま単騎を読めなかった誰かが引っかかってくれても、何百回も同じようなケースを経験すれば、統計の正しさが証明されることは間違いない。
だからこそ、麻雀の強者は1%でも上がる確率が高い手を選ぶのだ。1%の差でも回数をこなせば、大きな差を生むからだ。
とはいえ、麻雀のツモりはスピーディーに進んでゆくものだから、その最中に考え込めば、和了が近いと白状しているようなものだ。したがって立直をかけない場合は、他の三名と同じペースで淡々とプレーしながら、瞬時に確率計算して待ち牌を決定しなければならないわけだから、当然そろばんの暗算の達人並みの計算力が要求される。
三桁の掛け算、割り算は常人には天才的な能力に見えるかもしれないが、どこのそろばん教室にもそのくらいの技術を持った小中学生は何人かいるもので、このくらいであれば努力次第で身につけることができる。後はやるかやらないかの問題で、やらなければ勝率が下がるだけのことだ。
ここまでは正攻法の技巧だが、相手によってはイカサマを使う者もいる。手積みで、自分が積んだ山の牌の位置を覚えておくことくらいは上級者には当たり前でも、意図的に牌を積むのはイカサマである。
自動卓なら積み込みまでは防げるが、牌の入れ替えまでは気付かなければおしまいである。これは正規の順番で牌をつかんだ瞬間に盲牌し(指先の感覚だけで点字を読むように牌の種類を当てること)、要らない牌であれば、自分の目の前の山に積まれた他の牌と入れ替えるという荒技である。
下手がやるとカチンと音がしてばれるが、達人は手品師のような手さばきを見せるという。これなどは、自分に技術があればこそ、他者の入れ替えを警戒し、見破ることも可能だが、凡人の動体視力では気付かないので、注意を要する。
スポーツ推薦で私と同じ大学に入った後輩は、勉強はからきしで就職浪人の憂き目に遭ったにもかかわらず、パチンコと麻雀は他人からお金を取って教えるくらいの腕前だったので、しばらくはギャンブラーのような生活をしていた。
しかし、平均月収30万円、多い時で60万円という生活でも、結婚して幸せな家庭を築くには、世間体が悪すぎて、社会的評価も単なる遊び人の域を出ない。
そこで彼はギャンブル人生を捨てて、真面目に働くべきだ思い直し、私に今から公務員採用試験の勉強が間に合うかどうか相談してきた。
私は彼の麻雀の実力、特に暗記力と暗算力が常人離れしていることを熟知していたので、「お前なら絶対いける」と太鼓判を押し、学生時代は苦手としていた数学中心に採用試験用の問題集に取り組ませた。すると、あっという間に難解な数式も短時間で解けるようになり(電卓不要の頭なので)、ものの半年で地方公務員試験に合格した。
公務員になったらなったで、接待麻雀で実力を発揮し、接待相手からも気にいられる存在になったと聞いた。それもそのはず、積み込みや牌の入れ替えが出来るほど手先が器用なので、卓を囲む時は、自分の上司に負けさせて接待相手を勝たせ、自分は手出しなしのトントンという妙技も朝飯前なのだ。
プータロー時代、金に窮している時は高額レートで筋者相手の対局も辞さなかったそうだが、そういうヤバイ面子の時は、みんな牌をカチカチと鳴らしながら平気でイカサマするので、自分も存分に腕前を披露できたようだ。ただし、馬鹿ヅキしている人だけはどうにもならず、いかなる手段を使っても勝てなかった。元々、軍資金ゼロで雀荘に行くクチだったので、青天井ルールですってんてんにされたその時は、いきなり雀荘の二階の窓から路上に飛び降りてダッシュで逃げ、事なきを得ている。
それほどヤバイ橋を渡っていた後輩も、公務員という安定した職業に就けたおかげで、ギャンブルからは足を洗い、今では趣味で楽しんでいるというから、うまく切り替えられてよかったと思う。やはり、麻雀の強さが数学の能力に比例することがわかり、自分は実は頭が良いのだと悟ったことが、人生の表街道でも十分にやってゆけるという自信につながったものと推察する。
何故か競馬狂は周囲に全くいないにもかかわらず、競艇好きは親友も含めて少なからずいる。というわけで、次は競艇(格好良くいうなら、ボートレース)について語ることにする。
競艇場というのは競馬場ほども洗練されておらず、観客のガラも悪いという印象が強い。その分、下町育ちの私には空気が合うというのか、こういう喧騒は嫌いではない。
福岡競艇場は市の中心からのアクセスもいいし、食堂も安くて美味いので、近頃スイーツ一品だけでもびっくり価格になったカフェや喫茶店で暇を潰すくらいなら、少額の投資ならリスクも少なく、食費と交通費くらいは浮く競艇もありかと思う。そうは言っても私は博才がなく、勝ち目はないので、よほど誘われない限り自分から出かけて行くことはありえないが。
親友は博打の勘の鋭さと勝負度胸があり、大勝ちはしないまでも大人の小遣い稼ぎになるくらいは強い。しかし驚くべきは彼の師匠格に当たる方で、勝つべくして勝つという“プロ”の域だった。
競艇はエンジンの構造理解から、選手のプライベートな人間関係まであらゆるデータから勝つ艇を推測する情報戦の趣きがある。スポーツ新聞に選手がガスケットを交換しただの、キャブレターの調子がどうだのと細かい情報が出ているが、エンジンの素人には意味不明である。しかし、これだけの情報量では本番でのエンジンがどのくらい回るのかははっきりしない。
ところが師匠は、エンジンの出力を測るための小さな機械を持っていて、練習中の慣らしの段階からスケールのようなものがついた覗き窓ごしに瞬間最高速度をチェックしていたのだ。実戦では他艇の起こした波の影響を受けたり、カーブで膨らんだりと条件が異なるので、エンジン性能だけで艇の優劣は判断できないが、やはり麻雀と同じく確率の問題で、何日も前から現地入りして各艇のエンジンの具合をつぶさにチェックした結果として購入した舟券は当たりやすいのだという。
一方、親友は細かい人間関係も参考にしていて、長老格あるいは引退間近の地元の大物が出艇するレースの予想を目の前で的中させたこともある。普通、上り調子で賞金ランキング上位の若者と下り坂の年配者が同じ組なら、若い方が勝つと思いきや、予選に関しては賞金額が小さいので、プライベートで距離の近い者同士なら、後輩が先輩を立てることもあり、ましてやファンの多い地元主催のレースなら御祝儀代わりに手を抜くというのが、彼独自の勝負予想だった。
八百長とまではゆかないものの、老い先短い先輩に華を持たせたいと思うのは人間として自然な心情であろう。少なくともそこまでがむしゃらに勝利にこだわらなければ、番狂わせが起こっても不思議ではない。
これが馬なら本能的に駆けるため、旗手の意思通りの結果が伴うとは限らないが、機械なら誰からも手抜きを勘繰られることもなく、思いを果たすことも可能である。
場合によっては交際中の男女が同じ組ということもあるだろうし、親友同士で片方が借金を抱えていることだってあるかもしれない。したがってスパイ顔負けの情報戦を繰り広げれば、勝率も変わってくると思われる。ただし、結婚を控えた相方の過去の交際歴を興信所に調べさせるのが、ゲス行為と思う人には、賭け事としての楽しみが欠落してしまい、単なる小銭稼ぎの手段になってしまう可能性もある。
何日もホテルに泊まって旅行気分で競艇を楽しんでいるという師匠は、大きな大会単位で1回当たりの経費が50万円と言っていた。このくらいつぎ込めば、大勝ちして500万円、通常は宿泊費と交通費、外食費でほぼトントンらしいので、客観的には金のかからない旅行趣味を楽しんでいるようにも見える。
少なくとも競艇の賞金で大きな買い物というのは聞いたことがないから、本業が中心で、競艇は趣味の延長として楽しんでいるに過ぎない。
最後にパチスロだが、パチプロは他大学の知り合いに二人ほどいて、先輩の方は台ごとのデータを取って統計に基づく乱数票を作っていた。乱数票といっても、この並びになると近々にスリーセブンになる確率が高いとか、低いとかのレベルのもので、素人よりはパチスロに詳しいが、それだけで食べてゆけるというわけではなかった。それでもEランク大学の学生とは思えぬほどの複雑な数式を扱っており、この能力を勉強に回せば凄いのに、と本気で思ったものだ。
後輩の方も乱数票が基本だったが、グループで動くのが特徴だった。つまり、一人だと運に結構左右されるのに対して、同じ力量の仲間が五人から十人で組んで、トータルの儲けを山分けすれば、必ずプラスになるという考えによるものだ。それだと平均月収20万は堅いといっていたが、それなりの年齢になると日がな一日パチンコ店で時間を潰してくれる仲間を集めること自体が難しくなってきたらしく、三十歳を前に就職の相談を受けた。
年齢的に一般企業は無理なので、大学の後輩と同じく公務員採用試験を進めてみたところ、元々理系だったこともあって、得点源となる数学で荒稼ぎし、年齢制限ぎりぎりでこちらも地方公務員の公安職に滑り込んだ。
こちらはパチプロ集団の一員だったため、仲間がいなければ勝てないという条件が満たせないという理由で、必然的にパチスロから卒業できたが、そもそも金を稼ぐ目的でやっていただけで、好きで楽しんでいたわけではなかったそうだ。確かにいくら勝つための努力といっても、クオリティが高くなればなるほどそこに精神的ストレスも加わってくるから、純粋にギャンブルを楽しむという感覚からは外れてゆくのだろう。
というわけで、ギャンブルは負けると悔しいが、たまに勝つ喜びが癖になってやめられない方は、いっそのこと本気でマイスターを目指すことをお奨めしたい。非合法でないレベルでも相当な学習量を要するから、途中でくじけてギャンブルが嫌になればそれはそれで幸いだし、才能に目覚めて勝ち組に入れば、少なくとも借金で身を持ち崩すような悲劇は回避できるかもしれない。
たかが賭け事と言うなかれ、勝つにはそれだけの理由もあるのだ。ただし、運にロマンを感じる方は、ここまでの話の内容は全て忘れて、酒は百薬の長くらいのノリで、ギャンブルは「運命の女神」に対する推し活動と割り切れれば、ストレス解消の一助にはなるかもしれない。
中・高生の頃、祖父母の家で従兄弟たちとポーカー、ブラックジャックをやっていたことを思い出す。旧家ということもあって、戦前の旧札が結構残っていたので、それをチップにしてやると札束が飛び交ってとても盛り上がった。札といっても五十銭札と一円札ばかりだが、使い古した札は厚みがあるから、プラスティックのポーカーチップとは違い、十枚くらい揃うと儲かった気分になる。最後に清算する時も額面通りだから、勝ち負けの差は五十円程度だった。その程度の金額でもやり方次第で楽しめるのだ。