【短編小説】徳貯金
アスファルトの所々に小さな池が出来上がる雨の日。傘で半分隠れた男の視界に、ひとつの紙袋が入り込んだ。
誰かが捨てていったのか、飛ばされてきたのか。その紙袋は水を吸ってふやけ、そのうえひどく汚れている。道にゴミが落ちていても、多くの人は気まずい知人を見つけたように目を逸らし、気づかないふりをするだろう。しかし男は違った。目に留まったゴミは真っ先に拾いに行った。落ちているゴミが大きければ大きいほど、また汚れているほど、男は喜んでそれを拾うのだ。
『そんなにゴミを集めたいなら、ごみ収集の仕事にでも就いたらどうだ』と馬鹿されても、「それでは意味がないのです」と男は真剣だった。
そもそも男はゴミ拾いが好きなわけではない。
拾うのは"たまたま目に留まったゴミだけ"という彼なりのルールがある。
そんなこと知らない人々の目には、拾ったり拾わなかったりする男の行動は奇妙にうつった。彼の同僚も同じである。見かねた同僚は男の行動に苦言を呈した。
「おい、お前。さすがに吸い殻はやめておけよ。誰が口をつけたか分からないんだぞ」
男は摘んだ吸い殻を同僚の顔の前に差し出した。
『君にはこれがゴミに見えるか』
「あぁ、紛れもないゴミだな」
同僚は即座に答え、男はにやりと口角を上げた。
「これはゴミじゃない。こいつを拾うと"徳"が返ってくるのさ」
そう言って道端のゴミ箱に吸い殻を捨てた。同僚は心配そうに男を見つめた。
『宗教にでも勧誘されたか』
「いいや。定期的にカタコトのにぃちゃんが訪問してくるが、丁寧にお断りしているよ。私から言わせてもらえば、君のようにちまちま薬局のポイントを貯めている方が嫌気がさすがな」
『意外と貯まるぞ。あと少しでドライヤーと交換できる』
「君がポイントを貯めているのと同じで、私は徳の貯金をしているのだ」
『つまり、お前の善行の積み重ねにより、いずれ幸福が訪れると。しかしそのような下心ありきで善い行いをしても、神様はお見通しだと思うがな』
「神様は、君のように心が狭いお方ではないさ」
男が徳の貯金を始めて3ヶ月後ほど経っても、これといった幸福が訪れる様子はなかった。それどころか、男の周りではこの頃、奇妙な現象が起き始めた。
「またか」
名刺を受け取り、男はつぶやいた。
『はい?』
「あ、いえいえ。こちらの話です。本日はお時間をいただきありがとうございます」
男は受け取った名刺を、名刺入れの上に置いた。
"徳間 和夫"
また"徳"のつく苗字だ。今週だけで5人目だぞ。と、男は心の中で呟いた。
ここ最近、新しく出会った人の名前には必ず"徳"の文字が入っている。それだけではない。新しい得意先の社名にも"徳"が入っているのだ。
まさに、積み上げた"徳"が返ってきているのである。
神様の仕業だろうと男は考えた。あまりにひどい待遇だ。美女と出会うとか、その美女と付き合うことになるとか、その美女と結婚するとかでないと労働力に見合わない低賃金である。「3ヶ月も休まずにゴミ拾いをしたんだ!もっとましな徳を返してくれ!」と憤慨する男だったが、徳の返済は終わらなかった。
自宅の前に新しくできた居酒屋の名前も"徳"
本屋でたまたま手に取った小説の作者にも"徳"の文字が入っていた。
久しぶりに行った歯医者の受付は"徳永さん"という女性に代わっていた。
しばらく経った頃、男の周りは徳の文字で溢れかえった。しかしそれ以外に特別なことが起こる様子はなかった。
「なんなんだよまったく」
男は、長らくテーブルに置かれた徳まみれのチラシの束を掴み取ると、怒りにまかせ勢いよく破り捨てた。
ある日の仕事終わり。
男が会社を出ると、誰かが後ろから男の名前を呼んだ。
『おつかれ。久しぶりだな。どうだ、このまま一杯』
「おう、おつかれ。すまないが今日はそんな気分ではない」
『最近もゴミ拾いやってるのか?あれから徳はやってきたか?』
嬉しそうに茶化す同僚に、男はしぶしぶ結果を伝えた。
「あぁ、あれ以降100人ばかりの徳のつく人物と出会ったよ。新しい得意先も、近くにできる店にも全部"徳"がついている。徳が集まる能力を身につけた。もうこりごりだ」
『それは、すごい数の徳が返ってきたんだな』
「私が思い描いていた徳ではない!」
男は小さくため息をついた。
「はぁ、徳はもういいよ」
『だいたい、地位も財産も手に入れたお前が、何を望むと言うんだ』
「私は帰る場所が欲しいよ。扉を開けると部屋の奥から味噌汁の匂いがする、そんな普通でありふれた場所が欲しい。神様には美人がいいといったが、美人じゃなくてもいい。私を笑顔で迎えてくれる誰かと出会いたい。それだけなんだ。しかし、ゴミ拾いで徳を得ようなんて間違いだった。君のポイントカードの方がよっぽど有益だ」
賑わう夜の道を歩きながら、男は珍しく弱音を吐いた。
『えらく素直じゃないか。なぁやっぱり一杯だけ行こう。ひとりで可哀想なお前に免じて、今夜は一緒にいてやってもいい』
「呑みたいだけだろ」
向かったのはいつもの居酒屋。店名も電話番号も非公開。脇道にひっそり佇む、隠れ家のような店である。扉を開けると、ふたりを迎えたのは20代半ばくらいの女の店員だった。
「新しい子か?」
男がこっそり耳打ちすると、さぁと同僚は肩をすくめた。
いつもの席に着いてすぐ、いつも注文するおでんの盛り合わせが出てきた。
「まぁ、こんなに美味い居酒屋に通えているだけでも、大きな幸福か」
『そうだ。それに君には、話を聞いてくれる素晴らしい友人もいる』
同僚はわざとらしく笑みを浮かべてみせた。
「はは。ありがたいね」
夜は深くなり、ふたりの酒も深くなった。
12時を回り、会計を済ませ、店を出た男の目に入ったのは、足元に落ちているお守りだった。
「もう徳はいい」
男はそのお守りを拾わなかった。
『ありがとうございましたー!』
笑顔の店員に軽く頭を下げると、ふらつく足で家に向かった。
深夜1時。
店の前にひとりの男がやってきた。仕事帰りのようである。スーツに身を包んだ30代くらいの男だった。
その男は居酒屋の前で立ち止まり、足元に落ちていたお守りを拾った。
手際よく暖簾を片づけていた女の店員は、店の前に立つ男の存在に気づき『今日はもうおしまいなんです』と、申し訳なさそうな顔をした。
それから、男の手元を見て驚いて声を上げた。
『そのお守り!どこで拾ったんですか』
『ここに落ちていましたよ』
男からお守りを受けると、彼女はそれを大事そうに胸にあてた。
『亡くなった母からもらった、とても大切なお守りなんです。昼からずっと探していたんです。まさかこんなところに落ちてたなんて』
なにかお礼をと言う彼女に、大丈夫ですよと男は返した。女の店員は何かを思いつくと店に入り、小さな紙を持って男の元に戻ってきた。
『よかったら今度食べに来てください。店長の作るあら汁が絶品なんです。私も今練習中で。火曜日以外はいますので、ぜひ』
渡された紙には、店名と電話番号と詳しい地図が載っていた。
『私、徳島 加奈子といいます。もしかしたら厨房にいるかもしれないから‥‥』
『ありがとうございます。今度必ずお伺いします』
男は柔らかく笑うと、受け取った紙を財布の中へ入れた。
彼女は、帰っていく男の背中を小さくなるまで見つめていた。