三ツ矢さんの表情筋は死んでいる
転職して事務職として現在の会社に勤めてはや3年。事務員は私を含めて3人。「石の上にも3年」なんて言葉があるが、なんだかんだで仕事にも慣れてきた。
そんな私だが一つだけ気になっていることがある。
「すみません、これ、手配お願いします」
そう言ってメモを渡す相手の顔を見る。
真顔。
私はニコッと笑って「かしこまりました」とそれを受け取る。
しかし、やはり相手は真顔。
そのままペコリと頭を下げて去って行ってしまう。
そう、私の気になっているのがこれだ。
彼、三ツ矢さんの表情筋は死んでいる。
入社してから真顔しか見たことがない。
180センチの長身に清潔感のある見た目。部類としてはイケメンに入る方だろう。
年は確か私の3つ上の32歳。
営業をしており、成績はいつも上位。
その成績通り仕事は丁寧だし、他人に仕事を押し付けることもない。
事務の仕事をしていて思うのが、自分のことは自分ですると言う当たり前のことが出来ない人も多い。
「それって営業の仕事ですよね」と言うことを押し付けられるのも多々。だからと言ってこちらの仕事を手伝ってくれることもない。
俺の仕事はお前のもの、お前の仕事はお前のものと言う某ガキ大将の逆バージョンみたいなことを言ってくる。
中々ストレスが溜まるのだが、三ツ矢さんにいたってはそれがない。
自分のことは自分でする。おまけにサラリとこちらの仕事を手伝ってくれたりする。
先日、給湯室に行った時、三ツ矢さんが洗い物をしていた。
自分のコップは自分で洗ってくれる三ツ矢さんなので「有難いなあ」と思っているとその手元を見てギョッとした。
そこには他の男性社員が置いていったたくさんのコップたちがあった。
「み、三ツ矢さん、私がやりますよ」
慌てて駆け寄ると三ツ矢さんは言った。
「いえ、ついでですので」
当たり前のことのように。
その後、さっさと洗い物を終えるとペコリと頭を下げて給湯室を出て行った。
私はいたく感動したものだ。なんて良い人なんだと。
しかし、その時も彼の表情筋は死んでいた。
渡されたメモを見る。
そこには電話で受けたと思われる注文の内容が書かれていた。
「これ、なんの暗号ですか?」と思うようなメモを回してくる営業もいる中、三ツ矢さんのメモはいつも受け取る側のことを考えられている。丁寧でとても読みやすい。
チラリと向こうの席に座っている三ツ矢さんを見る。
彼は真顔で黙々とキーボードを打っていた。
他は完璧なんだけどなあ……。
一度でいいから三ツ矢さんの表情筋が動くところを見てみたいものだ。
そう思いながら私も三ツ矢さんの手配をするべくキーボードを打ち始めた。
きっかけなんてものはちょっとしたことから生まれるものなのかもしれない。
それはなんてことのない日だった。
変わったことと言えば、お天気雨が降ったことくらいだ。
駅から会社までの道を折りたたみ傘を差しながら、「そう言えば、狐の嫁入りなんて言い方があったなあ」なんてぼんやり思いながら出社した日のこと。
更衣室で着替えて自分の席につくと誰かが近づいて来た。
「すみません、これ、手配お願いします」
三ツ矢さんの声。
「かしこまりまし……」
そう言って三ツ矢さんの顔を見た時、私の言葉が止まった。
三ツ矢さんの顔にいつもは無いものがあった。
メガネ。
縁無しのシンプルなメガネ。
それがあまりに似合っていたので心の声がポロッと出てしまった。
「メガネ、似合ってますね」
「え?」
三ツ矢さんはひとつ瞬きをした。
あ、しまったと思った。
余計なことを言ってしまった。
どうせこんなことを言ったところで、また三ツ矢さんの表情筋は死んで──おや?
私は目を疑った。
三ツ矢さんは恥ずかしそうに顔を赤らめていた。
「コンタクトが出来ないもので……」
こちらから目を逸らし、ボソリと言う。
そう言われて三ツ矢さんの目を見ると右目が少し充血していた。
ああ、なるほど。それでメガネなのか。
納得したが、それよりも照れている三ツ矢さんがとても可愛らしかった。
もっとその表情を見たくて私は更に言葉を紡ぐ。
「いいじゃないですか。メガネ姿、とても素敵ですよ」
「……ありがとうございます」
そう言うと三ツ矢さんはペコリと頭を下げて、メモを置いて足早に去って行ってしまった。
その耳は真っ赤だった。
席に戻ってからもその顔には照れた名残があった。
私は緩む口元を堪えながら三ツ矢さんにもらったメモを見た。
相変わらず受け取る側のことを考えられた丁寧で読みやすいメモ。
今まで心の中で思うだけにしておいた気持ちが形になった。
もっと三ツ矢さんの色んな表情を見てみたい。
思いを実行に移す。
きっかけなんてものはちょっとしたことから生まれるものなのかもしれない。
それから三ツ矢さんは右目の充血が治ってからもメガネを続けている。
どうやら、私の言葉は嬉しかったようだ。
三ツ矢さんの表情筋は死んでいる。
今の私の一番の目標は彼の笑顔を見ることだ。
さて、その目標が達成するのはいつになることやら。
その日を夢見ながら、私は今日も丁寧なメモを受け取り、三ツ矢さんに話し掛ける。