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あの日見た宙(そら)の名を  作者: 惠 悠冬(めぐみ ゆうと)
2/2

02//ただ、がむしゃらに

 未明から降り出した雨が、窓硝子まどがらすで不規則なリズムを奏でている。夜が明けても一向に止む兆しは見えぬまま、雨脚あまあしは増すばかりだ。


 隠密行動にあたる際にいつもそうしているように、僕は壷装束つぼしょうぞくに身を包んだ。あとはこうして目深まぶか市女笠いちめがさを被れば、もう性別なんかばれっこない。元来の華奢きゃしゃな体型も幸いした。


 それほど武術に長けているわけでもないこの僕が、陽炎かげろうなんていうエリート部隊に身を置いていられる理由がこれだった。こうして、どこから見てもすっかり女に化けてしまえる事――これが僕の最大の武器。


 見上げた空は低く垂れ込め、ただでさえ薄暗いこの街をひどく陰鬱いんうつに見せる。えて僕は、ひと気のない舗装路ばかりを選び、慎重に水溜りを避けて歩いた。


 だが、それも束の間。


 黙々と歩きながらふと先のことなど考えたなら、もう気は焦る一方だった。逸る心が、いつしか僕の歩みを小走りへ変えてしまう。


 前もってたくし上げておいたうちぎの裾は、早くもしっとりと湿り気を含み始めていた。


 紗那の都・おおぎは、四方を高い塀に囲まれた城塞都市である。

 その南門で、農村へ向かう行商の馬車を見つけた僕は、旅女を装い宿場までの同行を願い出た。軍の人間であることを悟られることなく極秘裏に都を出るためだ。


 握らせたいくらかの金でまんまと約束を取り付けた僕は、行商人らしき男のほろへそっと潜り込む。


 油紙に包んで懐に忍ばせた通信筒つうしんとうは、ここから馬車で半日ほど行った百雲の西部・生土いづちにある本営へ持ち込むこととなる。

 だが、僕の本当の目的地である笹墳は、そこよりもだいぶ南東だ。


 泥濘ぬかるみばかりの悪路に振られながら、馬車はひたすらに南下してゆく――。


 今はできるだけ余計な事は考えず、とにかく目的地だけを目指そう。そうしなければ、またついつい悪い事ばかり考えてしまう――などと、何度自分に言い聞かせても、そんな決意はすぐにあっけなく砕かれてしまっていた。こんな些細なことさえも、今の僕にはひどく難しいことだった。


 それからどのくらい経ったかは分からない。僅かな空気の変化を感じ、こっそり表を覗いてみれば、道中にたった一つだけ存在する小さな宿場町がちょうど見えてきたところだった。


 そこで下車し、僕は更なる先へと歩を進めた。


 雨は、変わらずの激しさを保って降り続いている。沈む僕の心に追い討ちをかけるように。


 堪らず、暗黒の空を仰いだ。


 ああ…。


 思えば、一尉が発ってから、かれこれもう二日。うに現地に着いて、具体的に動いている頃だ…。


 それはつまり、こうしている間にも、一尉が例のてきと接触しているかもしれないってことで。


 そして、しつこく敵を追いかけ回し観察した挙句、逆にうっかり見付かって追撃を受けているかもしれないってことで…。


 あり得るよな。

 一旦いったん意地になると、結構むちゃくちゃしたがる人だしな。


「……」


 更に厄介なのは、例の風が操るとかいう妖しの剣技だ。

 確か、離れた場所から瞬時に目標を一掃する摩訶まか不思議の技だとか耳にしたけど…。


「!!!」


 ま、まずい!

 てことは、ひょっとすると今頃、その切っ先の前にあの一尉が立っているかもしれないってことじゃないのか!?


 …。


 ……。


 ………。


 い…いやいや、ちょっと待て。


 落ち着くんだ、武尊たける


 いつものあの人の行動パターンなら、いきなり敵の懐に飛び込むなんて無茶な真似は決してしないはずだ。

 まずはきっと、例の男に関する情報を細かに集めて、それで…。


 そう、それから…。


「なんだ。随分早かったな」


 不意の声が、僕の歩みと思考を止めた。


 博音ひろとだ――。


 落ち合う場所はまだ先とばかり思っていたが、どうやら思いのほか僕は急ぎ過ぎていたらしい。我に返って辺りを見れば、なるほど、間違いなくここが約束の場所のようだ。


 都を出てから、はや七時間――。


 ということは、僕は七時間もの間、恐怖に怯える胸を抱えて、望みもしない不吉な事ばかりを一人悶々と妄想していたってわけか。


 なんてことだ…。


「じゃ、これ」

「おう」


 差し出した通信筒を、博音は事務的に受け取った。


 それにしてもせない――と思った。一尉を慕っているというなら、彼だって僕同様、すぐさま現地へ飛んでいきたいはずなのだ。


 それなのに…。


 どうして僕に役目を譲ってくれたのだろう。

 なぜこんなに協力してくれるのだろう。


「何ぼーっと見てる?ほら、行くぞ」


 生土と笹墳の分岐は、この一里ほど先だ。


 慌てて僕は博音の後を追った。そうして彼に従いながら、ふと気付いた事がある。


(似てる…)


 やや恰幅かっぷくが良くどちらかといえば小柄な博音と、すらりと線の細い一尉とでは、一見すると似ても似つかない。それでも僕は、あの時の彼の背中に、紛れもなく一尉その人の姿を見ていた。同時にあの時、一尉に惚れている――と言った彼の言葉がはっきりとよみがえり、改めて僕の中心にじんわりと染みたのだ。


 思い切って、そんなことを口にしてみると――。


「俺、がむしゃらな奴は好きだよ。そんで、強い奴もさ」


 はすに振り向いて、博音はうっすらと口元を緩めた。その仕草も、本当にあの一尉とよく似ていた。


「白状すると最初はさ、おまえのこと、男のくせに男を追い回す気持ちの悪い奴だ――って思ってたんだ。だけどいつも必死だったもんな、おまえ。剣術でも体術でも必死に頑張って、何とかあの一尉の横に並ぼうと、いつもめちゃくちゃ努力してたじゃねえか。誰に笑われたって、虚仮こけにされたって、いっつも自分の気持ちだけは真っ直ぐ正直に貫いてきたじゃねえか。そういうのが、武尊の強さなんだって俺は思うよ。だから一尉もおまえからは逃げないんだよ、きっと」

「……」

「努力を笑う奴は男じゃない。いつか一尉もそう言ってたぜ」


 そう言って博音は歯を見せて笑った。


 きっと博音にとっての一尉は、憧れの上官なんて生半可なものではなく、人生の師そのものなのだろう。同僚としてしょっちゅう顔を合わせていたのに、今までちっとも気づかなかった。


 博音も、ずっとあの人を追いかけていたんだ…。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 雨は更に勢いを増した。


 ぬかるむ泥炭に時折足を取られそうになりながら、僕らはひたすら南下を続ける。

 街道などといっても、実際は縦横にくねるばかりの細道だ。時々、この道をもっと細くしたような頼りない脇道があるだけで、基本的には迷いようのない一本道である。


 やがて僕らは黒い森を抜けた。


 ところがそこは、これまで以上に荒れ果てた手付かずの原野で、僕らの背丈を優に越える大きな笹が、道の真ん中へり出す格好で伸びている。


 僕らは、肘や肩でそれらを掻き分けながら進んだ。


 やたらと視界が悪い。


 雨を含んで一層頭を垂れた青笹のトンネル。

 変わらず降り続く雨。

 僕らを阻んでぬかるむ足元。

 ひっきりなしに葉を叩く雨粒の音色。


 もしかしたら、そんなものが僕らの感覚を鈍らせたのだろうか。


 不意に――。


「!!!」

 遠くに銃声を聞いた気がして、僕らは反射的に脇の茂みへ飛び込んだ。


 息を潜め、気配を殺す。

 感覚を研ぎ澄まし、気を探る。


「そろそろ義勇軍の端くれが潜伏している辺りだ。油断したな」


 素早く辺りへ視線を走らせ、博音は小声で囁いた。


 僕らの敵である百雲もくも自治区独立義勇軍には、どうやら大きく分けて二種類あるらしい。


 一つはいわゆる正統派で、国家からの独立と人民開放という大義名分のもとで活動する一派。そしてもう一つは、そんな彼らの名を語り、金品の強奪や無益な殺戮を働く凶悪な山賊のたぐいだ。

 もっとも後者のグループの中には、元・義勇志士といった連中も少なくなく、彼らの敵である僕ら紗那・楼蘭連合軍のみならず、独立義勇軍側にも甚大な被害をもたらしていると聞く。

 博音の言う義勇軍の端くれとは、この山賊化した一派のことを指していた。


 ややあって――。


「!?」

 耳を貫いたのは、絹を裂くような女の悲鳴だった。


 こんなにひどい雨の日に、女がひとり。

 しかも、これほど荒れた何もない土地で一体何を?


 そうして首を捻る間にも、びしゃびしゃと慌しく泥を叩く足音はどんどんこちらへと近づいてくる。


 どうやら一人ではない。


 数名?


 いや、もっと…。


 この音の感じだと、総勢で十数名ってとこ…か?


 やがて、途切れ途切れの悲鳴は、しゃくり上げる嗚咽おえつへ変わり、震える息遣いさえ何とか聞き取れるほどの距離となった。そっと覗いてみると、例の森の方からこちらへ向けて、粗末な襤褸ぼろを纏った女が、息もからがらに駆けて来る。


 そして。


 思ったとおり背後には、いかにも――といった風体のごろつきどもが迫っていた。いかがわしげに口元をにやつかせた男らは、たった一人の獲物を皆で取り囲むように追い回し、口々にはやし立てながら、わざと彼女を先へ先へと走らせているようだった。


「ああしていたずらに疲れさせて、足がもつれるのを待っているんだろうな。抵抗できない状態にしてから、好きにもてあそぶって算段だ…」


 博音の言葉に、僕は黙って頷いた。


 このまま眺めていなくとも、続く展開は明らかだった。やがて泥に足を取られて倒れ込んだなら、きっと彼女はその場で裸に剥かれ、代わる代わる奴らにけがされるのだ。


「……」

「………」


 何とはなしに、僕らは暫し黙り込んだ。

 恐らく博音も考えていることは同じ――僕同様、彼女を助けに出るべきかと迷っているはずだった。


「なあ…」


 僕が切り出すと――。


「妙な考えは起こすなよ、武尊。俺たちにはやるべきことがある。こんなことで、貴重な時間を無駄にするわけにはいかないんだ」


 じっと前方を睨み、博音は低く呟いた。至極もっともで正しい答えだ。


 そして、このきっぱりした口調も言葉も、やはり彼はどことなく昴琉すばる一尉と似ていた。一尉がここにいたなら、きっと彼と同じことを言う。重要な任務を負いながら、つまらぬ厄介事に捕らわれるなどもってのほかだ――と、目を吊り上げて僕らを叱咤しったするだろう。


「……」

 ふと落とした視線の先で、濡れた博音の拳が震えている。そんな彼の気持ちは僕にもよく分かった。


 僕ら斥候せっこうは、いついかなる時でも任務が最優先――そう厳しく叩き込まれている。与えられた目的のためだけに動き、貴き国家のためのみにその命を賭すべし。


 歯車に感情は要らない。

 兵士に感傷は要らない。


 この頃の一尉の口癖だ。


 だけど――。


「博音。あのさ、こんな時…」

 意を決して、二度目の口を開いたその時だった。


「いやあああああっ!」


 はっと振り向けば、既に女の細い体は羽交はがめにされていた…!


 思い切り胸を殴りつけられたような衝撃が走った。焦燥と緊張とが一度に弾け、僕の鼓動を暴走させる。ふとぶつかった肩越しから、博音の葛藤が這い上がってくるのが分かった。


 一体、僕らは――。


 僕らはどうすればいい!?


「いやあっ!やめて!!放してええええ!!!誰か…!!」


 必死の叫びも虚しく、僅かに引っ掛けられただけの着物へ男らの太い腕は伸び、そして――。


 無残にはだけられた胸元から露になる白い乳房。

 黒々と濡れ、ぴったりと体に張り付いた長い髪。

 もがくほどに劣情の前へ引きずり出される艶かしい肢体。


 交わされる荒い吐息といやらしげな笑い声。


 本能を剥き出しにした野獣らの狂喜の宴が始まろうとしている――。


「くそっ」


 もう無理だ。

 こんなの、僕には――!


「こういう時、一尉ならどうする!!」


 僕は夢中で叫んでいた。

 気持ちにも時間にも、これっぽっちも余裕がないのは分かっていた。


「こんな時、あの人ならどうするんだ!答えろ、博音!!」


 そうして返答を急きながら、今は彼の言葉を待つ間もない。


 気付いたときにはもう、僕は茂みから飛び出していた。すかさず胸に忍ばせていた短刀を引き抜く。


「やめろ!その手を離せ!!」


 一斉に振り向いた野獣に、僕は毅然と言い放った。戦法とか勝ち目とか――そういうことはまったく頭になかった。


 ただ…とにかく必死で。


 ただ、がむしゃらで。


 だってこんな時、あの人ならきっと――。


『女の扱いも知らねえ下衆げすは、いっぺん地獄を見てきやがれッ!』


「!!」

 本気で隣に一尉がいるのかと思ったほど、声色をそっくりに真似たその台詞には、確かに聞き覚えがある。


「ひ、博音…」

「はは…そうだよな…。おまえの言うとおりだ。あのお人好しが、こんな場面を黙って見過ごすはずはねえ」


 軽く舌なめずりをして、博音は腰の刀をすらりと抜いた。


 口々に僕らを罵り、男たちも手持ちの得物を構えている。この中には銃を携えた輩もいるはず。

 僕らは冷静に目を走らせていた。


 そして――。


 僕がそいつを見極めるよりも早く、賊の一人に目星をつけた博音は、構えた刀を改めてしっかりと握り直した。

 ここは何よりも飛び道具を封じることが先決だ。


「あのどうしようもねえ女ったらしが、目の前の女の窮地きゅうちを放っとくわきゃあねえんだよ!そうだろう!?」


 苛立ち紛れに吐き捨て、博音は真っ直ぐ中心へと斬り込んだ。慌てて僕も後に続く。


 鋼のぶつかる甲高い音が、無造作に散る。群がる無頼漢ぶらいかんを、それぞれで手当たり次第に捌き、僕らは震える女の元へと急いだ。


 鉄砲を持った男は、彼女のすぐ横にいた。


 駆けつけるや否や。


「うおらああっ!!」

 博音の氷刃が鮮やかにくうを薙いだ。


 途端。


 一瞬遅れて抜かれた鉄砲が、手首ごと切り離されて宙を舞う。刹那せつな、人とも獣ともつかぬ叫びがおびただしい血しぶきとともに噴き上がり、泥の大地をじたばたとのたうち回った。


 見事な手並みだ。


「やあっ!!」

「せい!!」


 向かってくる者は容赦なく斬り捨てた。僕らが今、ここでこうしていること――万が一にもそれを、正規の義勇軍なんかに密告されたら面倒だと思った。


 その時。


「ったく毎度毎度、歯車がどうの兵士がどうのってよ…!」


 矢継ぎばやに襲い掛かる敵を払いながら、突然博音は一尉への愚痴をこぼし始めた。


「俺らは命令に従うだけ?馬鹿言っちゃいけねえぜ!いっつも自分こそ、そういうの守んねーくせに!!」


「ぷ…っ」

 これには僕も吹き出した。


 武芸の苦手な僕に、この時そんな余裕なんかあるはずはなかったが、それでもどうしようもなく…。にわかにこみ上げる小気味よさがどうしても止まらなかった。


「一度でもきちんと型にハマってから言えってんだ、そういうことはよ!!」


 刃を返し、身を翻すその度に、うめき声を上げて敵は倒れ、同時に博音も今ここで口にしたって仕方のない文句ばかりをやけっぱちに吐き捨てる。


 剥き出しの敵意と斜に吹きつける猛烈な風雨に晒されながら、僕らはやけに爽快な気分だった。今は、声を上げて笑いたくて仕方がなかった。


 そしてついには、真っ暗な空へ向かって――今も僕らと同じ空の下にいるはずの一尉へ向かって、博音は渾身の憎まれ口を放った。


「おい、一尉!アンタの得意の説教!!俺、もうすっかりそらで言えるんだぜ!!この頃は、とうとう声まで似てきちまってさ!のっぴきならねえとこまで来てんだ、俺はっ!重症なんだよ!!」


「ふっ…。くくく…はははは…!」

「あははははは!!」


 戦いという命の瀬戸際にありながら、僕も博音もずっと笑っていた。


 なぜだか胸がく。

 実にいい気分だ。


 あまりに気持ち良すぎて、あんまり愉快すぎて、どんな言葉にも表せないほど――。


 悔 し い 。


 そうだ。

 本当は…無性に悔しくてたまらなかったんだ、僕も博音も。


「あはははは!ほんと笑っちまう。ほんとにさ…ほんとに俺は、ずっとアンタのこと…」


 難なく最後の一人を倒し、博音は再び空を仰いだ。傷を負ったはずはないのに、濡れた横顔が歪んでいる。


 そうして、きつく結ばれた唇からこぼれ出した思いは――。


「あーっ!もう、ちっくしょう!!頼むから勝手にくたばンじゃねえぞ、一尉いいいっ!!!」


 博音は崩れるように膝を付いた。


 僕もその場に呆然と突っ立ったまま動くことができなかった…。


 生温かい風が、雨音を不規則に波立たせていた。時に大きく時に弱く、尽きることを知らぬ滂沱ぼうだ滔々(とうとう)と揺らめいて、佇む僕らを抱いていた。


 空を覆う雲海うんかいに晴れ間はない。

 どこにも光なんか全然見えない。


「こんなの…こんなの…犬死と同じじゃねえか!馬ッ鹿野郎おおおっ!!」


 重くし掛かる陰雲いんうんの下で、博音は密かに泣いていたのかもしれなかった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 羽織ってきた袿を震える女の肩に着せ、僕らは黙ってその場を離れた。

 放っておけば、また同じようなやからが寄ってこないとも限らなかったが、これ以上他所(よそ)事に関わっている暇はない。僕らにはやるべきことがある。


「……」


 あれから僕らは無言だった。一尉や僕らの置かれている状況を目の当たりにしてしまった今、何となく、どちらもが色々なことを考え込んでしまっていた。


 あの程度ならば、一尉の敵じゃないだろう。けれど、今回の相手はあの赤い風。たった一人で、一個小隊を殲滅せんめつするいう謎の剣士なのだ。


 何人なんぴとたりとも近付くことを許さない。行く手を塞ぐ者はそれが味方であろうとも、ことごとく斬り捨てる。


 まさに戦鬼――修羅に身を捧げた化け物だ。それが、この先のどこかにいる。


 ふと脳裏に、あの晩の一尉が思い起こされた。


 何一ついつもと変わらず、穏やかに微笑んでいた横顔。

 盛りを終え、舞い落ちる花弁の下、ひっそりと佇んでいた背中。

 ぼんやりと揺れる行灯あんどんに照らされて、ひどくはかなげに見えたあの眼差し。


 あの晩の一尉の心は、どんなものだったのだろう…?


 かねてより政府には、紗那軍特殊部隊・陽炎に代わる政府直属の部隊を設立しようという構想があった。そのことで軍部とも何度か対立していたはずだ。

 ところが、今回の内乱に代表されるような紛争の長期化と、各地で加速するばかりの治安の悪化により、軍の立場は急激に悪くなった。


 そう。


 僕らはもうすぐ切り捨てられるのだ。数多の戦役の裏でひっそりと暗躍した僕ら斥候は、不要の手合いとしてこのうつつから葬り去られるのである。

 そのことに、あの一尉がまさか気付いていないはずはない…。


 自ずと強張る身を強いて、僕はひたすらに歩き続けた。


 と――。


「ほんとはさ…例の任務、銀鏡しろみとの繋ぎをしてた娘が行くはずだったんだぜ…」


 博音がぽつりと呟いた。


「え…?」


 強さを増した雨が、交わす言葉の邪魔をする。


「ほんの十四か十五かのちっちゃな女の子がさ…。ただ銀鏡のだって理由だけで、丸腰でヤツの元へ行かされるはずだったんだぜ。それなら敵も簡単に気を許すだろうって――殺されたところで、身寄りのない銀鏡の子どもなら別に惜しくもないからってさ…」


 振り向いた博音は、笑っているのか泣いているのか――とにかくひどく疲れた顔をしていた。


「でもよ、そんなのあの人が認めるわけねえじゃねーか」


 胸を突かれた。

 目の前が真っ暗になった。


 ずっと僕の心の底にあった恐怖は、これだったのかもしれない。


「そ、そんな…。じゃ…一尉はその子の身代わりに…?」


 誰かのために命を張る――元々一尉は、そういう犠牲的な行動に迷うような人ではなかった。


 例の遊女たちとの付き合いにしてもそうだ。愛しまくって尽くしまくるのは、いつだって一尉だけ。

 里に病床の親がいるだの、実家が火の車で幼い弟妹ていまいが満足に食えずにいるだのと――そんな女たちのありきたりな嘘に易々と乗っかってやっては、毎度毎度、やれ治療費だ生活費だとむしり取られてばかりいた。


 でもそれは、一尉が馬鹿が付くほどお人好しだからなんかじゃない。


 そうやって、あの人は自分の存在を持て余していた。いつ失うとも分からぬ人生を、どう謳歌おうかすべきかと模索していた。まるでそよ風に揺れる灯火ともしびのような自らの命の使い道を、いつだって必死に探していたんだ。


 だから。


「ああ。志願したんだよ、自分から。その子の代わりに自分から死にに行ったのさ!見たことも話したこともないたった一人の子どものために、あの人、自分の命を張ったんだ!」


 こんなふうに求められれば、喜んでそれを差し出したのに違いない――。


「一尉の居場所を調べてるときに、偶然そいつを知っちまった。どんだけ馬鹿野郎なんだって、本気で腹が立った。だけど俺…俺さ、すげえあの人らしいなって、心からそう思ったよ…」


 口惜しげな博音に、僕はもう何も返してやれなかった。


 だって僕は気付いてしまったから…。


 ついに一尉は見つけてしまったのだろう。


「なあ、頼む…。一尉に伝えてくれよ、武尊。自分ばっか、カッコつけてんじゃねえってさ。この際、階級とか礼儀とかそんなもん全部糞ッ食らえだ。いつもあれこれ世話焼くばっかで、こんな時になったら俺らは放ったらかしか!?何かひと言ぐらいあってもいいじゃねえか!なんで…なんで俺らに言ってくれねえんだ!そういうことは俺らも誘えってんだ、水くせえ!!」


 退屈な人生に蹴りをつけるために、大輪のひと花を咲かせるその場所を、ようやく一尉は見つけたんだ――。


「そんで…。そんでよ…俺付けで、一発ぶん殴っといてくれ。前歯の二、三本もへし折れるぐらい思いっきり。釣りは…無事に戻ってから、自分で直接払いに来いって…そう言ってやってくれ」


「分かった…」

 そう答えた僕の顔は、すっかり涙でぐしゃぐしゃになっていたのだが、この激しい風雨の中にあって、幸い博音に気付かれることはなかった。


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