戦いの構図
義朝の退却と入れ替わりに大庭平太景能、同三郎景親兄弟が駆けてくる。
だが、為朝の強力な矢によって瞬く間に兄景能が倒される。
膝頭を射られてしまった景能であったが、弟景親に向って興味深い発言をしている。
彼は次のように言う。
いかに、ここは軍庭なれば、只今兵ども馳せ来たりて、降人ありやとて引き出だされん時は、足が立たばこそ手合せをもせめ。云ひ効なき奴原に押して首を取られん事の口惜しさよ。且は家の名を失ひ、且は弓箭の疵にてもあるぞかし。
この発言から当時の武士として如何にあるべきか、という共通認識が垣間見られる。
これに対して景親は「この程しも、兄弟の中不快なり。しかるあひだ、今こそ落ち合ふ処よ」と思い、仲直りを提案する。
景能は「おめおめとなりて」謝罪し、兄弟の和解が成立するのである。
景親は兄と一緒に鎧を着けたまま大炊御門から山科まで逃げ延びることに成功する。
知り合いの者に負傷した兄を預けた後、景親は直ちに走り帰ってその夜の合戦を戦う。
この勇敢な景親の行動に「誉めぬ者こそなかりけれ。」と、誰もが賛辞を送っている。
その後、武蔵国の住人、金子十郎家忠が為朝に挑戦する。
家忠はこれが初陣であった。
為朝は「奴は、怪の者かな。ここにて射落とし討ち取りたらば、多勢が取り籠めて討ちたりとこそ言はんずれ。誰にてもあれ、馳せ出でて、敵の見ん所にて、下げてこよ」と命じる。
為朝は、一対大勢では勝っても卑怯者呼ばわりされてしまうから良くないと考えていたことが分かる。
これは当時の武士の共通認識でもあったと思われる。
この為朝の命を受け、高間四郎が家忠に向かって駆けていくが逆に組み伏せられてしまう。
更に家忠は弟を助けようと走り寄る高間三郎も同時に討ち取ってしまうのである。
とても初陣とは思えない家忠の活躍ぶりを目の当たりにした首藤九郎は「安からぬ事なり。奴を提げて参り候はん」と駆け出そうとするが、為朝が意外な発言をする。
しばし待て、家季。この者一人討つたればとて、軍の勝負あるべしや。(中略)その上、為朝、この軍に打ち勝ちて、東八箇国を知行せん時、彼等をば勘当許して、召し仕はむずるものなり。惜しき兵なり。あたら侍、討つべからず
彼はこのように言って首藤を制す。
為朝も感心する家忠の活躍に対しては語り手も
「金子、心剛に、振舞ひ抜群なるによつて、虎の口を遁れて、御方の陣に入りにけり。武くしては今生に面目を施し、その忠代々に絶えず、後代に名を留め、その功子孫に及ぶ。臆しぬれば、恩禄欠くるのみならず、生きては恥辱をいだき、死しては謗りを残すといへり。能々思慮を廻らすべきは、兵の道なるべし。」と褒めている。
勇敢さだけでなく、射殺されることなく無事に生還出来たことも称賛の理由の一つと思われる。
勇猛だがあっけなく射殺されてしまった惟行とは対比的に描かれていることが分かると言えよう。
逆に、次に登場する常陸国の住人関次郎はユニークな武士だ。
味方がやはり為朝の矢によって射殺されていくのを見て、関次郎はおもしろい行動を取る。
「関次郎、これを見て、したたか者なりければ、馬よりゆらりと下り、馬を押し倒して、「馬の腹の射られたるぞや」とて、這々逃げてぞ退きにける。」彼の取ったこのような行動は決して勇敢であるとは言えないが、そのお陰で命が助かったのだからやむを得ないと言える。
事実、語り手も彼を卑怯者呼ばわりしていない。
単純に「強い為朝と弱い周囲の武士」という対比的構造を見出すことも可能であるが、こうして見てみると家忠や常陸国の住人関次郎など様々な人間模様が垣間見られて興味深い。
『保元物語』の深さ、面白さである。
その後も合戦は続くが、
「(前略)義朝に相従ふ兵ども、我も我もと、入れ替へ入れ替へ、時移るまで戦ひければ、釼に討たるる者五拾三人、疵を蒙る者二百余人とぞ聞えし。」
とあるのに対して、
「為朝の方には、三丁礫紀平次大夫と大箭新三郎が大事の手負ひたると、高間兄弟討たれるより外は、薄手をだにも負はざりけり。」
と、極めて対照的に描かれている。
全体を通して見ても、改めて為朝の活躍ぶりが分かる。