義朝と為朝
『保元物語』合戦譚の後半場面では、主に源義朝と為朝の対決が描かれている。
前半場面は為朝のワンマンショーといった感が強いが、後半場面はそうではない。
特に義朝は『保元物語』における総登場回数が為朝の次に多く、その存在感も清盛と同列に論じるべきではないと言える。
また、義朝の部下の活躍も同様だ。
例えば、清盛の部下である惟行と義朝の部下である鎌田次郎の描写とを比較してみよう。
鎌田次郎も惟行と同様に為朝に向かって行く。
だが、彼は惟行とは違い、全体を通して好意的に描かれている。
両者の描かれ方の違いはどこにあるのだろうか。
鎌田も主君の言葉に従っていないが、それは惟行とは違う。
惟行は主君を馬鹿にしたが、鎌田はそうではない。
例えば、「白河殿攻め落す事」において鎌田次郎は「自分が為朝を討ち取ってくれよう」と意気込む下野守源義朝に対し、「それはいけません。大将軍自らが駆け出すのはどうしようもなく切羽詰まった時ぐらいのものです」と諌めている。
それでもなお義朝は勇んで駆け出そうとする。
これに対して鎌田はあくまでも自分が先に行くと譲らない。
前の場面をもう一度思い出してみよう。
ここでは為朝を前にして怖気付く清盛と、それを馬鹿にする惟行という構図になっている。
逆に義朝と鎌田の場合は、両者が為朝に向かって行こうとしているのだ。
ここから、まず清盛と義朝が対比的に描かれているのが分かる。
更に惟行と鎌田も比較してみたい。
惟行の場合、主君である清盛の提案に従わずに強がりを言ってただ一人為朝に向かって行っている。
鎌田はどうだろうか。
彼の場合、「私が為朝を倒す」と意気込む義朝を諫めて自分から為朝の警護する門へと近付いていくのだ。
主君の言葉に従わなかったという共通点はあるが、惟行と違って鎌田からは主君や味方を想う気持ちが伝わってくる。
惟行は周囲が見えていない。
加えて、自分が手柄をたてることしか頭にないのだ。
彼が語り手から愚か者呼ばわりされているのも分かると言えよう。
日下力氏は
為朝が他者に与えた威圧感を語る為に、作者は、彼をとりまく人々、特に敵対者の側に滑稽さすら覚えさせる極度なまでの畏怖を描く方法をとってもいる。それは先に触れた合戦前の公卿達や為義の言動に始まり、実際に戦場で為朝に圧倒された人々の醜態で極点に達する。(中略)作者は、為朝を中心に配した人物達をおとしめ、対比的に為朝像を浮き上がらせようともくろんだのであろう。
と述べている。
また、元木泰雄氏は
同書は為朝について強弓で相手を鎧ごと射抜く超人的な凄まじさと同時に、合戦後のことも考えて義朝の命を救う思慮深さをも描いている。こうした為朝像に反比例するように、臆病な清盛の姿や、頼賢や為朝の軍勢に押し返される義朝主従の脆弱さが強調されることになる。むろん、こうした『保元物語』の叙述にかなりの虚構が含まれていることは否定できないが、そこから一定程度の事実を見出すことも可能である。
と述べている。
だがもう少し考察を進めてみると、単純な「為朝と周囲の武士たち」という対比的構造だけではなく、その中で更なる対比がなされているということ、即ち二重の対比的構造が成立していると言える。
為朝を前にして怖気付く清盛と為朝を恐れない義朝。
主君・清盛を馬鹿にする惟行と主君・義朝を想う鎌田。
このような対比が成されており、更にそれらが為朝と対比されていると考える。
ただし、清盛にしても義朝にしても作品中においては為朝の敵ではないことは明らかだ。
結果的に為朝の強さが際立っていることは間違いない。
前述した清盛と義朝の対比的構造は、「為朝に対する恐怖心を素直に吐露する清盛と恐怖心を隠す義朝」の対比と言い換えることも出来よう。
義朝を諫めて自ら為朝に向かって行った鎌田はどうなったのであろうか。
実は、結果も惟行とは対照的なのだ。
以下、詳しく見てみよう。
為朝から「お前ごとき敵ではない」と一蹴されても鎌田はあざ笑い、「日頃は相伝の主とは言え、今は八虐の凶徒になり下がっているではないか。この矢は正清が放つ矢ではない。八幡大菩薩の放つ矢と心得よ」と言い放ち、矢を射る。
為朝はどうなったか。
「為朝、鎌田を見んと振り仰のきたる左の頬さきを射削りて、甲の鉢付の板にしたたかにぞ射付けたる。」とあるように、鎌田の放った矢は為朝の左の頬を射削る。
この予期せぬ事態に為朝は「鎌田め、余すな。手捕の与次、討手の城八、駆けよや、駆けよや」と激怒する。
これに対して鎌田は「馬の気あらむ限りは」と逃げに逃げる。
「為朝が怒れる声は、また雷の鳴り落つるにも異ならず。」と、語り手は激怒した為朝の様子を生き生きと語っている。
惟行と違い、鎌田は最終的に逃げ延びる。
だが、ただ逃げた訳ではない。
「鎌田は、河原を西へ直に逃ぐべかりけれども、「八郎殿を下野殿の陣の内へ引き入れん事、悪しかりなん」と思ひければ、あらぬ方へ逃げける」とあるように、味方のことを第一に考えて逃げていたことが分かる。
この鎌田の戦略的な行動に対して「思慮ありける者かな」と敵も味方も感心したと語られているが、当然であると言えよう。