山田小三郎惟行の悲喜劇
「爰に、伊賀国住人、山田小三郎惟行と云ふ荒者あり。」という一文から始まる。
敢えて「荒者」の二字を使用しているところからも、彼がどのような人物であるのか想像出来よう。
半井本では「ソバヒラ見ズノ猪武者」と表現している。
こちらは「脇目もふらない向こう見ずの猪武者」といった意味だ。
この場面においては、惟行が主人公であるといっても言い過ぎではない。
「我こそは為朝を倒してみせよう」と意気込む惟行であったが、周囲の侍たちは誰も聞き届けようとせず、退いてしまう。
清盛の率いる軍勢が我先にと撤退を始める。
その分、為朝の脅威が増す仕組みになっている。
同時に「惟行、力及ばず、ただ一騎、すごすごとぞ控へたる。」と、陽明文庫本の語り手はあくまでも突き放した語りを続けている。
半井本はどうか。
「是行計、ヘラズ魂ニテ、人引バトテ退ク事モ無。只一人止テゾ引ヘタリ。」
と、こちらも同様に冷たい。
「心のはやりのままに、愍なる事は云ひ散しつ、伴ふ者は一人もなし。」
この表現からは、惟行の後悔の念が伝わってくる。
しかし。
ここで引き返す訳にもいかない。
それでは武士として一生の恥だ。
惟行も、「さればとて、また取つて返すべきにもあらず。」と言って為朝の方に近付く。
このような名誉を守るか、自分の命を惜しむかという選択に躊躇いつつも最後は覚悟を決める惟行の姿は如何にも武士らしい。
陽明文庫本の語り手も「惟行、歳廿八、身の盛りと見えたり。大の男のしたたか者、弓は三人張り、矢束は十三束、下針をも射んと思ふ者なりけり。」と彼を評価している。
ただし、別の見方も存在する。
例えば、佐伯真一氏は次のように述べている。
『保元物語』において、豪勇の鎮西八郎為朝に挑戦した、山田小三郎是行という果敢な小身の武士がいる。(中略)是行にとって恐ろしいのは同僚たちの評判であった。臆病者と思われるぐらいなら死んだほうがましだ。そう思った是行は、言葉どおり為朝と渡り合い、あえなく討たれてしまうのである。このように、合戦現場の兵たちは、臆病者、裏切り者と見られることを恐れた。それは、「忠義」などというよりも、むしろ素朴な名誉と紐帯の感情といえようか。
佐伯氏は更に戦場の倫理と平和の倫理の根本的な違いについても述べる。
まとめると次のようになる。
武士は名誉を重んずる。これは正しい。
しかし、それでは名誉とは何か。何を名誉とするかという点において、平和な社会で育った倫理と戦場で育った倫理とでは、大きな違いがある。
一般社会における名誉は、公正や信義だろうが、戦場における名誉は、勝利や力である。従来の議論の多くは、そうした相違に目をつぶったままだった。
その結果、中世の武士を描くにあたってしばしば虚像を結んできたのではないか。佐伯氏はこのように述べている。
確かに現代の我々の価値基準と中世の価値基準を全く同じものとして考えると歪みが生じる。
価値基準は時代と共に常に変化するという歴史的事実を忘れてはならない。
惟行は為朝に向って矢を放つ。
「(前略)惟行、引き設けたる事なれば、内甲を志してひやうど射る。誤たず、為朝が鎧の障子の板を縫ひさまに、したたかにぞ射止めたる。今少し上りたらましかば、頸の骨、何かはあらまし。あぶなかりし事ぞかし。」
と臨場感溢れる描写がされている。
危うく惟行の矢をかわした為朝も惟行に対して「実に弓矢取る者はかうこそあらまほしけれ。」と賛辞を送っている。
だが。
最終的に惟行は為朝の放った矢によって射殺されてしまう。
この惟行の死に対して陽明文庫本の語り手は「余りに武者の剛なるも、還りて嗚呼にぞ思えたる。」とばっさり斬って捨てているのである。
「それより後は、この門へ向ふ者こそなかりけれ。」と一方的に結論付けられた後、惟行は物語から一切姿を消す。
半井本でもあっさり為朝の矢によって射殺される。
語り手も「武者ノ余ニ心ノ甲ナルハ、シレタリトハ是等哉申ベキ。」と厳しく結論付けている。
日下力氏も以下のように述べる。
『保元物語』の作者が、退却した清盛勢の中にあって一人踏みとどまり為朝の矢に射殺された是行の行為を、辛辣な批評眼と共に描いていることも嘱目されなければならない。彼の話は、「今モ昔モ、余リニ剛ナル者ハ、帰リ嗚呼ガマシクゾ有ケル」という皮肉な言葉のもとに語り出され、「武者ノ余リ心ノ甲ナルハ、シレタリトハ、是等哉申ベキ」という酷評で結ばれる。(中略)是行に対する評語は、状況をわきまえぬ、分不相応な行動への批判にとどまっている。彼の目は、武士の外面的行動の是非にのみ向けられ、その内面にまで立ちいたることは希薄なのである。
死んだ惟行を誰も評価せず、語り手からも愚か者呼ばわりされた挙句忘れ去られてしまうのだ。
やはり全体を通して読むと惟行は勇猛というよりも軽率で愚かな武士として描かれていることが改めて分かると言える。