強敵との対峙
強い敵との勝負を避けることが如何に当時の武士として恥ずかしいことであったか、というのは『平家物語』巻第一の「御輿振」と比較するとよく分かる。
これも、山門の衆徒が最初は軍勢の少ない手薄な北の門、縫殿の陣から神輿を御所に入れようとする。
これに対して守る源三位頼政は「小松殿が大勢でかためられている東の門から入ってはどうか」と申し入れる。
山門の衆徒の中で三塔第一の雄弁者といわれた摂津竪者豪運も
「尤もさいはれたり。神輿をさきだて参らせて訴訟を致さば、大勢の中をうち破つてこそ後代の聞えもあらむずれ。」
と賛成し、東の陣先の待賢門から神輿を入れることになるのだ。
もっとも、この後散々に矢を射られて山門の衆徒はなすすべもなく敗走するのであるが、強い敵を避けてはならないという当時の共通認識は読み取ることが出来ると言えよう。
だが、同時に「逃げる」ことは恥ずかしいだけで誰もが嫌ったことなのか、ということも考えてみる必要があろう。
例えば、『平家物語』巻第十一「能登殿最期」における義経について見てみよう。
この章段からは、特に彼の「弱さ」が感じられると言える。死に物狂いで襲い掛かる能登守教経に対し、義経は
「さきに心えて、おもてにたつ様にはしけれども、とかくちがひて能登殿にはくまれず。」
とあるように、決して自ら教経と組み合おうとはしなかったことが分かる。
いよいよ逃げ切れぬと知ったら、「判官かなはじとや思はれけん、長刀脇にかいはさみ、みかたの舟の二丈ばかりのいたりけるに、ゆらりととび乗り給ひぬ。」 と、あくまで逃げる。
ただし、この義経の取った行動を卑怯、或いは臆病という言葉で表現するのは間違いであろう。
逃げることも戦法の一つである。
奇襲攻撃を次々と仕掛けて勇猛果敢なイメージのある義経も、実は何度も賢く退いているのである。
さて、撤退ムードが拡がりかけた中で清盛の嫡男重盛が「ふがいないおっしゃりようよ。ここは重盛が為朝の矢面に立とう」と進み出て為朝に勝負を挑む。
ここで注目されるのは血気溢れる若い重盛ではなく、それを聞いて取った父清盛の行動だ。
清盛は次のような行動を取る。
「安芸守、大きに騒ぎて」、「あなあぶなやとよ。八郎が矢崎はさることにてあるものを。若者は思慮なくてぞはや。各々、馬の前へ下り塞りて、誤ちせさすな。あれよあれよ」と言うのだ。
郎等どもも駆け寄り、重盛を真ん中に取り囲む。
半井本では、この後に清盛の撤退宣言が出る。
陽明文庫本とは撤退宣言が出るまでの過程に相違がある。
半井本は清盛をどのように描写しているか比較してみよう。
ここでも清盛は「東ノ門ヘカ、北ノ門ヘカ参ルベキゾ」と事実上の撤退を宣言している。
しかしながら、半井本ではこの清盛の宣言に対して兵たちも一様に賛意を表明している。
語り手も「今モ昔モ余リニ剛ナル者ハ、帰テ嗚子ガマシクゾ有ケル。」と清盛の撤退を評価している。
これは、寧ろ後先考えず為朝に向かって行こうとした重盛を非難した語り口とも言える。
同時に、このように結論付けることによって為朝の存在感、相手に与える脅威も増している。
その意味では半井本の語りは上手い。
この様子を見て、奮い立った一人の男がいた。
彼こそが伊賀国住人、山田小三郎惟行その人だ。
この惟行の描写は当時の武士像を考える上で非常に重要になってくると思われる。
以下、細かく彼の行動を見てみたい。