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源為朝  作者: 奈良県
3/12

為朝の実像

実際の源為朝はどのような人物であったのだろうか。


『愚管抄』を見てみる。

『愚管抄』は、鎌倉初期の史論書で、全七巻だ。

作者は慈円である。


承久二年(一二二〇)頃に成立したと考えられている。神武天皇から順徳天皇までの歴史を、末法思想と道理の理念とに基づいて述べている。


『愚管抄』において一番注目すべきは、「保元元年七月二日、鳥羽院ウセサセ給テ後、日本國ノ亂逆ト云コトハヲコリテ後ムサノ世ニナリニケルナリ。コノ次第ニコトハリヲ、コレハセンニ思テカキヲキ侍ナリ。」 という記述だろう。

「コノ次第ニコトハリヲ、コレハセンニ思テカキヲキ侍ナリ。」とは、岩波書店『日本古典文学大系』における『愚管抄』の頭注一七を見てみると「こういうふうになった順序の筋道をこの本は一番の重要な点と考えて書いたのです。」 と説明されている。


さて、作者慈円は源為義に次のように語らせている。


ムゲニ無勢ニ候。郎従ハミナ義朝ニツキ候テ内裏ニ候。ワヅカニ小男二人候。ナニゴトヲカハシ候ベキ。


小男の二字について、頭注四では「この小男は四郎左衛門頼賢、源八為朝を指すか。(もしそうすると)保元物語には為朝の武勇が強調されているのに、愚管抄では「小男」という表現。」 と説明している。

『保元物語』では巨人として描かれている為朝が、実は小男に過ぎなかった可能性もあるのである。

 この点について、岩波書店の『日本古典文学大系』の『保元物語』の解説では


この「小男」とは為義の息男、頼賢と、ほかならぬ鎮西八郎為朝のことである。もちろん、当時の為義の発想を考慮すれば、この言葉を額面どおりには受けとれない面もあるだろう。けれども、これは保元合戦の状況を実見者の日記や聞き伝えにもとづいて精細に描出したと認められる愚管抄の記事である。


と説明している。

 

ただし、別の見方もある。例えば、日下力氏は


従来、同書の為義の言中に、「(自軍には)ワヅカニ小男二人候。ナニゴトヲカハ、シ候ベキ」(同)とあることによって、七尺ゆたかな大男に描かれた物語中の姿との落差が指摘されてきたが、栃木孝惟氏の口頭での御教示によれば、この「小男」は若者の意に解すべきものであって、決して為朝のマイナス評価につながるものではない。


と論文の中で述べている。


いずれにせよ、真の為朝像は今となっては分からない。『愚管抄』においては「小さい男としての為朝像」と解釈するのが正しく、『保元物語』における「巨人としての為朝像」は虚像であると断言することは出来ない。

『愚管抄』における為義の発言の真意が如何なるものであろうと、真の為朝像が何であるかは確たる証拠が出てこない限り、現段階において性急に結論付けることは難しいであろう。


ただ、作品によって記述のされ方が違っているのはそれ程珍しいことではない。

一番有名なのは源義経だろう。

後世における彼の美少年のイメージと、例えば『平家物語』の中の義経像は随分違う。


さて、次に鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』の建久二年八月一日丁丑の条を見てみよう。大庭景能の談話として「鎮西八郎者吾朝無雙弓矢達者也」 と記述されている。

全体の記述は、以下の通りである。


○八月大○一日丁丑。(中略)景能語保元合戰事。(中略)鎮西八郎者、吾朝無雙弓矢達者也。然而案弓箭寸法。過于其涯分歟。其故者。於大炊御門河原。景能逢于八男弓手。八男欲引弓。景能潜以為。貴客者自鎮西出給之間。騎馬之時弓聊不任心歟。景能於東國能馴馬也者。則馳廻八男妻手之時。縡相違。及于越弓之下。可中于身之矢中膝訖。


この点に関して、日下力氏は


些か手柄話めいたこの話がいつ語られたかは、必ずしも同書の記載年月日と一致するものではなかろう。ただし、景能は承元四年(一二一〇)四月九日に没しており(同書)、それ以前のことであったと思われる。その当時から、為朝は「吾朝無双弓矢達者」と評され、為に、景能の手柄話も意味を持っていたのであろう。

と述べている。「吾が朝無雙の弓矢の達者なり」というところからも、為朝の弓矢の腕前が事実であったことは間違いないと言える。


加えて、『尊卑分脈』においても為朝は「日本第一健弓大矢猛将也」 と記述されている。


次に、『兵範記』久寿元年(一一五四)十一月二十六日条における記事を見てみよう。

「廿六日 頭辨依院宣、宣下大夫尉為義停任事。男為知於鎮西為事濫行、其間不加制止、不召進之犯也、」 と記されている。


同様に、『台記』の同日記事も「廿六日乙未、(中略)今日、右衛門尉為義(五位)解官、依其子為朝、鎮西濫行事也、師長五節童女下位、依召參宇治云々、」 と記していることが確認出来る。


ここから、為朝の九州地方での乱暴ぶりが読み取れる。


日下力氏も


九州での為朝の濫行は、保元元年(一一五六)七月の乱に一年八ヶ月遡った時点で、遂に都の父をも巻き添えにするほどの勢いを示していたのであった。もっとも、『兵範記』の文面からは、彼の行為が源氏勢力の拡大をねらう父の容認するものであったらしい事情が推察されるが、それにしても、自らが連座に及ぼうとは、父も夢想だにしていなかったことであろう。一躍、勇名を都にまでとどろかすこととなった為朝の濫行は、なお、とどまるところを知らず、五ヵ月後の翌久寿二年四月三日には、朝廷から与力禁制の宣旨が太宰府に送付されるに至る。


と述べている。


『百錬抄』久寿二年四月三日の条を見てみよう。


「○四月三日。源為朝、居豊後国、騒擾宰府威脅管内。仍可禁遏與力輩之由、賜宣旨於大宰府。」 と、確かに記されている。

このように、九州における為朝の乱暴ぶりが都の朝廷に衝撃を与えたであろうことは想像に難くない。一連の諸史料を見ていくと、「都と地方の対立」という観点から為朝英雄像の形成過程を読み取ることも確かに可能であると頷ける。


いずれにしても何故、為朝は英雄として語り継がれているのだろうか。


「都と地方の対立」以外の点からも考察を加えたい。

また、他の英雄となった武将との違いはあるのだろうか。


以下、更に詳しく考察してみたい。


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