大島
為朝は伊豆の大島へ流されることになるが、信西の命によって左右の肘を鑿で打ち抜かれてしまう。
これは、為朝が二度と弓を引くことが出来ないようにするための処置であった。
だが、道中も為朝の乱暴者ぶりは収まることがない。
「肘抜かれたればとて、為朝、ちとも損あるまじ。弓少し弱くなるとも、矢束はなほ長く引かんずれば、物を通らん事はいとど強くこそあらむずらめ」と散々に悪態をつく始末である。
伊豆に到着しても横柄な態度は変わらず、引き受け人である伊豆国大介狩野工藤茂光も彼の扱いに困り果ててしまう。
『保元物語』において、為朝は以上をもって姿を消す。
ただし、更に為朝が登場する諸本もある。
例えば、佐伯真一氏は以下のように紹介する。
古活字本『保元物語』によれば、為朝は、死ぬ直前に、「私はこれまでずいぶん多くの人間を殺してきたが、『分の敵』は討っても、『非分の物』は討たなかった」と述べたという。何が「分の敵」であり、「非分の物」なのか、厳密な解釈は難しいが、戦場で敵対する者を殺すのは武士としてやむをえないとしても、それ以外の者、無力な者を無意味に殺戮したりしなかったというのであろう。もっとも、この記事は『保元物語』の古態本にはない。『保元物語』にも諸本があるが、古活字本はその中であまり古いものではなく、『保元物語』に本来あった記事とは考えにくいわけである。まして、為朝が実際にこう言ったと考えることは難しい。だが、為朝が実際にそう言ったかどうかは別として、また、後の時代の加筆であるにせよ、「敵を討つことはしかたないが、自分に刃向かう者以外の人間を必要もなく殺すべきではない」という倫理観が、中世に存在していたことは確かだろう。
処刑はされず、遠流に処せられて終わったところから後代様々な伝説が生まれた。
次は、後代に生まれた為朝伝説と、それに伴う為朝英雄像の形成という問題について考察を加えるが、その前に『保元物語』における為朝像のまとめをしておきたい。
陽明文庫本『保元物語』では、合戦を以下のように総括している。
抑、八郎為朝、この軍に、廿四差したる矢二腰、十八差したる矢三腰、九差したる箭一腰、射たりけるが、義朝の甲の星射削りたると、大庭平太が膝の節射切りたる箭二筋ならでは、あだ矢一つもなかりけり。その他、手に懸けて命を失ふ者、数を知らず。されば、為朝、合手の負けはなけれども、御方の運に引かれつつ、落ち行きけるこそかなしけれ。
為朝は今回の合戦において、矢を二十四本差した箙二腰、十八本差した箙三腰、九本差した箙一腰射た。
義朝の甲の星を射削った矢と、大庭平太の膝頭を射切った矢の二筋以外は、無駄に終わった矢は一筋も無かった。
その他、為朝の手にかかって命を失った者は多い。
為朝が味方の運の無さによって逃げ延びることになったのは悲運であった。
陽明文庫本では、このように為朝の敗北を嘆く。
金刀比羅本もほぼ同様の内容である。
注目すべきは半井本だろう。
「為朝、其夜ノ軍ニ、矢三腰ヲ射タリケル。廿四指タル矢一腰、十六指タル矢一腰、九指タル野矢一腰」とあるように、為朝の射た矢の数が少ない。
陽明文庫本、金刀比羅本では矢を二十四本差した箙二腰、十八本差した箙三腰、九本差した箙一腰射たことになっているが半井本では矢を二十四本差した箙一腰、十六本差した箙一腰、九本差した箙一腰射たことになっている。
第四類本に該当する金刀比羅本系統の陽明文庫本『保元物語』においては、このように為朝の活躍をより大きく描写していることが確認出来る。
また、どの諸本においても為朝自身が合戦に敗れた訳ではなく、あくまでも味方の運の無さによって敗れたと結論付けていることも興味深い。
『保元物語』において為朝の活躍ぶりは目を見張るものがある。
彼の孤軍奮闘も空しく最後は敗れ去ることになるが、それだけになお一層為朝の勇猛果敢な姿が読者に強い印象を残すものとなっていると言えよう。