敗走
しかし。
この合戦に勝利したのは為朝方ではなかった。
義朝方が御所に火をかけたのだ。
そもそも、最初に夜討ちを進言したのは他ならぬ為朝である。
その為朝の進言が取り入れられず、逆に敵から夜討ちを受けるとは実に皮肉であると言えよう。
結局、この義朝の夜討ちによって為朝方は敗れることになってしまうのだ。
敗れた為朝は逃亡するが、やがて生け捕られ流罪に処せられることになる。
『保元物語』下「為朝生捕り遠流に処せらるる事」を見てみよう。
ここではまず、人々が噂し合うという形を借りて、語り手による今回の合戦の総括がなされている。
特に目を引くのが次の一文だ。
もし、左大臣殿、為朝が計らひに随ひたまひたりせば、いかがはあらまし
人々をここまで怖がらせた為朝はどうなったのであろうか。
彼は近江国で逃亡生活を送っていたが、土地の住民に気付かれ、遂に攻められてしまう。
追いかけてくる者たちを次々に打ち殺していくもののやがて力尽きる。
生け捕りにされ、都へ連行されるが尋問には何も答えない。
続いて北の陣に連行されるが、ここで都の人々が「鎮西八郎こそ生け捕られて渡さるるなれ。いざや見ん」と大勢見物に来る。
為朝の有名人ぶりが読み取れると言えよう。
連行される為朝の様子は次のように語られている。
「為朝には赤帷に白き水干を着せたり。長七尺に余り、八尺に及べり。痩せ黒みて、脈骨殊に高く、眼大きに、口ひろし。その姿、更に凡夫の類とは見えず。少しも臆の気もなく、四方をにらみ廻して、渡りけり。正清が射たりけるとて、左の頬先少し欠けたりけるが、未だ癒えざりけり。」
このような為朝の恐ろしい様子を見た見物人は「あな、惶しの気色・事柄や。理にこそ、多くの人種をも亡ぼしてけん。鬼神・化物などいふも、かやうにこそあるらめ」と「万人舌を振りて」恐れおののく。
その後公卿の会議があり、為朝の処分が話し合われる。
関白藤原忠通は、
今度の合戦に、御方の兵ども、多く命を損じ、疵を蒙ること、ただこの為朝一人の所行なり。同じ八虐の凶徒と云ひながら、殊更もつてその罪遁れがたし。尤も重科に行はるべしといへども、その庭を遁れ来たり、今まであるうへは、まことに自然の天運と云ひつべし。今更死罪に及び難きか。就中、この為朝、弓箭に長ぜる事、上古にも例なう、末代にもあるべからず。しかるを、忽ちに断罪に及ぶ事、後代の謗りなるべし。もし、また、先非を悔い、野心を飜す事あらば、朝家の御宝たるべし
と言い、公卿一同の賛成を得る。