為朝伝
源為朝は一一三九(保延五)年に源為義の八男として生まれた平安時代後期の武将だ。
母は摂津国江口の遊女であるとされている。
崇徳上皇方として保元の乱に参戦し活躍したが敗戦し、伊豆大島に流された。
一一七〇(嘉応二)年に伊豆介工藤茂光によって攻められ、大島で自害して果てたという。
享年三十二歳であった。
ただし、『尊卑分脈』には、「安元三三六討死」 とあるように、為朝の死を一一七七(安元三・治承元)年三月六日のこととしている。
伝説によると為朝は大島を脱出して琉球に渡ったと伝えられている。
が、恐らくは作り話であろうと推測される。
和歌森太郎氏は「沖縄で史書らしい史書の最初は、十七世紀に成った、羽地朝秀の編『中山世鑑』である。(中略)ちょうど、源義経が東北で死んでも、いやそこで死んだのではない、彼ほどの者ならば脱出して北海道から大陸に出て蒙古のジンギスカンとなって、雄大な帝国をつくったと伝えるのと、同類の発想による話である。」 と述べている。
更に古い文献がある。
一六〇五(慶長十)年に袋中上人によって著された『琉球神道記』(第三巻「波の上示現の事の条」)だ。
以下は引用だ。
さらにさかのぼるならば、近世初頭の慶長十年(一六〇五)に袋中上人の著した『琉球神道記』(第三巻「波の上示現の事の条」)に、「中鎮西八郎為伴(為朝)此国に来たり、逆賊を威して今鬼仁より飛礫なす云々」とある。
この慶長年間には『南浦文集』(文之玄昌著)にも「日本人王五十六代清和天王之孫‥‥王朝源家之嚢祖」とあり、鎮西将軍たる為朝が遠航し琉球をみつけたことが記されている。
以上、文献的に為朝と琉球の関係が確認できるのは、近世初頭あたりということだろうか。馬琴の『椿説弓張月』での着想の原点も、こうした江戸期の為朝伝説の広がりを前提としたものといえよう。馬琴の為朝像はその意味で、かつて点あるいは線として存在していた伝説の記憶を面へと拡大し、庶民意識に浸透させるうえでそれなりの役割を有したようだ。
だが、いずれにせよ史実とは違う。
「史実と違うから」と簡単に退けてしまうことも可能だが、逆に「何故そのような伝説が作られたのか」ということを考える必要もあろう。
一つだけ確かに言えるのは、源為朝が『保元物語』において実にいきいきと描かれていることだ。
後世の伝説が作られたのも為朝という人物の魅力によるものと思われる。
魅力の無い人物は歴史に名を残すことが出来ない。