結婚(1)
成人したジョチは、結婚しなければならない。正式な結婚式をした上で迎える妻を正妻と定義したとしても、正妻は何人いてもかまわない。とはいえ、最初の正妻をどこからもらうのかは重大である。正妻の実家はもっとも心強い味方になる。また、金朝の百人長という、草原の貴人の中では頭一つ抜け出た存在になったばかりのテムジンにとって、自身の長男の結婚は、政治・外交そのものであった。
テムジンの場合、まず幼少期に妻ボルテの実家で1年ほど一緒にすごし、成人後にボルテを迎えに行くという、ごく一般的な結婚の形式を採っている。ジョチの場合はすでに成人しているので、結婚相手が決まると、家人や家畜をともなって妻の実家にむかい、やはり1年ほど一緒に生活して、その後、妻とその付人や家畜を加えて、テムジンより与えられた自身の遊牧地で暮らすことになるはずである。
テムジンは、コンギラト族長デルケク・エメルに結婚申込の使者を送った。デルケク・エメルの娘をジョチの妻とし、と同時に、テムジンの娘をデルケク・エメルの息子に嫁がせるという、二重に縁を結びたいと申し入れた。
テムジンの母ホエルンも、妻ボルテもコンギラト族出身だが、宗家の一族ではない。これに対して、デルケク・エメルはコンギラト宗家の当主である。
デルケク・エメルは烈火の如く怒って言った。
「テムジンの娘だと。そんな器量のない女なぞいらぬ。どうして私の子がテムジンの婿にならねばならないのか」
虫がいいとはこのことであろう。デルケク・エメルは、西遼派の最重要人物の一人であり、金朝とその傘下にあったタタル部族と戦い続けてきた。テムジンは、ジョチを事実上の人質として送ることで、コンギラト族全体を金朝派に寝返らせ、またテムジン自身のケレイト内での発言力を強化しようと画策したのである。
当時、コンギラトを含むモンゴル部族の統率者はジャムーカという人物である。承安二年(1197年)、金朝をよく知るタタル部族の敗残兵を加えて、ジャムーカは沙漠を越えて金朝領内に侵攻するが、金将・完顔匡に撃退されてしまう。戦果がなければ従軍した意味もないため、モンゴル部族の中にはジャムーカを離れてケレイト部族に寝返るものも出てきた。
これを好機と見たオンカンは、オノン河流域にいた、モンゴル部族の中でも大きな勢力を誇るタイチウト族を急襲し撃破した。タイチウトの残存勢力は北のバイカル湖東岸の一大勢力バルグト部族を頼り、また、西方のナイマン部族の下に逃れる者もいた。
テムジンはモンゴル部族内の分裂工作を活発化させていた。ジョチの結婚話は、そうした工作の一環であった。